厚木 奈良時代に創建「七沢観音寺」

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 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇7155~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。

鎌倉 火災を防ぎ盗難を除く「秋葉大権現」

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 天照山光明寺第三十二世傳察上人は、80才の時、当山の鎮護と火防の守護神として秋葉大権現を勧請しようと念じ給じたところ、上人は生身のまま天狗に変じ、光明寺の上空に飛び、「われこそは秋葉大権なり、全市全町の火災を防ぎ盗難を除く、われを念ずる者は火の災いをのがれしめ、願いのある者はその願いを成就せしめ、各家無病息災ならしめん……」との声を発して消えたという。
 この日以後数百年、当秋葉講は江戸時代、江戸の人々も参詣していた。

尾道 再三被災し再建された「持善院」

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 西国寺の仁王門をくぐり、ちょっと行った左側にあります。
 摩尼山塔頭寺院として、西国寺再興の僧慶鑁和尚の開基と伝えられる。文化・文政のころの水害、山津波に再三被災したが、文政12年(1829)、大旦那灰屋茂助の寄進銀一貫目などによって本堂・庫裏を一棟として再建されたことが棟札によって知られる。

鎌倉 元は妙法寺だった「啓運寺」

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 開山は啓運日澄(にっちょう)です。日澄は、大町名越の同じ日蓮宗の妙法寺の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 日澄は、博学で多くの知識をもち、徳の高い名僧といわれた人で、法華経を研究して55巻からなる『啓運抄』という書物を1503年(文亀3年)出版しています。そのほかにも多くの本を書き残した学僧でした。

福山 鞆 神功皇后の海路安全を願う「沼名前神社」

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 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。

鎌倉 頼義が勝利の感謝のため勧請「元鶴岡八幡宮」

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 由比若宮、由比八幡宮ともいう。
 1063年、陸奥守に任じられていた源頼義(頼朝の5代前)は、陸奥の豪族阿部氏を討つため、勝利を源氏の氏神である山城(京都)の石清水八幡宮に祈願した。その戦いの勝利に感謝するため、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を勧請した。それが鶴岡八幡宮(元鶴岡八幡宮)です。 その後、1081年、源義家(頼朝の4代前)修復した。
 源頼朝が鎌倉に入り、先祖を崇めるため、1180年、鶴岡八幡宮を小林郷松ヶ丘に遷した。それが現在の鶴岡八幡宮です。

尾道 港の守護神になった「住吉神社」

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 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。
 毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。

鎌倉 明治天皇が神社造営の勅令を発した「鎌倉宮」

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 明治天皇は、哀しい最期をとげた護良親王(武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王)の功の偉勲をたたえるべく、神社造営の勅令を発し、東光寺跡に1869年7月創建された。
 本殿の後方にある土手の穴が、親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。

愛川町 かって五十余の院・坊があった「八菅神社」

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 かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
 八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
 また、703年、修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、忽然として「池中に八本の菅が生えたことから八菅山の名が起こり、709年には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたという。
 しかし、明治の神仏分離令により光勝寺は廃され七社権現は八菅神社と改称、今日にいたっている。

厚木 駒込の吉祥寺の末寺「龍鳳寺」

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 祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸(東京都)駒込の吉祥寺の末寺です。
 大州安充禅師(本寺二世)により享禄三年(1,530)開創じされました。開基となったのは地頭床左近太夫で、境内に墓があります。
 床左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。

鎌倉 もとは真言宗能蔵寺だった「来迎寺」

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 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。
 本尊には義明の守護仏とされる阿弥陀三尊立像のほか、子育て観音と親しまれる聖観音が祀られている。墓地の奥には義明の墓や、平家方の畠山軍に17歳の若さで殺された多々良三郎重春の墓と伝えられる五輪塔もある。

尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」

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 834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、1336年に浄土宗に改宗されました。室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました。
 またこの寺には尾道ゆかりの第12代横綱・陣幕久五郎の墓があり、彼を顕彰した手形付きの記念碑があります。

鎌倉 今宮神社ともいう「新宮神社」

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 祭神は後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇。
 「承久の乱」(1212年)の朝廷側の人物たちで、幕府は勝利をおさめ、後鳥羽帝を隠岐へ、順徳帝を佐渡に配流し、両帝ともその地で歿した。また、土御門帝はみずから土佐、のちに阿波へおもむいた。
 その争いに勝つには勝ったものの、幕府は後鳥羽帝の怨霊をおそれ(実際にさまざまな怪異が生じたという)、1247年(宝治元年)四月に当社を創建した。そのときか、のちのことか不詳ながら、順徳帝を合祀、土御門帝は明治以降の合祀である。

尾道 浄土寺山の鎖場から不動岩へ

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 この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
 写真は 2013年~2014年の落石工事前です。
 鎖場が1番から3番あり、1番が一番長く、3番は“腕の力”だけで登る箇所もあります。
 ほぼ斜面を真っ直ぐ登りますので、かなり急斜面を登ることになります。
 各鎖場は、横に迂回もできますが、山道として整備されてはいません。

鎌倉 日限地蔵に願いを「安養院」

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 もと浄土宗名越派の本町山。その後京都知恩院の末寺となったが、浄土宗の本寺末寺制度の解体によって、現在は神奈川教区に属している。大町所在。祇園山長楽寺安養院と号す。開山は願行房国憲静、開基は北条政子。嘉禄元年(1215)三月、夫源頼朝の菩提を弔うために夫人政子が佐々目ケ谷に建立した長楽寺という律宗のこの寺が前身と伝える。鎌倉時代末期に浄土宗善導寺の跡(現在地)に移って安養院と号したという。名越派の本山として浄土宗となったのもこの頃からからしれない。もっとも、開山の願行上人は兼学の人なので、開創当時からその母体はあっただろうが……。

座間市 家康と関係の深い寺「宗仲寺」

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 宗仲寺は家康と関係の深い寺である。この寺の開基は内藤清成で、家康の側近として活躍した人であり、開山源栄上人も若いころから家康と親交があった上人である。
 家康は鷹狩りを好み平塚に中原御殿、府中に府中御殿を建て、しばしば鷹狩りを催したといわれる。座間宿村は、中原御殿へ四里(約16km)府中御殿へ六里(約24km)という位置にあり、鷹狩りの道筋にあたっていたため、三回この宗仲寺にたちよって源栄と談話したことが、いくつかの史料の中に残されている。

鎌倉 将軍御成の門があったという「妙法寺」

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 旧本山は大本山本圀寺(六条門流)。通師・堀ノ内法縁。
 建長5年(1253年)に日蓮が安房より移り住んだ松葉ヶ谷草庵跡に開かれたとされ、現在も境内奥の山腹に「御小庵趾」の碑がある。ただし、ごく近隣の安国論寺、長勝寺も、それぞれ松葉ヶ谷草庵跡を称しており、すべて開山は日蓮、創建は草庵が置かれた建長5年としている。
実質的な開山は日蓮より数えて第5世となる楞厳法親王妙法房日叡(りょうごんほうしんのうみょうほうぼうにちえい)で、延文2年(1357年)のことである。

福山 鞆 かって加藤清正を祀るお堂があった「法宣寺」

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 1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後光厳天皇の信任も厚かった大覚大僧正がこの地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。

鎌倉 新田義貞が開基した「九品寺」

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 開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。

尾道 神聖な感じを受ける神社「艮神社」

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 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。