鎌倉 日蓮が斬首を免れた霊場跡「龍口寺」

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 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧が建てたともいわれます。
 室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。

鎌倉 墓碑58基、灯籠118基ほか「内藤家墓地」

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 磐城平(福島県浜通南部)から日向延岡(宮崎県)へ移封となった内藤家の墓地。
 代々のものが一墓地に建立されている。 高さ3mに及ぶ大宝筺印塔などが多く、他に笠塔婆、仏像形、五輪塔形、各塔婆形がある。
 不思議な雰囲気が漂っている墓地です。 入口は施錠されていて中には入れませんが、道路の位置が2~3m高い位置ですので、よく見えます。今は幼稚園で分離されていますが、光明寺の墓地の一部なのでしょう。このような大規模の大名の墓所がひとつにまとまっているのはめずらしいのだそうです。

鎌倉 日蓮上人が草庵をむすんだ寺「長勝寺」

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 安国論寺とならび、日蓮上人が松葉が谷に来て初めて草庵をむすんだ寺といわれる。
 石井長勝が日蓮に帰依し、1263年に本圀寺を創建したのが始まり。
 日蓮上人の四大法難のひとつである「松葉が谷焼打の法難」はこのあたりであったと伝えられる。その後廃寺となったのを日清が再興し、開基の石井長勝にちなんで長勝寺と名づけた。

鎌倉 毎夜山麓から赤子の声が「海蔵寺」

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 創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。
 この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開している。
 夏の満月の夜、このあたりに来てみるのも一興かも。

鎌倉 枯山水のお庭がある「浄妙寺」

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 臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第五位。山号は稲荷山、浄明寺所在。文治四年(1188)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝える。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅剰に改め、次いで寺名も改称するにいたった。改宗時期は正嘉年間(1257-59)のはじめ、と推定されている。歴代には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など、名僧が多い。中興開基は足利貞氏。盛時には三門・仏殿・法堂・禅堂・経堂などが軒を並べ、霊芝庵・瑞龍庵・法雲庵等々の塔頭もあったが、震災や火災で滅んだり廃絶したりして、現在は本堂・庫裡・荒神堂等が伽藍を形作りている。全域史跡指定。

鎌倉 風情のある住居のような「長寿禅寺」

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 建長寺から小袋坂を下って、明月院踏切へさしかかる途中の左側の小高い石段の上が長寿寺。亀ケ谷坂はこのお寺の脇へ下りてくる。
 石段を昇ると山門前にはこの坂の象徴亀公をふまえた石塔がある。なるほど、亀は万年というから、それで長寿寺というのでしょうか。昔の人は智慧があるのですね。
 開山は古先印元。開基は足利尊氏といわれています。

鎌倉 蛭子は「えびす」とも読む「蛭子神社」

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 昔、本覚寺の鎮守でその境内にあった夷三郎(えびすさぶろう)をまつる夷堂が、明治時代になって寺と分けられてこの地に移り、蛭子神社と名付けられました。この場所には、もと小町下町(こまちしもまち)の鎮守の七面大明神(しちめんだいみょうじん)が、小町上町(こまちかみまち)の宝戒寺の鎮守であった山王大権現(さんのうだいごんげん)とー緒にまっられていました。
 本殿は、1923年(大正12年)の関東大震災で壊れましたが、1933年(昭和8年)改築されました。

鎌倉 観音さまの安置によい場所「杉本寺」

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 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。

鎌倉 北条家歴代の尊崇を集めた「覚園寺」

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 古義真言宗京都泉涌寺派。もとは真言・律・禅・浄土の四宗兼学であったが、明治初年に兼学が禁止されて本山泉涌寺が古義真言宗を標榜したのに伴って古義真言宗となった。開山は智海心慧、開基北条貞時。鷲峰山真言院覚園寺と号す。
 この寺の前身は建保六年(1218)に北条義時が建てた大倉薬師堂だという。それ年寺に改め覚園寺としたのは永仁四年(1296)のことである。元冦の難を逃がれることを祈ってのことであうった。鎌倉時代を通じて北条氏の滅亡後建武中興に際しては後醍醐天皇の勅願所となった。建武の中興後は足利氏の祈願所ともなり、代々の為政者に保護されている。

鎌倉 開基の北条時宗の廟所「仏日庵開基廟」

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 中国から日本へ渡来した無学祖元は、元の襲来を前にした北条時宗に、一喝を加えて励ました。「莫煩悩(まくぼんのう)」=「煩悩する莫(なか)れ」現在の情況をありのまま見ることを怠り、ありもしない妄想にふりまわされてノイローゼになることを戒めたのだ。元軍20万の妄想を払うと、作戦がはっきりしてきた。
 北条時宗は元寇を退けたものの、異国相手では没収できる土地がなく、手柄のあった者にもわずかな恩賞しか与えられなかった。このため、多くの武士が幕府に反感を抱く。こうして鎌倉幕府は衰退へと向かっていくのだった。

