磐城平(福島県浜通南部)から日向延岡(宮崎県)へ移封となった内藤家の墓地。
代々のものが一墓地に建立されている。 高さ3mに及ぶ大宝筺印塔などが多く、他に笠塔婆、仏像形、五輪塔形、各塔婆形がある。
墓碑58基(宝筺印塔40基、笠塔婆12基、仏像形4基、五輪塔形1基、角塔婆形1基)、 灯籠118基、手水鉢17基、地蔵尊等9基 (鎌倉市教育委員会)
不思議な雰囲気が漂っている墓地です。 入口は施錠されていて中には入れませんが、道路の位置が2~3m高い位置ですので、よく見えます。今は幼稚園で分離されていますが、光明寺の墓地の一部なのでしょう。このような大規模の大名の墓所がひとつにまとまっているのはめずらしいのだそうです。
内藤家は陸奥国(むつのくに)磐城(いわき)(今の福島県いわき市)城主の7万石の大名で、江戸での菩提寺(ぼだいじ)は霊巌寺(れいがんじ)でしたが、4代忠興(ただおき)が光明寺に移し、以後ここが内藤家の墓所となりました。内藤家は、1747年(延享4年)に日向国(ひゅうがのくに)(今の宮崎県)延岡藩7万石に移されています。
墓地に入るには光明寺の許可が必要ですが、墓地には歴代当主を中心に、その家族や側近の家臣などの墓もあり、「寛永十一年」(1634年)~「文久三年」(1863年)という江戸時代全体の期間の石塔があります。大型の宝篋印塔は、高さが3~4m位のものが多く、39基を数えます。中でも最大のものは「延宝二年」(1647年)に建てられた忠興の墓で、4.57mの高さです。宝篋印塔の周囲には、2mを越す灯籠(とうろう)が多数あり、六観音(ろくかんのん)・六地蔵(ろくじぞう)などの石仏や手水鉢(ちょうずばち)、笠付(かさつ)きき角柱塔(かくちゅうとう)も見られます。一カ所に集められているため、大名家の墓地としてはやや狭い位の所ですが、大きな石塔が立ち並ぶ様子は見事なもので、江戸時代の石塔の変化を知ることができる貴重な史跡として大切に保存したいものです。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より