龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧が建てたともいわれます。
室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。
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鎌倉 墓碑58基、灯籠118基ほか「内藤家墓地」
鎌倉 日蓮上人が草庵をむすんだ寺「長勝寺」
鎌倉 毎夜山麓から赤子の声が「海蔵寺」
鎌倉 枯山水のお庭がある「浄妙寺」
鎌倉 風情のある住居のような「長寿禅寺」
鎌倉 蛭子は「えびす」とも読む「蛭子神社」
鎌倉 観音さまの安置によい場所「杉本寺」
鎌倉 北条家歴代の尊崇を集めた「覚園寺」
鎌倉 開基の北条時宗の廟所「仏日庵開基廟」
鎌倉 後醍醐天皇が書かれた額「光触寺」
鎌倉 天狗の姿をした「半僧坊大権現」
後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた方広寺(静岡県浜松市)が半僧坊の本元と言われています。
無文元選は、父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家、その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国するとき嵐にあい、そのとき、今にも大波に飲み込まれそうな船中で禅師が観音経を唱えていると、鼻が高く眼光の鋭いひとりの異人が現れました。この異人が「わたしが禅師を無事、日本にお送りします」と、船頭や水夫を指揮して台風を見事乗り切り、博多の港へと導いて姿を消したのでした。
その後、禅師が方広寺を開くと、その異人が再び姿を現し「弟子になりたい」と願いました。禅師は「あなたは、半ば僧のようなところがある」と言われて弟子になることを許し、そこから「半僧坊」と呼ばれ修行に励むことになりました。
鎌倉 太田道灌の屋敷跡に「英勝寺」
鎌倉 首つぎのぽたもち伝説の「常栄寺」
鎌倉 昔、多宝寺があった跡に「妙傳寺」
鎌倉 [おんめさま]の名で親している「大巧寺」
鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」
鎌倉 五つの神社が一つに「五所神社」
鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」
鎌倉 正式名は由比若宮の「元鶴岡八幡宮」
元八幡は、相模守であった源頼義(よりよし)が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
後三年の役のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。
元八幡は、源氏と鎌倉のつながりのできた初めです。この神社は、由比ヶ浜の八幡宮とも呼ばれていたようです。由比ケ浜の湾が、このあたりまで入り込んでいたといわれる当時の地形からみて、神社は海に面した海岸近くに建てられたと思われます。