鎌倉 行基が行脚の途中修行した「虚空蔵堂」

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 正式な名称は、明鏡山円満院星井寺
 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
 石段を上ると虚空蔵堂があります。ここは道の向い側の山の上にある成就院が管理している所です。
 本尊の虚空像菩薩は、はかり知れない福徳と知恵をそなえて常に人々にこれを与え、すべての人の願いごとをかなえてくださる仏様といわれています。
 源頼朝もこれを敬い、ご本尊は秘仏として35年に一度だけ拝めるようにしました。けれども今は、毎年1月13日に御開帳して拝めるので、受験の時期でもあり、たくさんのお参りがあります。


鎌倉 中世の状況を残す「浄光明寺」

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 山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがあり、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫があります。重要文化財の阿弥陀三尊像等は収蔵庫に安置されています。これらのさらに裏手、狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されています。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓があります。境内は、谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されています。


鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

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祭神菅原道真公。
 菅原道真は、日本の学者の元祖の中の一人で、一流の政治家として活躍し右大臣にまでなった。33才の時には文部省次官クラスの地位と文章博士の位を得た。父祖以来の私塾である「藤原廊下(東大と京大を一緒にしたようなもの)」を引き継ぎ、そこの学長になった。
 57才の時、突如として右大臣の職を引き下ろされ、九州の太宰府へ追いやられた。その2年後に死んだのですが、死後のもてはやされぶりは異常です。すぐに元の官位に復し、90年後には正一位・左大臣、その半年もたたない内に太政大臣が送られました。


鎌倉 新田義貞が戦勝を祈願した「小動神社」

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 小動(こゆるぎ)の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。
 縁起によれば、源頼朝に伊豆配流(はいる)の時代から仕えた佐々木盛綱(もりつな)が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請(かんじょう)したものと伝えられています。元弘三年(1333)五月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。


鎌倉 通称“銭洗い弁天”の「銭洗弁天宇賀福神社」

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 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
 翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
 北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。


鎌倉 関東大震災の津波がここまで来た「延命寺」

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 下馬一交差点の近くにある浄土宗寺院。山号は帰命山。もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。北条時頼室の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。なお、赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあつたというが、いまはない。
 運慶作と伝えられる「木造地蔵菩薩立像」は、夫人の身代わりとなったことで夫人の守護仏とされている。裸形彫刻で普段は袈裟を纏っている。
 1923年の関東大震災では、滑川を遡上した津波がこの辺りまで来たという。


鎌倉 北条は一族が最後を遂げた「東勝寺跡」

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 東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建した寺院。1333年5月22日、新田義貞鎌倉攻めの時、新田軍が、若宮大路まで迫ってきた事を知った北条は一族郎党870名余りとここに立て篭もり、火をかけて最後を遂げた。鎌倉幕府滅亡の地。
 寺はその後、直に再興され、室町時代には関東十刹の第三位に列する名刹となりましたが、戦国時代には廃絶しました。


鎌倉 災難から日蓮を救った白い猿「長勝寺」

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 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝が日蓮に帰依し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺になったのを日静が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺と名付けられたと伝えています。


鎌倉 一番古い神社だった「甘縄神明宮」

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 俗に甘縄神明と呼ぶ。祭神天照大御神・配祀倉稲魂命・伊邪那美命・武饗槌命・菅原道真。例祭九月十四日。元村社、長谷区の氏神社。社伝では天平年中の勧請という。
 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』によると、和銅三年(710)八月行基の草創。染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建て、のち源頼義が相模守となって下向した時、平直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家をこの地で産んだと伝える。直方は時忠の婿であった。


鎌倉 「北条義時法華堂跡、大江広元の墓」

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法華堂跡
 1247年6月5日、三浦対北条・安達の宝治の乱のおり、三浦泰村は館を攻められ、一族を率いて、この法華堂に立て篭もった。北条時頼の兵に攻められ、終に泰村、光村以下の三浦一族と此れに加担した島津、毛利を含めて500人が、この法華堂で自害した。


