開基は融海意観が1345~1349年の頃に開いたと伝えている。本尊は阿弥陀如来。1489年の古い記録には、「大日本備後御調群栗原保尾道之浦御所崎宝土寺之を」と記している。
本堂の建物はありません。その代わり、空間的にはのんびりしています。
このお寺さんは本来の本堂がない(敷地のみ)。
かわいそうなことに本堂の建設資金がたまったとき、明治になり藩札が使用不可になり、価値がなくなってしまった。そのため、本堂を建てることができなくなってしまった、とか。
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福山 鞆 「こがらっさん」の愛称の「小烏神社」
小烏の森つわ者どものときの声
小烏神社は南北朝時代の古戦場としても知られています。
1349(庄平4)年、足利尊氏の弟・直義の義子であった直冬は、中国(長門)探題として鞆の浦の大可島城に赴任していましたが、ちょうどその頃、高師直(こうのもろなお)と直義が対立。のち、直義が高師直によって追われたことを知った直冬は、高師直・尊氏と兵馬を交えることになります(小烏の合戦)。
その骨肉相食む合戦の結果、鞆の浦の刀剣鍛冶が発達したのです。
隣の港まち尾道の浄土寺に、足利尊氏と後醍醐天皇の書状が残っており、この辺りの支配権を争っていたようです。
鎌倉 廃寺禅興寺の名残りの塔頭「明月院」
明月院にアジサイが植えられるようになったのは戦後。それまではなんの変哲もないお寺でした。垣根代わりに住職がアジサイを植え始め、次々と株を増やしてあじさい寺と呼ばれるようになりました。質素なお寺だった明月院かアジサイのおかげで有名になりました。
厚木 雨乞いの行事をした「白山神社」
子供時代に「しつけ」が曖昧になると、大人になってから、変わることは出来ない。
法律違反でなければ、何を言っても良い、という感覚が根づいてしまいます。ときには、法律さえ犯しても良いとなってしまいます。
東京都の選挙活動でも見受けられましたが、法律さえ守れば良い、ということになっています。
むかしの商人感覚では「法律は最低のマナー」とされており、もっと上のサービスを目指すことが、最低限のマナーでした。
時代の変化が早くなったため、その場だけの成功を目指すようになり、その結果、「法律さえ守っていれば良い」ということになっているのでしょうか、ときには、法律さえ無視する人も多くなっているようです?
鎌倉 日蓮弟子の四条金吾頼基の屋敷跡「収玄寺」
1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。
日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。
尾道 平安時代の初め806年の鎮座の「艮神社」
非常に神聖な感じを受ける神社ですね。
この神社の真上を千光寺山へのロープウェイが通っています。ロープウェイの駅も直ぐそばにあります。
“神様の真上をロープウエイで通るなんて”この感覚は尾道的なのでしょうか。尾道には神様も仏様も(隣近所に)たくさんいらっしゃるので、あまり気にしないのですね。
大林宣彦監督の尾道三部作第2作「時をかける少女」のロケ地。(1983年公開)で原田知世さん演じる主人公の芳山和子が時空を超えて降り立った場所です。
尾道 夕方“鐘の音”が市街に響く「千光寺」
“ 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。
唐から空海が帰国したのが806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。
また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。”
厚木 「星下り寺」とも称される「妙伝寺」
妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。
日蓮上人配流に際して、無量光寺開祖一遍上人は、当所觀音堂に来て日蓮上人と謁見、以来無量光寺と当寺とで音信を取り合っていたと伝えられています。
鎌倉 かまどの神・火の神の荒神さまを祀る「巽神社
日本最初の征夷大将軍坂上田村麻呂が活躍したころ、富士山が大噴火した最初の記録が残っています。
富士山の噴火記録は、奈良時代の末期からあるのですが、大噴火の記録としてはこの延暦の噴火(西暦800~802年)からです。
富士山の山腹から、大量の火山灰が出、その結果、東海道の道筋が変わってしまったらしいのです。延暦の噴火以前は、東海道は箱根の北、足柄の関所があった足柄路を通っていました。足柄峠を通る道が、もっとも主要な街道だったのです。足柄路は、箱根路と比べるとずっと富士山に近い。この足柄路が、延暦の富士山噴火で降り積もった堆積物で、塞がれてしまい、その結果、南を通る箱根街道が新たに開かれた、と考えられています。
尾道 再開検討が始まった「志賀直哉旧居」
2020年に閉館となった志賀直哉旧居(三観長屋)ですが、文化交流施設として復活させる企画が始動したようです。
志賀直哉は父との確執で東京を離れ尾道に来ました。その理由は推測ですが、足尾銅山の鉱毒事件が関係していると思います。
尾道では、別子銅山(愛媛県新居浜)の鉱毒対策の話し合いが、大阪の住友と愛媛の関係村長が、交通的には真ん中である尾道で行われたことが理由なのでは、と思われます。これが、日本での最初の公害対策であったようです。
鎌倉 忍性が熊野本宮から勧請した「熊野神社」
開山した忍性は大和出身のためか、極楽寺の鎮守の神として熊野本宮からお迎えした。
熊野本宮・熊野坐(にます)神社は家都御子神(けつみこのかみ)=素菱鳴尊(すさのおのみこと)を主神としている。
家都美御子大神の正体には諸説あり、太陽の使いとされる八咫烏(やたがらす)を使う、つまり太陽神だとする説や、明治の水害で社殿が破損するまで本宮は熊野川、音無川、岩田川の合流点にある中洲・大斎原(おおゆのはら)の木立の中にあったので水神とする説、家津御子とは「木ッ御子」だから木の神とする説などだが、元々は深い山中で狩猟をし、材木を伐り出して生活する人々の「熊野にいらっしゃる神」だから、自然の精霊には違いない、と。
福山 龍馬評価が変わってきた「いろは丸展示館」
1988~89年に行われた潜水調査の模様や、その時に引き揚げられた物や調査の様子がわかる写真、そのほかの龍馬に関わる資料などが展示されています。
いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。龍馬は、交渉の部隊を長崎に移すことで時間稼ぎをし、その時間を利用し、様々な工作を行ったようです。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決着しました。
この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。
尾道 巨大カラス天狗が住む「金毘羅大権現の社」でしたが!
