鎌倉 足利尊氏屋敷跡に建てた「長寿禅寺」

 長寿寺は、初代鎌倉公方足利基氏(もとうじ)が父尊氏(たかうじ)のため、その屋敷跡に1374年(応安7年) に亡くなった古先印元(こせんいんげん)を開山として、1323年(元亨3年)~1336年(建武3年)ころに建てたといわれ大きな寺でした。一説には、足利尊氏が建てたともいわれていますが、尊氏の法名(ほうみょう)が関東では、長寿寺殿とされたのはこの寺の名が由来だといわれます。
 足利尊氏も織田信長も、「この世は幻のようなもの」といっている。
 そうはいいながらも、尊氏も信長も懸命に戦って人生を駆け抜けた。
 違いは、尊氏は家系(男系)をある程度残すことができたが、信長は残すことが出来なかった。信長にとっては「この世は幻のようなもの」でした。

尾道 虚空蔵堂もある「慈観寺」

虚空蔵堂
 「講(こう)」といい、同一の信仰を持つ人たちの結社で維持されていたお堂でした。現在は慈観寺さんが引き継がれているそうです。
 海中より引き上げられたと伝わる虚空蔵菩薩像を安置。「空海が、海の彼方の輝く老木を引き上げて等身大の虚空蔵菩薩座像を刻み安置した」、という伝説があります。
 疱瘡(ほうそう)(天然痘)にかかった子供が治癒したので、子供の病気の治癒に効くとされています。そのためか、「薬師如来の真言」を書いた紙が、下に貼られています。

鎌倉 創建年代は平安時代後期か?「御霊神社」

 通称(鎌倉)権五郎神社(ごんごろうじんじゃ)として知られている。権五郎神社の創建年代は詳らかではないが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができる。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。

厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」

 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
 法界寺は荻野新宿の中央に現存し、戦国時代の末期北条氏家臣松田右兵衛大夫康長の創建によるもの、その後近世初期僧党誉の中興もあり壮大なる本堂を中心にして現存している浄土宗の寺です。
 新宿日吉神社脇の大山街道沿いにあり、江戸幕府の山中藩参勤交代の「殿様道」に山門を構えた名刹。

尾道 昔、夜毎に海上を照らした玉の岩の「千光寺」

【民話 千光寺の玉の岩】
  ぬばたまの夜は明ぬらし
  玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり
 と、古歌にもうたわれているように、尾道は「玉の浦」とよばれていました。この名の由来に次のような伝説があります。
 ずっと、ずっとむかしの話。
 千光寺山は、むかしからぢ大きな岩がぎようちさんあるレころじや。今でもたたくとポンポン音がする「鼓岩」や、大きな亀が首をのばして下の道を見ようる一亀の岩一など大きな岩があるんよ。・・・・・

鎌倉 腰越 稲荷明神像もある「本成寺」

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏があります。日蓮の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師)という「南無妙法蓮華経」のお題目が書かれた塔と釈迦如来、多宝如来で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

福山 坂本龍馬と紀州藩が談判した「福善寺対潮楼」

 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
 彼らは、対馬や壱岐から瀬戸内海を通って大坂・京に入り、名古屋を経由して東海道を行進して江戸に到達した。
 「いろは丸事件」の際,坂本龍馬(武器商人か?)ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所でもあります。

尾道 瀬戸田 武州から来た法然上人像「法然寺」

 法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め)、その徳を慕われた後白川法皇の皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。
 上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。
 その後三原の仏通寺(臨済宗)の末寺となっていた時期もあるようですが、江戸時代の初め頃、慶長年間(1607年)に再興され、伽藍が整えられました。本堂、庫裡はいずれも慶長年間の建築です。

鎌倉 例祭では神輿が海に入る「五所神社」

 材木座に鎮座。祭神大山祗命・天照大御神・素盞嗚尊・建御名方命・崇徳天皇。例祭七月七日、神輿渡御がある。元村社。材木座区の氏神社。もと三島神社であったが、明治四十一年乱橋村と材木座村にあった諏訪神社・八雲神社・金比羅宮・視女(みるめ)社を合せて五所神社と改称した。視女社は補陀洛寺の鎮守で、見目明神(天照大御神)と牛頭天王を祀った社であった。境内に板碑がある。また神輿は寛永十九年(1642)修造の棟札がある。

浄土寺山8合目あたりに巨石「不動岩」

 浄土寺山は瑠璃山の別名をもつ。
 その8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
 浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。

鎌倉 仏の顔を納めている本尊の薬師如来「海蔵寺」

 昔、寺のうしろの山すそから、何とも悲しげな赤子の泣き声が毎夜のように聞こえてきました。
 開山の空外(くうがい)が、声のするところを探してみると、泣き声は古ぼけた墓石の下から聞こえてきます。そしてその墓石からは金色の光がもれて輝き、あたりにはよい香りがただよってい ました。そこで空外は、お経(きょう)をあげたあと、袈裟(けさ)をぬいで墓にかぶせました。すると不思議なことに、赤子の泣き声はピタリとやみました。翌日その墓の下を掘ってみると、18cmほどの立派な薬師如来のお顔が出てきました。 このあと空外は新しく薬師如来を造り、堀り出したお顔をお腹の中に納めてまつることにしたのです。

尾道 変化に富んだ天邪鬼が用水鉢の下に「浄泉寺」

「天水鉢をささえる八体の天ノ邪鬼」
 あるものは座り、あるものは横臥、また寝そべり、その肩から背にかけ天水の一角を支え、その面貌の変化に富んだ面白さ、四肢の動き、まさに石の町を代表する作品であろうが、惜しいことに同寺が明治二十二年、火災にあったさい、火にまかれ原型を損じ、さらに子どもの悪戯か、腕の一部が欠けるなど痛みが激しい。
 何事にも逆らって、仁王さんや四天王に踏みつけられるのが天の邪鬼。本堂の雨水を受ける水槽にまで天の邪鬼が押さえられている意匠が面白い。尾道石工のアイデアは実に豊かだった。

