尾道 踊念仏を復興し、継承「正念寺」

 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
 本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。
 時宗の開祖一遍上人の跡を継いだ歴代の上人は「遊行上人」と呼ばれ、全国を回って念仏の教えをひろめたので、各地に「時衆」と呼ばれる念仏集団生まれ、その遊場がつくられました。

厚木 2001年現本堂に落慶を迎えた「宝泉寺」

 宝泉寺は室町時代の後期、1486年に起立。 当時は周囲萬木千草地に満ちて裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としており、 そのため別名「松壽林宝泉寺」ともいわれていた。
 現在の地に初めて堂宇を建立したのが、曽我の小林平馬の弟、「宗珍和尚」 で、師は43年間の在住により布教を発展させ今日の基礎を築いた。
 その後6世「悟庵珊道和尚」の時(1654年、厚木市三田「曹洞宗・ 清源院」6世玉山智存大和尚を法地の開山とし、曹洞宗・宝泉寺の1世に請した。それから今日まで、布教や伽藍・境内地の整備にと壇信徒と共に歩み、19世「大満悦道大和尚」の時に客殿庫裏を、20世「大光真道」の時、現本堂のそれぞれ落慶(2001年)を迎えた。

鎌倉 常に粛然と静まっている「成就院」

 坂の頂部に近い左手の石段を上ると、古義真言宗の寺、普明山成就院がある。
 山ノ内の長寿寺、円応寺などと同様、昔の高い道のところに置き去りにされた格好であり、この寺の場合は主要観光ルートから外れているので、常に粛然と静まっている。
 縁起によれば、弘法大師・空海が護摩を焚いて修行した跡に北条泰時が開いた寺という。時に順徳天皇の1219年11月21日。その後兵火にあい、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバック。
 寺宝としては、星の井から出た明星石のほかに本尊不動尊明王、繊細なきり金文様をそなえる千手観音像。それから文覚上人荒行像と呼びならわされているユニークな小像を持っている。

尾道では坂に名前がないがその例外が「蓮花坂」

 旧市内でもっとも古い東西を結ぶ本道とされていた蓮花坂。尾道は坂のまちとして知られていますが、坂道のほとんどにに名前がありません。ひとつだけ例外の坂道があります。それが「蓮花坂(れんが坂)」といい、西国寺下から大山寺下まで、愛宕山の中腹を上っていく坂道です。

 尾道には、確かに坂道がたくさんあります。しかし、ほとんどの坂道の途中に石段があります。
 「坂」という文字は、その原点に「土のイメージ」があり、崖に手をかけてよじ登るという意味があります。坂道の途中に石段があると、坂道に「○○坂」と名前をつけるには抵抗があったのでしょうか。

福山 最古の長い歴史を持つ港町「鞆の港」

 靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。良い港の条件は、水深がある程度大きく、荒天時の波風を避けられる湾や島陰などがあること、そして川がないことで、川が海に流れ込むと、その土砂が堆積して港が埋まってしまうので、川がない方がよいのです。山が迫る海辺が好適地となります。鞆の浦はそうした良港の条件をすべて備えているのです。
 鞆の浦の食堂に入ったとき、そこのご主人が「備後地方で採れる魚が一番うまいのですよ」とおっしゃっていました。

鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」

 白雲庵は円覚寺塔頭で、暦応3年(1340)に示寂(入寂)した円覚寺第10世東明慧日(とうみんえにち)禅師の塔所で、円覚寺の塔頭のひとつです。禅師は、北条貞時(時宗の子)が中国元から招いた高僧です。創建された、円覚寺の数ある塔頭の中でも、最も古い歴史を持っています。庵名の由来は、禅師が中国白雲山の住職だったこと、また「白雲抱幽石」という漢詩の一説に因んでいます。

尾道 歴史や文化の発信を願う「海の駅」

 ここは、ヨットやボートの停泊設備です。
 住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
 ここの「海の駅」なのですが、食堂や売店の施設はが、ホテルや食堂、商店街がすぐそばなので、停泊施設以外は造らなかったのでしょう。

 「海の駅」は、瀬戸内海の豊かな自然環境と歴史や文化という貴重な地域の観光資源を多くの皆さんに発信することにより、瀬戸内海の島々への観光客を誘致し、賑わいをもたせて地域経済の活性化と産業振興を図り、人々に安らぎと癒しを与えることを目的に、平成12年3月に広島県豊町に設置された「ゆたかの海の駅」が発祥です。

座間 日蓮が石に文字を書くと泉が「圓教寺」

【円教寺に伝わる話】
 鈴木弥太郎貞勝は、龍ノ口で日蓮上人に向かって振り上げられたものの、光る玉の出現で3つに折れた刀、「蛇胴丸」を作った人。
 そしてあの事件の翌日9月13日、昨夜のうわさを聞きつけた鈴木弥太郎貞勝が、依知に向かって相模川を渡る前にぜひ自宅にお立ち寄り下さいと申し出たことにより日蓮の一行は貞勝の屋敷で休息を取ることになりました。 このとき貞勝は日蓮の教えに入信し、円教坊(えんきょうぼう)という名をいただきました。円教坊はこのあたりの水が刀作りに適さないことを話すと、日蓮は石に南無妙法蓮華経の文字を書き、「三十番神」をまつって地面を掘りました。その時わき出た泉がこの番神水だというのです。

