福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」

 「鞆の津の商家」は、江戸時代末に建築された建物で、かつて「鞆製網合資会社」などに用いられていましたが、今日では市の重要文化財に指定され再生・保存されています。外観の美しい建物ですが、なかでも正面右側の土蔵は、2階建ての町家に見えるようにひさしを設けており、他に例を見ないユニークな意匠となっています。

 町家の多くは合併や増築によって造られており、一時期に一気に新築されたものは珍しい。
 これは、特に繁華な港町における町家の浮沈の激しさを反映していると思われます。
 もちろん、町家を新築する際には古材を再利用するのが当たり前で、そのことが建築年代の判定を著しく困難にしています。

福山 鞆 最澄による創建「静観寺」

 創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 のちの小松寺が境内に建立されことからも静観寺がいかに大寺院であったかを示しています。
 しかし、相次ぐ戦乱や火災によって、創建から千二百年の間に五回も焼けています。多くの文化財は焼失してしまいました。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
 平安時代には最澄により静観寺、空海により医王寺が創建され、それぞれ西日本の布教拠点となっりました。

福山 鞆 「心を観る行」ができる「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。
 正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられています。
 自分を見つめ直すことができる癒しのお寺として、「観心行」を行っています。観心行は、日蓮宗の修行ですけど、ここではオリジナルが行われています。
  特に宣伝はしていないようです。
 観心行は、文字通り「心を観る行」。日常の中で自分が行なった良いことや悪いことを思い出し、それらを見つめ直し、手放していく修行。ここでは10分程度のシンプルなものでになっています。

福山 「鞆の大仏」とも阿彌陀如来坐像も「阿弥陀寺」

 1748(延享5)年に、宇和島藩の接待によって朝鮮通信使の宿が「阿弥陀寺」に移ったとき、眺めが悪いためか通信使一行は抗議して船に帰ったといいます。
 通常、朝鮮通信使のための迎賓館として使用されていたのは、福禅寺の客殿で1711(正徳元)年、この客殿からの眺望を「日東第一形勝(対馬から江戸までの間で一番美しい景勝地という意味)」と称賛、従事官の李邦彦はその書を残しています。
 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開されました。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいました。

福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」

 海岸山千手院福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されています。座敷からの海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残しています。
 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。

福山 鞆 「こがらっさん」の愛称の「小烏神社」

小烏の森つわ者どものときの声

 小烏神社は南北朝時代の古戦場としても知られています。
 1349(庄平4)年、足利尊氏の弟・直義の義子であった直冬は、中国(長門)探題として鞆の浦の大可島城に赴任していましたが、ちょうどその頃、高師直(こうのもろなお)と直義が対立。のち、直義が高師直によって追われたことを知った直冬は、高師直・尊氏と兵馬を交えることになります(小烏の合戦)。
 その骨肉相食む合戦の結果、鞆の浦の刀剣鍛冶が発達したのです。

 隣の港まち尾道の浄土寺に、足利尊氏と後醍醐天皇の書状が残っており、この辺りの支配権を争っていたようです。

福山 龍馬評価が変わってきた「いろは丸展示館」

 1988~89年に行われた潜水調査の模様や、その時に引き揚げられた物や調査の様子がわかる写真、そのほかの龍馬に関わる資料などが展示されています。
 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。龍馬は、交渉の部隊を長崎に移すことで時間稼ぎをし、その時間を利用し、様々な工作を行ったようです。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決着しました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。

福山 鞆 水軍の拠点だった大可島「圓福寺」

 当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
 戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
 福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。

 いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用されました。

福山 鞆 鬼子母尊講中お題目碑がある「妙蓮寺」

 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
 福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜りました。
 水野勝成は、福島正則の改易に伴い、備後10万石の領主となって入府。福山と命名して福山城を築いて以来、芦田川河口のデルタを開拓、治水工事とともに城下町として整備しました。

福山 鞆 石山合戦に参加した「明圓寺」

“ 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。
 鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。
 石山合戦は、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いです。浄土真宗本願寺派は、武装もするし、非常に自主性の高く、横並びの感性が非常に高い集団だったそうです。”

福山 鞆 箏曲家宮城道雄の先祖墓がある「南禅坊」

“ 天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
  元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
  なお、境内には、宮城道雄(「春の海」(箏と尺八)の作曲家・箏曲家)の先祖墓がある。 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。”

