鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」

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 昔は梅嶺山夜光寺とい真言宗の寺でしが、1293年(永仁元年)日朗の高弟だった日像が開山となって日蓮宗に改められたと伝えられています。また、梅立寺とか梅嶺寺とかの名も伝わっていますが、江戸時代の初めごろ日達によって薬王寺と改められ再興されました。その後、徳川忠長が1633年(寛永10年)高崎で自刃しましたので、妻の松孝院殿(織田信長の次男信雄の娘)は、夫の霊を供養するためにこの寺に墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進しました。こうしたこともあって、一時は3,000坪ほどの境内に五重塔やいろいろな建物が造られるほどの大きな寺になりましたが1720年(享保5年)にすべてが焼失してしまいました。

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