鎌倉 宮内省よりの下賜金で造営「葛原岡神社」

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 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 明治天皇は日野俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、1884年勅旨をもって従三位を追贈され、1887年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われた。


鎌倉 松葉ヶ谷霊跡「安国論寺」とも言う

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 長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。
 開山は日蓮とするが、弟子の日朗が1260年に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。
 日蓮上人の鎌倉草庵の地。


鎌倉 足利尊氏が自邸の跡地に創建「長寿禅寺」

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 山ノ内建長寺から小袋坂を下って、明月院踏切へさしかかる途中の左側の小高い石段の上が長寿寺である。亀ケ谷坂はこのお寺の脇へ下りてくる。
 石段を昇ると山門前にはこの坂の象徴亀公をふまえた石塔がある。なるほど、亀は万年というから、それで長寿寺か。昔の人は智慧がある。
 開山は古先印元(こせんいんげん)禅師。創建は1323年から1336年頃。開基は足利尊氏。
 足利尊氏が自邸の跡地に創建、尊氏没後に子の足利基氏が堂宇をととのえたという。


鎌倉 本寺の禅興寺は衰退「明月院」だけが残る

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 明月院を、多くの人が訪れるのは初夏の頃……紫陽花の咲く時分です。
 あじさい寺。の別称があるほど有名なこの寺のことですから、数百株の見事な、丹精こめた植え込みが、石の総門から始まって、老い朽ちた山門をくぐりだらだら上りに左折して本堂前の庭へくるまで、びっしりと左右に並んで夢幻のように花を咲かせます。
 まことに幽玄、閑雅、静識の極致。


鎌倉 元軍が再襲来しないことを祈った「覚園寺」

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 1218年に北条義時が大倉薬師堂を建立したのが始まり、1296年、九代執権北条貞時が、元軍が再襲来しないことを祈り、寺に改めた。開山は智海心愛慧。
 その後、火事で焼失したが1354年、足利尊氏によって再建された。この寺は後醍醐天皇の勅願所、足利尊氏の祈願所となり保護を受け、代々の為政者の手厚い保護を受けてきた。
 鎌倉には、谷(やつ)に立っているお寺さんが多いが、この各園寺はその典型的なお寺です。


鎌倉 北条政子の墓といわれている石塔「安養院」

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 安養院の地には、尊観(そんかん)が開いた浄土宗の善導寺(ぜんどうじ)がありましたが焼失しました。北条政子が亡き夫頼朝の冥福を祈って、笹目に建てたともいわれる長楽寺が、兵火に焼かれてしまったため、鎌倉末期にここに移され、政子の法名である安養院を院号とし、これが寺名になったと伝えられています。
 その後、安養院は1680年(延宝8年)の火災で全焼しましたが、源頼朝の家臣田代信綱(のぶつな)が建てた比企ケ谷(ひきがやつ)の田代寺(たしろじ)の田代観音堂を移して再興しました。

鎌倉 北条政子の墓と伝わる五輪塔「寿福寺」

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 1200年 源頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師(緑茶を伝えた人物—茶そのものは奈良時代に伝わっていた。)を開山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺。
 源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。
 明治維新で神仏分離で鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)の仁王門にに祀られていた仁王様が移築されています。


鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」

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 もとは真言宗の寺でしたが、1253年(建長5年)鎌倉幕府6代将軍宗尊親主(むねたかしんのう)の命により、藤原仲能(なかよし)。しかし、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡の時に焼失してしまいました。
 その後1394年(応永元年)鎌倉公方(くぼう)足利氏満(うじみつ)の命により、上杉氏定(うじさだ)が源翁禅師(げんのうぜんじ)(心昭空外(しんしょうくうがい))を開山に招いて再建しました。それからは扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄え、1577年(天正5年)に建長寺に属し、現在に至っています。

鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」

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 もとは関東平氏五家の始祖、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされています。その後、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。
 後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。
 景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれている。例大祭には県の無形文化財に指定される「面掛行列」が行われます。

鎌倉 北条方の戦死者を弔う「九品寺」

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 創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
 1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
 北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。『太平記』
 鎌倉では唯一の義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。