鎌倉 後醍醐天皇が書かれた額「光触寺」

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 もとは真言宗の寺でしたが、1279年(弘安2年)に一に帰依した作阿を開山とし、時宗に改めたといいます。開山とは、新しく寺を造ったときの創立者の僧のことです。
 現在の本堂は、改修されていますが江戸時代の建物で、内部の正面には後醍醐天皇が書かれたと伝えられる「光触寺」の額が掲げられ、本堂内陣の装飾は美しい極楽の世界を作り出しています。本堂の前を横切ると池があり、その奥に菖蒲園があります。

鎌倉 天狗の姿をした「半僧坊大権現」

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 後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた方広寺(静岡県浜松市)が半僧坊の本元と言われています。
 無文元選は、父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家、その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国するとき嵐にあい、そのとき、今にも大波に飲み込まれそうな船中で禅師が観音経を唱えていると、鼻が高く眼光の鋭いひとりの異人が現れました。この異人が「わたしが禅師を無事、日本にお送りします」と、船頭や水夫を指揮して台風を見事乗り切り、博多の港へと導いて姿を消したのでした。
 その後、禅師が方広寺を開くと、その異人が再び姿を現し「弟子になりたい」と願いました。禅師は「あなたは、半ば僧のようなところがある」と言われて弟子になることを許し、そこから「半僧坊」と呼ばれ修行に励むことになりました。

鎌倉 太田道灌の屋敷跡に「英勝寺」

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 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」[文献]『市史』社寺編、小丸俊雄『東光山英勝寺』より)

鎌倉 首つぎのぽたもち伝説の「常栄寺」

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 常栄寺は「ぼたもち寺」とも呼ばれて親しまれているが、なぜそう呼ばれるかといえば、文永8年(1271)9月12日の出来事にさかもぼる。幕府に捕らえられた日蓮が、片瀬の龍ノ口で処刑されるされそうになると、日蓮に帰依していた棧敷の尼が、ゴマのぼたもちを日蓮に捧げた。すると、形状に雷鳴がとどろき、稲妻がひらめき、刑吏の刀が折れ、日蓮は一命を取りとめたと伝えられている。

鎌倉 昔、多宝寺があった跡に「妙傳寺」

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 道路拡張によって東京都文京区白山にあったお寺を1974年2月に移転。
 紀州徳川頼房の祈願所として創建、戦災によって本尊、寺宝、寺史などを消失している。
 ここにはかって室町時代まで、律宗の多宝寺があった。裏山には石の造形物があるが、道が整備されていないようです。
 旧本尊は妙見北辰菩薩、現在は日蓮坐像。妙見北辰菩薩は 1945年(昭和20年)の戦災で焼失してしまったとのことです。妙見北辰菩薩は、源頼朝や日蓮が崇拝し、日蓮宗の寺院によくみられます。

鎌倉 [おんめさま]の名で親している「大巧寺」

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 「おんめさま」(おうめさま)の名で親しまれている安産祈願の寺。創建は1320年と伝えられています。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになった。
 境内にて 季節ごとに多くの種類の花々がさきます。

鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」

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 明月院を、多くの人が訪れるのは初夏の頃……紫陽花の咲く時分です。
 あじさい寺。の別称があるほど有名なこの寺のことですから、数百株の見事な、丹精こめた植え込みが、石の総門から始まって、老い朽ちた山門をくぐりだらだら上りに左折して本堂前の庭へくるまで、びっしりと左右に並んで夢幻のように花を咲かせます。
 まことに幽玄、閑雅、静識の極致。

鎌倉 五つの神社が一つに「五所神社」

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 この神社は、1908年(明治41年)に町内にあった三島(みしま)・八雲(やくも)・諏訪(すわ)・金比羅(こんぴら)・見女八坂(みるまやさか)の五つの神社を一緒にしてまつったものです。祭神は大山祇神(おおやまづみのかみ)・素戔嗚尊(すさのうのみこと)・建御名方命(たけみながたのみこと)・崇徳院霊(すとくいんのみたま)・天照大神(あまてらすおおみかみ)で、毎年6月の第2日曜には盛大な祭りが行われています。

鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

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 菅原道真公を祀る天神社。日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)
菅原道真の死後、京都に伝染病が蔓延、雷の被害続出などの異変(“道真のたたり”と考えられた)を押さえるためだったのでしょうか。いまでも雷が鳴ると「くわばら、くわばら」と言う地域があります。桑原は菅原道真の領地、そこには雷が落ちなかったため、雷様に「ここは桑原ですよ」と教え、雷を落とさないよう願ったためだそうです。

鎌倉 正式名は由比若宮の「元鶴岡八幡宮」

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 元八幡は、相模守であった源頼義(よりよし)が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。
 元八幡は、源氏と鎌倉のつながりのできた初めです。この神社は、由比ヶ浜の八幡宮とも呼ばれていたようです。由比ケ浜の湾が、このあたりまで入り込んでいたといわれる当時の地形からみて、神社は海に面した海岸近くに建てられたと思われます。