厚木 曹洞宗僧侶の修行道場だった「清源院」

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 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。
 天巽和尚は、足柄の最乗寺15世を勤めた人、最乗寺での務めを終えられて沼田の龍華院に帰る途中、上州で起きた戦乱に巻き込まれることを避け、上荻野にある松石寺に足止めされていたとき、松石寺の住職の地位を譲られた天巽は、三田にあり荒廃していた天台宗清源院の再建に乗り出す。曹洞宗に改められた清源院は、天巽派の寺院として復活を遂げる。


鎌倉 非公開の「平家の赤旗」ある「補陀洛寺」

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 「平家の赤旗」といわれるものがあります。1185年(文治元年) 3月、平氏は壇ノ浦で滅びましたが、そのとき平家の総大将の平宗盛が最後まで持っていたのがこの旗だといわれ、捕らえられて鎌倉に来たときにこの旗を頼朝に献上し、頼朝が補陀洛寺に奉納したといわれています。旗には「九万八千軍神」と書かれており、合戦のときにたくさんの軍神に祈ったことがわかります。ただし非公開です。
 平家の「軍神」は、「伝書鳩」で通信を行っていた源氏に勝てなかったのでしょうか?

鎌倉 窟内に清水が湧出する「銭洗弁天宇賀福神社」

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 窟内には清水が珍しく湧出していて鎌倉の名水の随一である。往時福神とか福人とかが銭を洗っていたといふ因縁から、この清水を銭洗井の名跡で僅かに語り伝へてゐる。
 この銭洗井に今日弁財天の北ってあることには不思議はない。佐介谷は平常寂しいところで、一方稲荷社の参詣道には人家も少しはあるか、こちらの窟の方へは全くの野径そのままである。それが1年一度は大層な信者を引つけてゐた。世界大戦景気(第一次大戦のこと)の熾んなことがこの弁財天流行の絶頂と云ってよかったろう。信者は主として横浜あたりから来てゐた。大正九年の春であったかと思ふが、人にすすめられて行ってみると、窟内は御幣や御蝋で一杯になってゐる。佐介稲荷でここも兼ねて受持ってゐると聞いたが、禰宜らしい人や俄神人たちが寄り集って御符を出してゐる。成程ひどい人出である。


尾道 日比崎にある石仏の山「竜王山」

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 天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立している。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっている。
 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場であった。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立する。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めている。

鎌倉腰越 龍口寺を守るために開いた「東漸寺」

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 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺から差し向けられたといわれる日東が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人像と釈迦如来像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。


尾道 伝説:小僧さんと天狗さま「持光寺」

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 いつのころかずっとむかしのこと、持光寺に一人の可愛い小僧さんが京都の本山から修行にきていました。小僧さんは、毎日一生懸命修行にはげんでいましたが、遠くはなれた本山に早く帰りたいなといつも思っていました。しかし修行の道はきびしく、小僧さんが本山に帰れる日はなかなか来ません。小僧さんは修行で疲れたときは、お寺の山にある天狗岩に上がりました。そしてそばの大きな松の木に話しました。

厚木 鎌倉時代頃の創立「光福寺」

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 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して正福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。 律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。


鎌倉 腰越 流行病や海難事故をなくす「満福寺」

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 この寺の開山は行基といわれています。寺のこの寺の開山は行基といわれています。寺の伝えによれば、奈良時代に関東地方に悪い病気が流行してたくさんの死者が出ました。聖武天皇はこれを心配し、行基に「これから関東に下って悪い病気を除くように。」と命じました。はるばる鎌倉に来た行基は、前に広がった青い海原と後ろの山並みがとても美しく見えたので、
 「ここでお祈りをしたら、きっと流行病もなくなるに違いない。」と思いました。

愛川町 関東の山岳修験の道場だった「八菅神社」

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 八菅山の中腹にあり、別名八菅の七社権現とも呼ばれ、日本武尊、国常立尊、伊邪那岐命、金山毘古命、誉田別命、大己貴命、伊邪那美命の七神が祭神として祭られている。
 明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地で、大山阿夫利神社、日向薬師とともに関東での山岳修験の道場であり、修験道三派のうち聖護院流である。


尾道 瀬戸田「耕三寺 千仏洞地獄峡」

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 千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。
 1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。
 洞内は「往生要集」を体感するための空間とされている。

尾道 鐘楼の横を入って行くと「正授院」

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 中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。  鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。

鎌倉 白鹿が人びとにまじって聴聞した「円覚寺」

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 寺名・寺地ははじめ時宗と蘭渓,道隆によりえらばれたが、工事を起すと地中から石櫃が現れ、中に円覚経が納められていたため、それにちなんで円覚寺と名づけるいたったという。山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。


鎌倉 日蓮弟子の四条金吾頼基の屋敷跡「収玄寺」

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 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。


福山 鞆 朝鮮通信使が宿泊した「福善寺対潮楼」

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朝鮮通信使、福禅寺で安らぐ
 朝鮮通信使は、江戸時代、将軍の代替りごとに朝鮮国王から派遣された祝賀使節で、1607年から1811年までに12回(うち1回は対馬まで)日本に来ました。
「福禅寺」境内の本堂に隣接する客殿は、「対潮楼(たいちょうろう)」と呼ばれています。水道を挟んで仙酔島・弁天島に対面するこの客殿座敷からの景色は素晴らしく、ここを宿所とした朝鮮通信使との交流でも有名です。

鎌倉 四季花が絶えない美しい庭「光則寺」

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 行時山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。


福山 鞆 戦国時代以前は島であった「圓福寺」

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 「大可島(たいがしま)」山頂からは、足下に従える鞆の街と港を除いて、遠く四国に至るまでの瀬戸内と島々の広がりを一望することができます。ここに砦を築けば、目の前の瀬戸内の往来のすべてに睨(にら)みをきかせることが可能になります。
大可島城は、鎌倉末期から南北朝期に築かれたといわれています。現在では陸続きとなっていますが、当時は鞆の街との間も水道で分かたれていて、文字通り「大可島」という島でした。

鎌倉 葛原ヶ岡で処刑された「日野俊基朝臣の墓」

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 日野俊基は、1324年、後醍醐天皇の側近、倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。
 この時、日野俊基はゆるされたが、資朝は翌年佐渡に流された。
 後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。

鎌倉 桓武平氏の先祖を祀っている「八坂神社」

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 相馬師常がいまの巽神社付近に勧請したもの。かっては相馬天王と称した。相馬師常は千葉常胤の二男で、頼朝挙兵に参加、平氏との一ノ谷の合戦にも参加、奥州合戦にも加わり、源氏の武将ととして名を高めた人。
 銭洗弁天は当神社の境内末社であったが、1970年に独立した。