厚木 「星下り寺」とも称される「妙伝寺」

 妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
 日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。

 「星下り寺」とも称されています。

福山 鞆 恵瓊が住持を務めた「安国寺」

 瑞雲山安国寺。元々は、無本覚心(法燈国師)を開山として、1273年に釈迦堂(仏殿)を、翌年に阿弥陀三尊像を造立した『金宝寺』が、備後安国寺の前身です。
 その後、室町時代に「安国寺」と改めました。室町時代の末期に同寺は衰退するが、毛利輝元、安国寺 恵瓊が再興し、恵瓊が住持を務めていました。
 恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
 更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与し敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。

鎌倉 元寇戦没者追悼のため創建した「円覚寺」

 円覚寺の規模は、1283年には、正式な僧が100人、行者(あんじゃ)・人工が100人、その他の人が68人の合計268人でした。行者・人工とは、禅宗の寺で使われていた人達のことで、寺の様々な仕事をしていました。また、そのとき円覚寺で一年間に使う米の量は約1400石(約210 t)、銭は約1700貫文でした。このほかに寺の領地からは、大豆・まき・炭などが運ばれていました。
 1323年、を望が完成し、1334年~1335年に描かれたとみられる「円覚寺境内絵図」によれば、総門・山門・仏殿・法堂などが一直線上に並び、総門と山門との両側には、東司(とうす)(便所)と浴室があり、山門と仏殿の左右には、僧堂と庫裏が並んで中国風に配置されていました。また、このころの塔頭の数は、40を超えていました。

尾道 各地の古建築を模した「耕三寺」

 耕三寺(こうさんじ)は、尾道市瀬戸田町(生口島)にある仏教寺院です。1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」「母の寺」とも呼ばれています。小高い山を利用しており、この第二段には、室生寺の五重塔を模した「五重塔、また、四天王寺の金堂を模した「法宝蔵」などがあります。


 一目見ると派手なお寺という印象ですが、仏教が伝来したとき、それを広めるため豪華で大きな建物をつくり、人々を仰天させ、朝廷の力を鼓舞した時代はこのようだったのか、と思い巡らすことも出来ます。そういう意味では、歴史を実感する場所でもあるのでしょう。

鎌倉 頼朝の娘大姫の守本尊を安置する「岩舟地蔵」

 頼朝の娘大姫の守本尊という地蔵立像を安置するが、堂の事蹟は不明。江戸中期の作成とみられる加納家蔵『扇谷村絵図』には、現在と同じ場所に「地蔵堂」と注記し、『相模風土記』も「岩船地蔵立像長一尺余と称す」と伝えるだけである。木造地蔵像は、胎内銘札等によると、元禄三年(1691)三橋氏が造立したもの。当時から「右大将頼朝御息女之守本尊」と伝えてた。この像を安置する床下に、約130cmほどの、一石で船形光背を負った石造地蔵像と思えるものがある。「岩船」の呼び名はこれに基づくのであろう。(三浦)
[文献]三浦勝男「鎌倉岩舟地蔵堂」(「神奈川県博物館協会会報」第二九号)

尾道の旧市街で唯一名前がある「蓮花坂」

 旧市内でもっとも古い東西を結ぶ本道とされていた蓮花坂。尾道は坂のまちとして知られているが、坂道のほとんどにに名前がない。ひとつだけ例外の坂道がある。それが「蓮花坂(れんが坂)」といい、西国寺下から大山寺下まで、愛宕山の中腹を上っていく坂道がある。
 尾道には、確かに坂道がたくさんある。しかし、ほとんどの坂道には途中に石段がある。「坂(阪)」という文字はその原点に「土のイメージ」があるため、坂道の途中に石段があると「坂道」と呼ぶには抵抗があったのでしょうか。
 尾道では石段のない珍しい坂道が「蓮花坂」、そのため坂道に名前をつけ、そのほかの石段が途中にある坂道には名前をつけなかったのでしょうか?

鎌倉 山すそに開かれた寺「長谷寺」

 長谷寺は山すそに開かれた寺なので、境内が上と下に分かれています。どっしりとした屋根、瓦の総門の脇から下の境内に入ると、左にハスの花が咲く妙智池(みょうちいけ)が、右にコイなどが泳ぐ放生池(いけ)があります。その二つの池のまわりには梅やボタン、ショウブなどか季節ごとに美しく咲き、1年を通じて花を楽しむことができるので「花の寺」ともいわれます。妙智池のとろには、以則は大黒堂(だいこくどう)がありましたが、現在は上の境内の観音堂の横に移されました。

尾道 路地にひっそりと水の神「辨天神社」

「弁才天・辯才天」
 奈良時代に日本に入ってきてからは、川の流れの音からの連想で音楽の神、美音天(びおんてん)、妙音天(みょうおんてん)、また大弁才功徳天(だいべんざいくどくてん)などと呼ばれた。
 最初は知恵、名声、解脱(げだつ)を求める者に功徳ありとされた。やがて鎌倉時代になると、在来の水(海)の神である宗像三女神の一人市杵島比売命と習合し、純日本的な神様へとイメージチェンジした。
 尾道は「水」が非常に貴重で、各井戸には石仏が置かれ大切にされていました。また港町でもあるが、海の潮の流れが速く複雑のためか、水と関わりの深い弁天様が祀られたのでしょうか。