安元元(1175)年、春小松内府平重盛卿は、父・清盛が守護神として祀った厳島神社参詣の途次、旅の安全を祈願するため船を渡守の地に立ち寄った。重盛は西方の正覚山静観寺の七堂伽藍、空高くそびえ立つ五重の塔の偉容に打たれ、この地に滞在。静観寺(当時で創建370年を超えていた)境内に自作護身の
阿弥陀仏像を安置して一宇を建立し、その際記念に松の木を植えた。重盛は「もし、この松が天に伸びれば平家は栄え、地に這えば平家は衰退するだろう」と言い残す。(樹齢850年の偉容を誇っていたが、昭和二十九年の台風によって倒伏した。)
寿永二(1183)年、平家福原都落ちの際、病死した重盛の二男・資盛は、一族より離れこの地を訪ね、亡き父の菩提を弔うため五、六日逗留した。平貞能、京より重盛公の遺髪を持参し、五輪塔を建立し盛大なる法会を営む。
建武二(1335)年、小松寺は盛大となり、草谷(くさのたに)一帯の山麓を占め、伽藍も盛大だった。
延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。
天正三(1575)年、京を追われた15軍・足利義昭が、当地に宿陣の毛利輝元を頼って当寺に愚居したが、羽柴秀吉と毛利の和議が成立するや、常国寺(山を隔てた熊野町)に移住した。
古人曰く「足利は小松に興り、小松に亡ぶ」といわれた。
慶長年中(1610年頃)、久留米の梅林寺第二世・湘山玄澄が再興し、梅林時と併せ守った。
元和九(1623)年、九州久留米の梅林寺三世・澤雲禅師が京都・妙心寺派として再建・禅刹・法系とし、今日に至る。
延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。
暦応二(1339)年、鞆合戦。南北朝期当寺に本営を置きし北朝軍と大可島に陣する南朝軍との
激戦は十数日にも及び、旧記什物は勿論殿堂灰燼に帰し、大永年中安国寺六世曇叟華禅師再建し禅刹とす。
※暦応三(1340)年とも・・・
大永年中(1525年頃)、安国寺六世・曇隻華(どんそうか)禅師が再建し禅刹とした。
次
頁
へ
その後、備後安国寺の末寺となり、現在は京都・妙心寺派に属する。
慶安年中(1648~1651)、福山藩主・水野勝成が当寺の寺域の大半を祇園宮(沼名前神社)社地とした。この時本尊だった平重盛自作護身の阿弥陀仏
像は水野勝成が回収し同家の菩提寺(賢忠寺)の本尊とした。※現在小松寺には両脇士観音勢士のみ。
貞享二(1685)年、再び境内を割いて社地となされ今日に至る。
本堂前に祀る有髪薬師地蔵尊は、非常に珍しい石仏
で古来霊験顕著として遠近より参詣者が多い。
寛政二(1790)年、琉球使節・向生が、この地で病死した。
寛政八(1796)年、琉球使節(向生の父親・祖
次
頁
へ