福山 鞆 観心行ができる「顕政寺」

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成された。正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられる。

鎌倉 病にご利益があるる瘡守稲荷も祀る「上行寺」

 上行寺は、日範(にちはん)が1313年(正和2年)に創建したといわれる日蓮宗(にちれんしゅう)の寺で、山号は法久山(ほうきゅうざん)といいます。現在の本堂は1886年(明治19年)に、名越松葉ヶ谷(なごえまつばがやつ)の妙法寺(みょうほうじ)の法華堂(ほっけどう)を移築したものといわれています。本堂の中は公開されていませんが、その格天井(ごうてんじょう)には美しい花鳥の絵が、表の欄間には十二支の彫刻がほどこされています。

尾道 昔は入江で渡しがあった「磯の辨天神社」

 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。
 現在の神社はあまりにも小さもく、昔からこの狭さであったとは思えません。
 横のお店の裏側に名前もいわれも不明の神社があります。この神社と関係があるのでしょうか?
 この不明の神社は現在もお祭りをしているようですが、近所の人や市役所に聞いても情報はありませんでした。

厚木 安産の命、木花咲耶姫命を祀る「子安神社」

 子安神社の創立は不詳でありますが、古社調査事項取調書(明治二十九年(1896)によれば文明十八年(1486)以前の創立。
 祭神は木花咲耶姫命が祀られておりますが、配祀祭神として豊宇気命と須佐之男命が祀られております。
 古社調査書によれば、境内地には稲荷神社があり祭神は宇加之魂命が祀られておりました。
 境内には御神木の楠木がありますが、樹齢八百年以上の古木と言われ、見るからに子安神社の歴史を物語っています。

鎌倉 石仏「百観音」を安置 「円覚寺 大方丈」

 百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称とされています。
 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。

尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」

 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
  「浄土宗」は、誰でも悟りに至ることができる教えで、自分の力だけでは無理でも、阿弥陀仏の力を借り、阿弥陀仏が私たちのために用意いただいた極楽で修行するなら、私たちでも悟れるであろう、という教えです。
 では、その阿弥陀仏とはどのような仏かと申しますと、私たちのような修行に堪え得ない普通の者を救おうとして修行を積まれ、仏となられた方です。

鎌倉 平政子(北条政子)の墓がある「寿福寺」

 このあたりは源義朝の屋敷のあった所といわれています。源頼朝は鎌倉に入ると、父義朝ゆかりのこの地に屋敷や幕府を造ろうとしたのですが、狭いことと、すでに義朝の家来の岡崎義実が義朝をとむらうためのお堂を建てていたので、大倉(蔵)というところに、幕府や屋敷を構えました。
 頼朝が亡くなった後、夫人の政子は頼朝の遺志を継ぎ、1200年(正治2年)、栄西を開山に招き、2代将軍頼家を開基として、ここに亀谷(きこく)という山号の寺を建てました。3代将実朝もしばしば訪れ、やがて七堂伽藍というお堂をもつ立派な寺になり、塔頭も14を数えたといわれ、鎌倉五山の第三位となりました。1323年(元亨3年)の北条貞時十三回忌に、260人もの僧衆が参加する大寺院でした。

尾道 生口島の北鬼門の鎮護「向上寺」

 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。
 向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。
 臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。

座間 崖下に湧く清水悪疫を止めた「座間神社」

 約八百年前の源頼朝が鎌倉へ幕府を開いたころ、悪疫が流行したした時に白衣の老人が来て、日本武尊を祀れば悪疫が治まると教えたので、日本武尊を祀ったといいますが、その時代は1313年で、祭神は飯綱権現だという説もあります。
 1313年に社殿を再建した頃より武家の参詣が相次ぎ、1602年には領主内藤修理亮清成が一統を率いて参拝し、武運長久、氏子の繁栄を祈られたという記録もあります。また、古くからこの地は、八王子街道の宿場街として栄え、ここを往来する人々、また生糸を運ぶ車両の安全を祈念した人々で社頭が賑わいをみせたとも伝えられています。

鎌倉 「日朝さま」といわれる「本覚寺」

 本覚寺の開山は、日出上人、駿河の国三島の出身の学者。後に日蓮宗の僧となった。
 寺伝によると、日出上人は熱心に布教活動をしたが、日蓮聖人同様激しい反対に遭い、捕らえられたが、そのときの鎌倉公方足利持氏が、その熱意に感心し、日蓮聖人ゆかりの夷堂のあるこの場所を与え、1436年に建立された。
 日出上人の後を継いだ日朝上人は、幼いときから神童とよばれた優れた人で、身延山より日蓮聖人の遺骨をここに分骨し、祖師分骨堂が建てらた。また、自分の名を呼びながらお祈りすれば目の病を治してあげようとも言ったそうで、いまでも本覚寺は「日朝(にっちょう)さま」の愛称で通っている。 日蓮の生まれ変わりといわれるほどウルトラ秀才だったので、本覚寺には大物過ぎ、身延山に移り法主となった。

尾道 自然石に刻まれた25の文学碑「文学の小路」

 千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の尾道ゆかりの林芙美子・志賀直哉・正岡子規など25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等をつづる静かな散歩道。点々と続く自然石に刻まれた文学碑です。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。
 彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、碑に刻まれた詩歌の中から聞こえてきそうです。
 自然石に刻まれた25の文学碑から、尾道を愛した文人の思いが伝わってきます。