福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」

 かつてこのあたりは道の傾斜があまりにも急で、荷車の難所でした。誰かが手を貸して後ろから押さないと坂を上れなかったため、荷車をあと押しするアルバイトがあったそうです。
 現在では、敷地の角の辺りで道の部分を1m近く掘り下げて、傾斜をなだらかにしていす。 よく見ると、建物の石造りの基礎の下にコンクリートの壁が造られていて、まるで建物を持ち上げたように改造がされています。

福山 鞆 坂本龍馬は策略士だった「いろは丸展示館」

 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。
 明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。
 龍馬は、交渉の部隊を長崎に移すことで時間稼ぎをし、その時間を利用し、様々な工作を行ったようです。
 最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決着しました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。

福山 鞆 鍛冶屋たちの氏神様「小烏神社」

 小烏神社は、地元の人たちから「こがらっさん」の愛称で親しまれている神社。福島正則が鞆の浦の城下町を整備した際に、鍛冶工をこの地域に集めて鍛冶屋町を造りました。その中心にあるのが小烏神社です。創建の年代はよくわかっていませんが、室町時代の後期に、鍛冶を生業とする人たちが、氏神様として祀ったのが起源ではないかといわれています。

 12月には例祭である「ふいご祭り(鉄鋼祭)」も開かれます。現在の神社の境内は、1864(元治元)年に林半助らにより整地されたものだといいます。鞆鍛冶の伝統を今に伝えるお社さんです。

福山 鞆 戦国時代、安国寺恵瓊が再興した「安国寺」

 無本覚心(法燈国師)を開山として、1273年(文永十年)に釈迦堂(仏殿)を、翌年に阿弥陀三尊像を造立した『金宝寺』が、備後安国寺の前身です。
 安国寺の歴史が再発見されたのは1949(昭和24)年。解体修理が行われた安国寺の阿弥陀三尊像の中から古文書が見つかった時です。
 安国寺は本来、金宝寺。室町時代に寺社名、歴史が書き換えられたと分かりました。阿弥陀三尊像、法燈国師坐像やこれらを収める釈迦堂など、すべて金宝寺時代のものだと判明しました。

福山 鞆 明治八年に官命によって社名が「沼名前神社」

 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
 さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。

福山 鞆の浦 鞆湾の全景が見える「医王寺」

 「医王寺」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
 医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。晴れた日の早朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝日に出会うこともできます。

福山 鞆 初代藩主水野勝成がこの地区を開発「妙蓮寺」

 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
 福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
 福島正則の改易に伴い、水野勝成が1619(元和5)年、備後10万石の領主となって入府。福山と命名して福山城を築いて以来、芦田川河口のデルタを開拓、治水工事とともに城下町として整備した。
 勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。

福山 古くからの航路、航海安全を祈願「阿武兎観音」

 磐台寺観音堂(臨済宗)

 1570~73年(元亀年間)に、毛利輝元によって再建された観音堂で、国の重要文化財に指定されています。急峻な岩肌に、青々と飛沫をぶつける瀬戸内の海。その荒々しい自然の中にあって、この異国情緒漂う朱塗りの観音堂が、妙に調和して見えるから不思議です。
 その美しさは古くから名高く、安藤広重の浮世絵や、志賀直哉の小説「暗夜行路」の中でも取り上げられているほど。一度は訪れてみたい名所です。

福山 鞆 新羅へ出兵の淀媛命を祀る「淀媛神社」

神功皇后の妹君の「淀媛命」
 十四代仲哀天皇の后であられた神功皇后が、新羅へ出兵に際し、諸国に使令を出して船舶を集め武器鎧をお揃えになった。 また皇后は、妹の淀姫命を松浦に遣わし兵と船を集められた。松浦地方の族長である磯良(しら)を伴い此の地の海辺・膳崎(かしわざき)に着船された。

福山 鞆の浦 十三仏が極楽浄土へ「地蔵院」

 十三の仏とは、亡くなった人が極楽浄土へと進めるように導いてくれる閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏達です。
 十三の仏は、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩、です。

福山 鞆 坂本龍馬「いろは丸展示館」

 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決蒲ししました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。

福山 鞆・備前・備中・備後の日蓮宗の重要寺院「法宣寺」

 友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!