福山 鞆 新羅へ出兵の淀媛命を祀る「淀媛神社」

 この神社の祭神は淀姫命(よどひめのみこと)。三韓征伐を行った神功(じんぐう)皇后の妹君で、はじめは、海神・大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀った沼名前神社(渡守神社)の祭主を務める身でした。しかし、後世、その徳が偲ばれて氏神として奉斎され、鞆湾の入口を守護する守り神となりました。以降、この高台に鎮座し続け、現在に至っています。
 神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊しました。帰路携帯していた「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として奉任させました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源です。
 数年後に淀姫命は鞆の浦を去りましたが、後世その特を偲び氏神として奉斎し、鞆の浦湾の入口の丘の上に鎮座する護り神として現在に至ります。

福山 鞆 瀬戸内の要港にある古刹「小松寺」

有髪薬師地蔵尊の拝み方

   どこのどんな仏様でもお加護をうけるには一心に拝むことが大切です。
  1.必ずお加護があると信じて
  2.身の心も清浄に雑念を去って
  3.真前に立って合掌し地蔵真言
  「オン.カ.カ.カ.ビ.サン.マ.エ.ソワカ」
  と唱えながら三回薬壷を手でなぜて自分の躰の悪いところをなぜる。
  ボケ封じは頭の頂を抑える。
  4.毎日参詣するのが一番良いが週詣り・月詣りなど回数多くお参りし、
  5.受けたお加護は他の人にも施すこと。

福山 万葉集にも歌われた「昔の鞆の港」

 鞆の浦は、『万葉集』の大友旅人(おおとものたびと)の歌にも詠まれた、全国でも最古の長い歴史を持つ港町で、鎌倉・室町にも江戸時代にも大いに栄えた大都市でした。
 靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。良い港の条件は、水深がある程度大きく、荒天時の波風を避けられる湾や島陰などがあること、そして川がないことで、川が海に流れ込むと、その土砂が堆積して港が埋まってしまうので、川がない方がよいのです。山が迫る海辺が好適地となります。鞆の浦はそうした良港の条件をすべて備えているのです。

福山 戦国時代、安国寺恵瓊が再興した「安国寺」

 この安国寺の歴史が再発見されたのは1949(昭和24)年。解体修理が行われた安国寺の阿弥陀三尊像の中から古文書が見つかった時である。
 安国寺は本来、金宝寺。室町時代に寺社名、歴史が書き換えられたと分かった。
 阿弥陀三尊像、法燈国師坐像やこれらを収める釈迦堂など、安国寺は国、県指定文化財を蔵するが、すべて金宝寺時代のものだと判明した。
(「知っとく? ふくやま」 監修 松本卓臣/平井隆夫より)

 安国寺の住持を務めていた安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)という人物。

 恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。

 更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の拡大に暗躍(ひそかに策動)したが敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。

 それにより安国寺は衰退。東福寺の力が薄れた安国寺が江戸初期に京都妙心寺の末寺となったことから、安国寺と関わりが深かった当寺もそれと同じ道をたどり、東福寺派から妙心寺派へと改まったものと考えられます。

福山 鞆 神功皇后が海路安全を祈る「沼名前神社」

 現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神である。
 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。

福山 鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」

 医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
 坂道や階段を上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺 医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
 高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。
 医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こ鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。
 文政9年(1826年)に、鞆に寄港したオランダの医師のシーボルトも、植物観察のために医王寺を訪れており、この景観を楽しんだでしょう。

福山 子授け・安産.航海安全祈願の「阿武兎観音」

★おっぱいがいっぱい

 階段を上りきると、観音堂に到着。外側の欄干へと顔を出してみると、瀬戸内の海が間近に眺められます。その際、ちょっとひやり、床板が傾いているのでご注意を!
 一方、観音堂の中を眺めると、そこには、壁一面に、奉納された“おっぱい絵馬”が飾られています。安産や子宝を願う女性たちの想いには、胸を打たれますね。

福山 鞆 淀媛神社から医王寺へ

 鞆の入江の砂浜をのんびりと歩くことも出来ます。
 また、路地に入り登っていくと、途中に蘭学者、平賀源内(1728~79)の「平賀源内生祠」があります。平賀源内は、鞆の津の溝川家所有地で陶土を発見し、陶器造りを伝授しました。

福山 西国法華布教の拠点であった「法宣寺」

 1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が、この地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。
 かつては、この正面に「天蓋マツ」とも呼ばれた天然記念物の松がありました。しかし、1991年夏、残念ながら六百余歳で枯死しました。