尾道 最初にできた神社「艮神社」

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 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
 艮神社は大宝山(千光寺山)を背にして建てられています。参拝者はちょうど大宝山を拝する格好になります。艮神社と千光寺は何か関連があるのでしょう。

厚木 小野小町がかくまわれた地に「小町神社」

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 この小町神社は、その昔鎌倉時代丹後の局という世にもまれな美人がおり、ひそかに源頼朝のご寵愛を受け終に局は身ごもりました。これを知った婦人政子は大変ねたみ、畠山重忠に局を由比ヶ浜で首をはねよと命じました。重忠は家臣の本多次郎に命じ局を浜へ伴い殺そうとしましたが、局の身を哀れみ身代わりを立てその場をつくろい、乳兄弟で小野の住人川上酒匂の屋敷にかくまい局を助けました。然しいつとはなくその事が政子の耳に入りその怒りは骨髄に徹する程厳しく、局は俄かに白髪の姿になってしまいました。

鎌倉 タブの木が枝を広げる「八坂神社」

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 八坂大神(やさかだいじん)は、扇ガ谷(おおぎがやつ)の鎮守の神で、昔は相馬天王といい、相馬師常(もろつね)が移してまつった京都の八坂神社の神と、相馬師常をまつっていました。師常は頼朝(よりとも)挙兵の際、父と共に頼朝を助けた人で、このあたりに住んでいたといわれます。
明治以後は八坂大神と改め、祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)・桓武天皇・葛原親王・高望王としました。

尾道 大林監督「転校生」の舞台「御袖天満宮」

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 「坂の町」尾道にとって石段は見なれたものであるが、浅野芸州藩主夫人が寄進した随神門から本殿までの五十五段は石段のなかの石段といえる圧巻。おそらく随神門と前後し享保年中(1716~36)につくられたものであろう。
 長さ5.2m、幅32cm、高さ17cmの見癖な一本物の花崗岩を使い、上から二段目だけは、完壁なものの脆さをこばむ日本的な宗教感覚にもとずいたものであろうか、継ぎ目をつくり完成させたもの。
 その後、最上段だけは、枯れた松を伐採したとき、倒れた松が石段の最上段に当たり割れが生じた。
 この時の職人さんは、二段目につなぎあったので、少しは救われたであろう。

鎌倉 弘法大使が掘った?十六の井「海蔵寺」

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 扇ケ谷にあり、臨済宗建長寺派。応永元年(1394)上杉氏定(1374-1416)が氏満の命をうけて創建したと伝え、開山は大覚禅師五世の孫という心昭空外とするが、事績は不明。山号は扇谷山。寺は五山・十刹・諸山のどれにも列せず、はやくから建長寺の塔頭のようになっていた。『鎌倉志』に「天正ノ比ヨリ建長寺ノ塔頭二属ス」とある。詳しい寺史は編めないが、室町期の応永・永享のころ、扇谷上杉氏の外護のもとに栄えた様子が『関東合戦記』『永享記』などによって知れる。

尾道 海上交通の安全を願う「住吉神社」

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 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。
 毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。
 尾道住吉花火まつりは、正式名称を「住吉神社大祭礼」といい神事です。花火当日に「山型(やまがた)」「鳥居(とりい)」「御弊(ごへい)」の提灯船3隻に加え、「火船(ひぶね)」
「御座船(ござぶね」が渡御(とぎょう)…尾道水道を行ったり来たり…しております。

鎌倉 目の神様「御霊神社」

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 もとは関東平氏五家の始祖、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされています。その後、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。
 後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。
 景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれている。例大祭には県の無形文化財に指定される「面掛行列」が行われます。

尾道 温羅(うら)なる鬼神を退治「吉備津彦神社」

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 吉備津彦と桃太郎にまつわるお話
「桃太郎」の話の原形は、ヤマト朝廷の吉備征伐という歴史とつながりがあるらしい。
 第十一代垂仁天皇の時代のこと、朝鮮半島の百済からやってきた温羅(うら)なる鬼神が吉備(美作・備前・備中・備後、現在の岡山県と広島県東部)にたどり着き、住みついた。温羅は瀬戸内海を航行する船に海賊行為を行い、婦女を掠奪するなど、乱暴狼藉をくり広げていた。人びとは恐れおののき、都に訴え出てきたので、朝廷は吉備津彦を遣わし、温羅を成敗したという。

鎌倉 日野俊基卿の足跡を追慕「葛原岡神社」

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 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

尾道 威臨丸で渡米「土居咲吾の墓」

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 生垣のなかに海外留学の先覚者土居咲吾の墓がある。咲吾は長尾幸作と云い、芸州山県郡から尾道町中浜へ移った開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父俊良から洋学のまさっていることを聞かされていた幸作は、二十一才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学をさらに二十五才の春、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、たまたま耳に入った幕府の日米修交通商条約批准交換のための渡米使節団の派遣のことであった。勝海舟の卒いる威臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。

鎌倉 日朗らを幽閉した土牢跡がある「光則寺」

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 行時(ぎょうじ)山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時(ゆきとき)の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。江戸時代、古田重恒(しげつね)の後室大梅院日進(1669示寂)が寺容を再興したので、「大梅寺」「大梅院」とも称された。現在は山門・本堂(慶安三年(1650)建立)。庫裡などからなる。