福山 鞆 瀬戸内の要港にある古刹「小松寺」

 安元元(1175)年、春小松内府平重盛卿は、父・清盛が守護神として祀った厳島神社参詣の途次、旅の安全を祈願するため船を渡守の地に立ち寄った。重盛は西方の正覚山静観寺の七堂伽藍、空高くそびえ立つ五重の塔の偉容に打たれ、この地に滞在。静観寺(当時で創建370年を超えていた)境内に自作護身阿弥陀仏像を安置して一宇を建立し、その際記念に松の木を植えた。重盛は「もし、この松が天に伸びれば平家は栄え、地に這えば平家は衰退するだろう」と言い残す。(樹齢850年の偉容を誇っていたが、昭和二十九年の台風によって倒伏した。)

福山 古くは澳(沖)の御堂と言われ「本願寺」

 時宗寺院の多くは海港に分布しています。福山の鞆には興楽山陽場院本願寺、雲波羅山福寿院永海寺があったのですが、永海寺は1754年に焼失し今はありません。
 本願寺は古くは澳(沖)の御堂と言われました。隣の港町尾道には海徳寺、常称寺、海福寺、西郷寺、慈観寺等が存しています。尾道の時宗寺院で最も古いと言われる海徳寺も沖の道場と言われ、かつては尾道港の沖にあって常夜燈をつけて行き交う船の標となっていたのではと推察され、本願寺もかつては現在の場所ではなく海辺に寄った所にあり海徳寺と同じ役割を果たしていたのではないでしょうか。
 ちなみに寺院の呼称に沖を用いるのは時宗のみだそうです。

福山 鞆 最澄による創建「静観寺」

 平安時代には最澄により静観寺、空海により医王寺が創建され、それぞれ西日本の布教拠点となった。南北には北朝と南朝間で幾度も戦闘があり、静観寺五重塔など貴重な文化財が失われた。また鞆の浦が足利尊氏の再起の拠点となり、室町幕府成立へ重要な役割を担った。戦国時代に入ると、毛利、尼子勢の間で拠点争いの地となった。毛利氏擁護の下で室町幕府15代将軍足利義昭が長期滞在、鞆幕府とも呼ばれた。

福山 鞆 オリジナルの観心行を行う「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた、と伝えられています。

福山 鞆 福山藩との結びつきが強かった「明圓寺」

 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。
 浄土真宗の開祖、親鸞の人間洞察は、「どんな人聞にも、どこかに人殺しの血が流れている」というもの。
 人を殺すことはいけないと戒めていても、何かの契機で人殺しに走ることもあると、人間の奥深くにある「悪」を洞察しています。そして、そのような悪人が阿弥陀さんのおかげで救われるのだから、これはたいへんありがたい、と。

福山 鞆 きつい坂や階段を上って行くと「医王寺」

 きつい坂や階段を上って行くと、後山中腹に真言宗の医王寺があります。医王寺は平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺。
 坂の途中に、「平賀源内生祠」があります。

 眼下に広がる瀬戸内海や鞆港を一望できます。

福山 鞆 江戸時代の石造では全国最大級「常夜灯」

 江戸時代の石造り常夜燈としては全国最大級で、北面に「営所祇園宮」、南面に「金毘羅大権現」の石額と掲げて、それぞれ該当する方向の神社に対する寄進・灯龍という形式を取っているんです。
 航海の無事を祈願する一方で、港湾施設として海に突き出して配置し、航行の際の目印として安全を図っています。
 この辺り(備後地方)が瀬戸内海の中央になります。海流が東西からぶつかり、海水が上下に撹拌されるため、このあたりの魚は味が良いと言われています。

福山 鞆 かわいい石仏立ちが「正法寺」

 当寺は慶長三年(1598年)京都・臨済宗東福寺派の守意を開基とし、元和九年(1623年)深溪和尚(しんけいおしょう)により妙心寺の末寺として再興されました。
 深溪和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、奇木や珍石を多く集めて庭に数奇を凝らしたといわれ、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。
 本堂の掲示:「1日一度は静かに坐って身(からだ)と呼吸を整えましょう。人間の尊さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう。生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう。」
 ロシアのプーチンさんに読んでもらいたいですね!