尾道 太宰府に左遷さる道真が寄った「御袖天満宮」

 石段は、長さ5.2mの一本の花崗岩。
 菅原道真公着衣の袖をご神体とする神社で、大林宣彦監督の映画「転校生」で主人公が石段を転げ落ちるシーンのロケ地としても有名。またテレビアニメ「かみちゅ!」で境内モデルとなった神社。
 雷が鳴ったとき、「くわばら、くわばら」と唱えませんか?
 死後に雷神となった菅原道真は、復習のために各地に雷を落としたという伝説があります。
 しかし、自分の領地桑原には落雷がなかったところから、「私はあなたの故郷の桑原に住んでいる者ですよ。雷を落とさないでください。」という願いを込めて「くわばら、くわばら」と唱えるようになった、ということです。

鎌倉 ぽたもちを日蓮に差し上げた伝説「常栄寺」

 黒塗りの山門があり、門柱の左右に、あざやかな朱塗りの鎌倉彫で作られた聯(れん)といわれる木板がかかっています。右に「ぼたもち寺常栄寺」、左に「たつのくち くびのおんざを ふしおがむ 婆のまごころ ぼたもち常栄寺」という歌が彫られています。
 「棚からぼた餅」といいますが、ここと関係があるのでしょうか?

尾道 室町時代の様式の特徴をとどめる「西郷寺」

 1353年の開基。鎌倉時代末期の正慶年間、遊行六代一鎮によって開かれたと伝えられています。当時は「西江寺」と称されていました。
 西郷寺山門は1362~68年また1395年大一房住持の発願によって建立されたと伝えられています。一説に大一房は備後相方城主の夫人ともいう。板蟇股 破風 懸魚 軒などに室町時代の様式の特徴をとどめています。
 江戸時代前期頃までは、この寺の大門通りには「尼寺十二坊」があったとか、江戸中期以後、川が埋め立てられ、「西郷寺」になったとか。

福山 鞆の浦で二番目に古いお寺「医王寺」

 「医王寺」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
 医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。晴れた日の早朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝日に出会うこともできます。

厚木 弘法大師の開山といわれる「松石寺」

 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならへて」-(家康)
 当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。

鎌倉 鎌倉幕府、滅亡の地「東勝寺跡」

 東勝寺は、執権北楽泰噂の招きで退耕行勇が開いたと伝えられている大寺院でした。発掘調査によると、階段状の石段が造られ、とりでのようなっくりになっていたらしいことがわかってきました。出土品には、北条氏の家紋である三鱗(みつうろこ)の入った瓦や、中国から渡ってきたと思われる青磁の碗などの破片が見っかっています。
 1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めにより屋敷を焼かれた北条高時は、この東勝寺に一族を集め、堂に火をかけて一族郎党800人余りとともに自害したといわれています。発掘調査の結果火災の跡が見つかりました。

尾道 織田信長を呪い殺す“調伏”か?「西国寺」

 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。
 西国寺は平安時代の院政期より朝廷との関わりが深く、官寺として大きな影響力を持っていたと考えられます。
 西国一の大寺。徳島大学の学者グループで、この寺の「古文書」が解読されている。その中で、織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた、とあります。
 昔から真言密教は、どろどろとした人間の最も暗部の欲望を開放する宗教。人を生かすことも、人を殺すことも宗教の重大な役目だったと。だから信長は光秀に本能寺で殺されたのだろうか? と考えてみるのも面白い。

福山 子授け・安産.航海安全祈願の「阿武兎観音」

 岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、その美しさから安藤広重(歌川広重)の浮世絵や志賀直哉の「暗夜行路」などにも紹介されており、今も瀬戸内の自然と調和した見事な景色をつくり出しています。現在、観音堂は国の重要有形文化財に指定され、安産・子育ての観音様として信仰を集めています。

鎌倉 疫病蔓延で退治した蜘蛛を祀る「八雲神社」

 鎌倉最古の厄除開運の神社。平安末期に疫病が流行。その時に、源義光が京都祇園社の祭神をここへ勧請したのが始まり。
 古くは祇園天王社・祇園社と称したが、明治維新に八雲神社に改称された。
 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。