西國寺の仁王門をくぐり、西國寺本堂に通じる石段を登って行くと、ちょうど中間当たりの右手に金剛院があります。
金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っている。
永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物がありました。
金剛院は新しく建て替えられたのですが、「金毘羅大権現の社」は一昨年には危険な状態になっていました。今はどうなっているのでしょうか?
鎌倉 日蓮の鎌倉での布教の中心の跡「安国論寺」
“ 日蓮上人の鎌倉草庵の地。
日蓮が世間をあっと言わせた出来事があった。極楽寺の忍性との雨乞い競争で、まづ忍性が祈り始め、七日の内に雨を降らせると公言したが、結果はさんざんで、七日たっても一滴の雨も降らなかった。忍性と数百の供僧たちが更に24日間祈りに祈ったが、ついに雨は降らなかった。日蓮はこれを見て、民をかわいそうに思い、一人で七里ヶ浜の田辺ヶ池の畔で読経したところ、たちどころに雨がしとしと降り出し、異常乾燥も終止符を打ったという。この一件が敵方をより過激にし、激しい迫害を受ける一因になった。
裏山の富士見台からは由比ガ浜海岸を含む市内を一望できる。”
尾道 温羅(うら)なる鬼神を退治「吉備津彦神社」
寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月1日から3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。
神輿と獅子頭を先頭にベタ・ソバ・ショーキーの三鬼神が市内を練り歩き、子どもたちを追い回す神事。「ベタ」「ソバ」が持っている「祝棒」で突かれると子宝に恵まれ、「ショーキー」が持っている「ささら」で叩かれると頭が良くなるとされ、子供達は「ベッチャー、ベッチャー」とはやし立てる。江戸時代に流行した疫病退散祈願から始まった西日本有数の奇祭。
厚木 地蔵様の伝説がある「広沢寺」
【豆腐地蔵】(本堂に安置されています)
ある雪の積もった朝、七沢の豆腐屋が家の前を見ると、山に向かって誰かの足跡が付いた。
「こなに朝早く来た人もせいるもんだ」
と足跡をたどって行くと、、広沢寺奥の地蔵堂の所でとまっていた。主人は豆腐を置いて帰ってきた。
その夜豆腐屋の夢の中に地蔵様が現れ
「私は及川村のある寺におった地蔵だが、及川村は豆腐屋がなくこの七沢にやってきた。これからも頼む、そのかわりこの村に来る疫病を追い払つてやる」
村の人々はこの地蔵様を豆腐地蔵と呼び、毎日毎日豆腐を上げお参りし、みんな長生きをしたそうな。
鎌倉 祇園社神霊を疫病流行時に勧請「八雲神社」
“ 元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。”
座間 伊勢鈴鹿郷の神輿が流れ着いた「鈴鹿明神社」
“ 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。
伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。
みこしがこの地に着いたとき、梨の木坂に住む龍神(座間にもともといた神)はみこしの中の宝物を欲しがり、七日七晩暴れました。これに対して流れついた鈴鹿の神は宝物を与えてしずめ、ここに落ち着くことにしました。
そのころ勝坂(相模原市にある)に「あるか」という蛇の神がいました。あるかは鈴鹿の宝物をねらって戦いをいどんできましたが、これに地元の神も加わり、3つの神とも大蛇となってみつどもえの激しい戦いがくりひろげられました。結局「あるか」の神は負けて南へ逃れ、海老名の鎮守になりました。”
尾道 幼少時代尾道で過ごした「林芙美子像」
“『放浪記』(林 芙美子 著)の一節
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海にさしかかると、慎煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、
左の放浪記の一節を見たとき、この写真の光景が浮かんできます。”
鎌倉 例祭では神輿が海に入る「五所神社」
この神社は、1908年(明治41年)に町内にあった三島(みしま)・八雲(やくも)・諏訪(すわ)・金比羅(こんぴら)・見女八坂(みるまやさか)の五つの神社を一緒にしてまつったものです。
境内の神輿庫には、神輿が安置されていて、「寛永十九年」(1642年)の棟札(むねふだ)がかかっています。
例祭では、五所神社を出発した神輿は、昔から伝わる「天王謡(てんのううた)」を唄いながら材木座の町内を練り歩いた後、材木座海岸で海に入ります。
神さまが神輿に乗ったら、神社に神さまがいなくなってしまうのでは?
それは心配無用。神さまは分身可能です。
神社にも神輿にも、そして三社祭のように神輿が多いときにはそのすべてに、同じ神さまが同時に存在しているのです。
そんな神輿の起源は、奈良時代の749年。
八幡宮の総本社とされる宇佐(うさ)神宮の八幡神が「都に上り、東大寺の建立を援助する」と決意し、奈良に出向きました。このとき、紫色の「輦輿(れんよ)」という輿に乗ったのがはじまりです。