江戸時代の石造り常夜燈としては全国最大級で、北面に「営所祇園宮」、南面に「金毘羅大権現」の石額と掲げて、それぞれ該当する方向の神社に対する寄進・灯龍という形式を取っているんです。
航海の無事を祈願する一方で、港湾施設として海に突き出して配置し、航行の際の目印として安全を図っています。
この辺り(備後地方)が瀬戸内海の中央になります。海流が東西からぶつかり、海水が上下に撹拌されるため、このあたりの魚は味が良いと言われています。
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鎌倉 新田義貞が戦勝を祈願「小動神社」
1333年(元弘3年)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをして北条氏を滅ぼしたとき、神社に戦勝を祈願し、成就(じょうじゅ)の後に黄金(こがね)作りの太刀(たち)と黄金(おうごん)を寄進(きしん)したので、それで社殿を再興したと伝えられます。
その後もたびたび修理や再建が行われました。現在の社殿のうち本殿は、江戸時代の1817年(文化14年)に、腰越全町の人々が協力して建てたものですが、改修されています。また拝殿は、1929年(昭和4年)に建てられたもので、これも改修されています。
1868年(明治元年)の神仏分離(しんぶつぶんり)で小動神社と名を改めました。また、1909年(明治42年)は村内にあった諏訪社がここに移されたので、建御名方神(たてみなかたのかみ)もいっしょにまつっています。
尾道 幼少時代尾道で過ごした「林芙美子像」
鎌倉 焼き討ち時、日蓮救った白い猿「長勝寺」
座間 齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名が氏神「日枝大神」
福山 鞆 かわいい石仏立ちが「正法寺」
鎌倉 忍性が熊野本宮から勧請した「熊野神社」
尾道 もとは向島にあった信行庵が移転「信行寺」
1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。
1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。
厚木 鎌倉幕府の御家人安達藤九郎盛長が勧請「八幡神社」
鎌倉 江戸期に当地へカムバック「成就院」
福山 鞆 福島正則が埋め立て陸続きに「圓福寺」
当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。
いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用されました。
尾道 岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」
鎌倉 四季の花が楽しめる「長谷寺」
相模原市南西 庚申信仰の本尊を祀る「勝源寺」

勝坂の金沢山勝源寺は、曹洞宗愛甲郡小野竜鳳寺末で開山は笑山充間(寛永五年没)、開基は村民伊右衛門(寛永10年没)である。ここの青面金剛は明治時代に養蚕祈願の庚申さまとして賑わったお寺です。
青面金剛は中国の道教が基礎となった庚申信仰の本尊です。庚申信仰では、人の身体には三匹の虫「三戸(さんし)」がいて、庚申の日の夜には人が寝ている間に抜け出し、天帝に宿主の罪科を報告すると考えられています。悪行が伝わると寿命を短くされてしまうため、皆で集まって徹夜する「庚申待ち」という風習が生まれました。
厚木 弘法大師の伝説、荻野川「秋葉神社」
【石になったサト芋】
今から約1200年前(8百年代)、全国を行脚していた弘法大師は、ある夏の日、この荻野にさしかかりました。すると、一人の農婦が、源氏河原で取りたてのサト芋をざるで洗っていました。土手の上から、それを見た大師は、イモを洗う農婦の見事さに見とれてしまい、いつの間にか、その農婦の後ろまで近寄っていました。そして、丁寧に頭を下げた大師は、その農婦に「私は旅をしている者です。この辺りは山が多く、宿屋もありません。すまないが、そのサト芋を恵んではくれませんか」と話し掛けました。ところが、その農婦は「このサト芋は石のように硬いので食ぺられません。水も少ないので……」と、大師(頼みを何となく断わりました。………