尾道 築庭は小堀遠州の可能性が「爽籟軒庭園」

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 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。
また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

鎌倉 平政子(北条政子)が創建した「白旗神社」

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 鶴岡八幡宮境内末社。祭神源頼朝・源実朝。例祭五月二十八日。他に八月九日一目実朝祭、十月二十八日文墨祭を行う。「天正修営目論見図」には本宮の西側に白旗社があり、明治十九年柳営社(源実朝)と合せて現在地に鎮祭した。白旗社については社伝によると正治二年(1200)白旗大明神の勅号を賜って、平政子(北条政子、北条政子という名は近世以降になってそう呼ぶようになったようです。1218年以降1225年までは、朝廷や寺社には吾妻鑑に記載されている「平政子」を名乗っていたと考えられる。)が創建、また源頼家の造立ともいう。鎌倉御所の年頭拝賀にはまず当社に詣でて、本宮を拝した。拝殿は車寄せ風の向唐破風造。川口市の鋳物師が鋳鉄で造った。

鎌倉 ぼたもち寺ともいわれる「法源寺」

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 法源寺は、ぼたもち寺ともいわれ、桟敷尼(さじきに)が龍ノ口の法難の日蓮にぼたもちを供養したといわれます。大町の常栄寺にも同じ話がありますが、桟敷尼の実家が腰越だったといわれます。
 開祖は日蓮の孫弟子である日行で、1318年(文保二年)に建てられた。
 境内はけっして広いとはいえないが、落ち着いた静かな寺である。墓地からは、腰越の町と湘南の海が見渡せる。

尾道 御利益が顕著な日限地蔵の「大山寺」

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 愛宕山の南山麗に霊験あらたかな地蔵尊がおわす-。西国寺の前々の住職で京都・三宝院の門跡になられた多田実円師が、その御利益の顕著さを評して「日限地蔵」と名付けた。
 往昔、釈迦如来が在世のさい、地蔵菩薩を召して日く「われ入涅槃すれば弥勒菩薩出世の暁まで五十六億七千万年なり、この間娑婆世界に於いて諸々の悪業をつくり五濁濫漫の苦海に沈める薄福重障の衆生をば済度し、永く悪道を離れて仏道を成せらしめよ」と-。この時から地蔵は我が身を百千億にもわかち民衆救済のため路傍にたたれた。

鎌倉 新田義貞ゆかりの「九品寺」

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 創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
 北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。『太平記』

尾道 かんざし灯籠の「八阪神社」

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 かんざし灯籠由来(説明看板より)
 江戸時代の末、ここから程近い芝居小屋に、それは美しい、しかしどこか寂しい影があってあまり客のつかないお茶子がいた。
 お茶子とは観客にお茶や座布団、時にはお酒の接待などもして心付けをもらう女性をいう。
 そのお茶子に浜問屋の若旦那が恋をした。内気な少女のそんな心もとなさがかえって、豪商の跡取りながら、ひとりの多感な若者の心に火をつけたのだったが、身を飾るかんざし一つとてないお茶子の姿を見た親は、こんなみすぼらしい娘を嫁に迎えるなどもってのほか、とその恋を許さない。
 お茶子は井戸に身を投げ、この大銀杏の木の下に「かんざしをください」と哀しい声で訴える幽霊が出るようになった。この灯籠はそのあわれを慰めようと心ある人々がお金を出し合って奉納したものという。

鎌倉 関東での念仏道場の中心だった「光明寺」

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 この寺は、第五代執権の北条時頼をはじめ歴代執権の帰依が篤く、七堂伽藍の寺観を誇り、関東における念仏道場の中心となりました。後土御門天皇(在位1464~1500)より「関東総本山」の称号を受け、国と民の平安を祈る勅願所となりました。
 江戸時代には、徳川家康は光明寺を関東十八壇林の高位に置き、信仰と研鐙の根本道場となりました。十八壇林とは江戸初期に徳川幕府が定めた浄土宗の学問所です。
 また光明寺は浄土宗の「お十夜」で知られる寺で、十夜法要は第九世観誉祐崇のとき1495年(明応四年)にはじまりました。現在も古式に則って毎年十月十二日より十五日までの四日間に、盛大に法要が営まれています。

尾道 小説 姿三四郎のモデル「西郷四郎逝去の碑」

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 浄土寺から西郷寺に向かう途中に「西郷四郎逝去之地」があります。
 浄土寺道から筒湯小学校へ道がわかれる傍に海をみおろすように「西郷四郎逝去之地」と刻んだ碑が建っている(いまは、碑を10mほど東に移している)。西郷四郎と云うより富田常雄の柔道小説「姿三四郎」としたほうがよく知られ、説明する必要もなかろうが、西郷四郎は講道館草剣時代、嘉納治五郎師範の片腕として日本柔道を大成させた偉傑。

鎌倉 偉人にしては質素な「源頼朝の墓」

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 源頼朝は、治承四年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦二年(1185)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。
 正治元年(1199)に五十三歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。 現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪・が整備したものとされます。(説明看板より)