鎌倉 日蓮宗最古の三寺院の内の一つ「妙本寺」

 身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の寺院。創建は1260年。
 この地は比企能員の屋敷跡で、比企一族の勢力の拡大を恐れた北条時政が、後継者問題を口実に1203年比企の乱で攻め滅ぼした。その後比企能員の末子の比企大学三郎能本が、日蓮上人の為と比企一族の霊を弔う為にお堂を建てたのが始まり。
 二門(総門と二天門)二堂(本堂と祖師堂)の日蓮宗の典型的な伽藍を有する。

尾道 旧市街がよく見える「海徳寺」

 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。

座間 星の谷観音堂として建立された「星谷寺」

 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたも。
 星の谷観音堂が坂東八番の札所になったの源頼朝在世中ののことと思われます。
この頃は今でも本堂山と呼ばれている400mほど北東の丘の中腹にあったと伝えられていますが、いつの時代か、相模野の野火が延焼して焼失、現在の地へ移ったといわれています。

福山 鞆 見事な石造物が 「阿弥陀寺」

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 永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
 江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

海老名 この辺の伝説[彦六ダブ]の「龍昌院」

 「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
 寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
 能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。

鎌倉 白い猿が日蓮を救った草庵跡に「長勝寺」

 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝(ながかつ)が日蓮に帰依し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺になったのを日静(にっせい)が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺(ちょうしょうじ)と名付けられたと伝えています。

尾道 昔から船着場があった「海の駅」

 海の駅とは、国土交通省により登録された、一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)のことで、ヨットやボートの停泊設備です。
 「海から、誰でも、いつでも、気軽に、安心して立ち寄り、利用でき、憩える」ことをめざしています。
 ここは、住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
 ここの「海の駅」は、食堂や売店の施設はありません。ホテルや食堂、商店街が近いので、停泊施設以外は造らなかったのでしょうか。

座間 裏山の湧水が不動池に「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 当山の記録によると、山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、そして江戸時代になって座間山心岩寺と改められている。
開山以来五百数十年、法嗣二十二世この間法灯絶えることなく栄えている。

鎌倉 関東大震災で倒潰、40年後再建「円覚寺 仏殿」

 円覚寺仏殿は、1923年(大正12年)関東大震災で壊れた後、1964年(昭和39年)に再建されました。鉄筋コンクリート造ですが、戦国時代の1573年(元亀4年)の仏殿の図面をもとにして建てられたので、昔の様子を残しています。正面の軒下には、後光厳天皇の筆跡にもとづく「大光明宝殿(だいこうみょうでん)」の額が掲げられています。本尊の宝冠釈迦如来像は、頭部は鎌倉時代の作で、体部は江戸時代の作といわれています。両脇に安置されている梵天と帝釈天は、1692年(元禄5年)に再興されたものです。また、天井には前田青邨の指導で守屋多々志が描いた「白竜の図」があります。

尾道 心願成就の守り本尊の日限地蔵「大山寺」

 古くから「天神坊」とも呼ばれ、西隣の御袖天満宮との深い関係をしのばせている。開基の詳細は不明であるが、平安時代の初期、空海(弘法大師)入唐(803年)の頃には既に開かれていたと伝えている。
 901年菅原道真が太宰府へ流されるとき尾道に船を寄せたという話は、当地では有名な伝説である。これはこの寺にも深い関係がある。1069~1073年頃に、西国寺の慶ばんが多くの末寺を建てているが、この寺もその頃興されたものと思われる。
 寺に祀られている日限地蔵は心願成就の守り本尊として参詣祈願する人が多い。

厚木 白龍が池に棲むという「白山神社」

 昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、 それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。  むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、 この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、 この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、 加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。
 下って江戸時代の1801年別当龍蔵院隆光は、山上に於いて、修行中に霊夢によって、 同山に秋葉権現と蔵王権現を勧請し、諸難、火難消除の守護とすれば疑なしと云々 近郷、近在の住民、信仰者の力を得て、 白山神社建立を企して、1804年再建をいたしました。