尾道 自然石に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。

厚木 伊豆の伊東一族子孫の菩提寺「清源院」

 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。
 伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
 伊東氏は、藤原氏南家・藤原為憲の流れをくむ工藤氏の一族で、古く平安時代の末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡の伊東荘(現在の伊東市)の地を本拠としていた豪族であった。

鎌倉 江戸の増上寺に次ぐ学問所「光明寺」

 参道入口の近くに石の門柱があり、「天照山(てんしょうざん)鍛錬所(たんれんじょ)」」と書かれていました。第二次世界大戦中に海軍の軍刀を作った鍛冶場である「天照山鍛錬所」がこのあたりにありました。
 総門の右手前には「関東総本山(かんとうそうほんざん)」と刻まれた太い石の角柱が立ち、目をひきます。また、総門の右手には「大本山光明寺」と書かれた石柱が立っています。

尾道 中世折衷様仏堂建築の代表作「浄土寺」

 境内そのものが国宝(非常にめずらしい)
 1994年7月、境内地全域が「建造物と一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件」として本堂とともに国宝に指定されました。
 そんなに広くはない境内に、国宝や重要文化財がたくさんあります。
 この寺は後醍醐天皇と足利尊氏・直義兄弟の両方から帰依され、外護を受けている。山陽屈指の名利です。

座間 家康が鷹狩りの途中に寄った「宗仲寺」

 家康は鷹狩りの途中にこの宗仲寺によっていました。
 鷹狩りは4世紀頃には、既に鷹狩りが行われていました。戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はいずれも鷹狩を好み、気分転換の遊芸にとどめず、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する養生と考えていたことが知られています。
 しかし、鷹狩りの裏には、「伝書鳩での通信の防止」という目的が隠されていたのではないかと思います。それは、ハトが鷹のエサでもあり、鷹がいれば、伝書鳩による通信手段を防止することが出来るのです。

鎌倉 菅原道真の怨霊を鎮めめる「荏柄天神社」

 日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)
 1104年の創建。荏柄天神社は鶴岡八幡宮が再造営されるさい、旧社殿の用材をもらい受けて建造されることが通例。現在の本殿も関東大震災で被災した鶴岡八幡宮の若宮を移築されたもの。
 天神社は学問・武芸に関わる神として信仰を集めましたが、鎌倉では武家の誓約や武家政権を守る神社とされました。
 本殿(国重文)は、鶴岡八幡宮若宮の旧本殿を移築したもので、鎌倉時代の神社建築を伝える貴重な建物です。

山火事を猿が里人に知らせた「山脇神社」

【伝説】
 かつてこの山一帯で、深夜、山火事が発生した際、数百匹もの山猿が社を取り囲んで泣き叫び、里人に危急をしらせ集落への延焼を救った。祭神大山津美之神(山の神=山王)の神使は猿とされる。

 「山王」とは日吉の神様の別名で、天台宗・比叡山延暦寺の守護神としての性格を意味します。それを「山王信仰」といい、天台宗のお寺の広がりと共に日吉の神様がまつられました。こうして全国に分霊社が増えるに伴い、「日吉さんといえばお猿さん」といわれるほど、魔除けの神猿さんも広く知れ渡ったとのことです。

尾道 江戸時代、尾道港の中心地「住吉神社」

 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。
 毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。

厚木 廃仏毀釈の影響が大きかった「龍鳳寺」

 祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸(東京都)駒込の吉祥寺の末寺です。
 大州安充禅師(本寺二世)により享禄三年(1530)開創じされました。開基となったのは地頭床左近太夫で、境内に墓があります。
 床左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。

鎌倉 由比ヶ浜の八幡宮「元鶴岡八幡宮」

 元八幡は、相模守であった源頼義(よりよし)が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。

 ところで、源氏は八幡神の使いのハトである伝書鳩を使うことが出来たという。鳩は時速60~100kmで飛ぶ。この通信手段は古代からあるが、日本の歴史上は「言い伝え」しかない。本当の極秘事項で、家康が鷹狩りの没頭したのは、鷹のエサでもあるハト(伝書鳩)を使わせないためだったのでしょうか?

尾道 瀬戸田 耕三寺「千仏洞地獄峡」

 千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。
 1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。
 洞内は「往生要集」を体感するための空間とされている。