福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」

 瀬戸内の要港にある古刹であり、同寺へは高憎や将軍の足利尊氏・義昭、朝鮮通信使等の多彩な歴史の足跡が刻まれる。
 特に、本堂に掲げられた琉球使節の扁額、境内の「琉球司楽向生碑」は、よく知られるところである。
 また、境内には昭和二十九年(1954)まで、国の天然記念物の見事な巨大・松があり、名所となっていた。オランダ人医師シーボルトもその松之図(版画)を収集している。なお、この松は寺伝によると、平清盛の長男の平重盛(武勇に優れて清盛の後継者として地位を確立したが、清盛より早く、42歳で死去した)が植えたと伝える。

鎌倉  若狭局を祀る社「蛇苫止堂」

 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
 すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
 蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。

尾道にこんなところが「日比崎 石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立している。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっている。
竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場であった。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立する。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めている。

鎌倉 維新の先駆けと日野俊基卿を祀る「葛原岡神社」

 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

尾道 一畑薬師如来も祀る浄土寺「薬師堂」

 方三間、宝形造、本瓦葺の開山堂です。「延命薬師如来」、「一畑薬師如来」を祀る薬師堂となっています。
 「一畑薬師如来」は、出雲の一畑山頂にある臨済宗「一畑寺」に祀られる薬師如来と関係があるのでしょうか? 浄土寺は真言宗泉涌寺派なのですが、泉涌寺は「密・禅・律・浄」の四宗兼学の道場としての歴史があるので、禅寺である一畑寺であっても関係があってもおかしくはないのでしょう。
 浄土寺歴住墓の灯籠には「出雲国 堅田定五郎忠成」と刻まれたものがあり、出雲との繋がりが深いため、「一畑薬師様」という通称で呼ばれている、特に目のお薬師様として信仰されている薬師様にいらっしてもらったのでしょうか。

鎌倉 平家一族の冥福を祈るために「教恩寺」



 山門の十六羅漢の彫刻。
 お釈迦様は、入滅の際に仏法を護って伝えていくよう十六人の弟子に遺言しました。
 北条氏康が開基、知阿上人を開山とする時宗の寺。
 もとは光明寺の境内にあった寺で、この地にあった光明寺の末寺、善昌寺が廃寺になったので、1678年に貴誉上人が移建したといわれている。
 本尊の阿弥陀如来像は運慶作で、一ノ谷の合戦に敗れた平重衡(東大寺を焼き討ちをした人、鎌倉で1年あまりを過ごしたが、身柄を東大寺の使者に引き渡され、ほどなく斬首されました。享年29歳)が囚われの身となって鎌倉に連れてこられたとき、源頼朝が、平家一族の冥福を祈るために籠堂を建立し、阿弥陀三尊を奉安したもの。

尾道 “重軽さん”の金剛院「金毘羅大権現」

 金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っています。
 永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物があります。
 天狗の原点ついては、『日本書紀』に猿田毘古神について、鼻がきわめて長く、背も高く、目は鏡のように輝いていたとあり、この姿から天狗のイメージのもとになったともされています。神々の道案内をするという役割は、のちに方角の神、旅の神、道の神という信仰を生みだしました。そのため集落の境や道の分かれ目などに道祖神として祀る例も多くなりました。

福山 鞆の浦 仏庭十三仏がある「地蔵院」

 鞆城跡の高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に徳川家康が立案し、徳川秀忠が発令した「一国一城令」のため廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。

鎌倉 日蓮の弟子の四条金吾頼基の屋敷に「収玄寺」

 むかし、日蓮の弟子の四条金吾頼基(よりもと)の屋敷があったところです。1271年(文永8年) 9月、日蓮のいた庵に北条時宗の使者が大勢きて、日蓮を由比ケ浜に引きたてていきました。このことを知らせる使いが頼基の所に走り込んでくると、頼基兄弟はすぐさまはだしで由比ケ浜にかけつけました。
 「日蓮上人を殺すならば、自分を身代わりに段してください。」
と申し出たのですが、そのため役人ににらまれてしばらく土牢(つちろう)に入れられたり、主人の江馬光時(えまみつとき)から領地を没収(ぼっしゅう)されたりしましたが、信仰をまげなかったということです。