現在の拝殿は、嘉永(かえい)元年(1848年)に建てられ、わら葺(ぶき)屋根でありましたが、、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮守(ちんじゅ)なり延喜式に載(の)りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神(さいじん)下春命(したはるのみこと)という」とあります。
明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊(ぞく)の征伐(せいばつ)に向かった際、野火(のび)の焼きうちの苦難にあうという「古事記(こじき)」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。
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鎌倉 深山幽谷の山寺といった風情がある「浄智寺」
尾道 加藤清正を祀る清正公堂がある「妙宣寺」
後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。
本尊は法華宝塔釈迦牟尼仏である。寺記によると、1615~1623年の頃、寺運が衰えたが、1708年本堂を再興し、次いで1782年現在の本堂を再建した。
本堂の後ろには加藤清正を祀る清正公堂があり、熊本の本妙寺のと同作の清正等身大の肖像が安置されている。
豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した際には、尾道は拠点港になり、大勢の兵士や物資が集積しました。その縁で秀吉の重臣、加藤清正の等身大の木像が妙宣寺に祀られています。
福山 鞆 福山藩との結びつきが強かった「明圓寺」
承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。
鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。 「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。
石山合戦は、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いです。浄土真宗本願寺派は、武装もするし、非常に自主性の高く、横並びの感性が非常に高い集団だったそうです。
鎌倉 女性が人生やり直しの避難だった「東慶寺」
厚木 子供や水子の供養の地蔵信仰「子合地蔵尊」
江の島 たびたび裏山が崖崩れ「延命寺」
尾道 自然石に刻まれた25の文学碑「文学の小路」
鎌倉 季節の花木や野草が咲き乱れる「収玄寺」
厚木 火を司る火之迦具土大神を祀る「秋葉神社」
秋葉神社といえば火伏の神として全国に約四百社あり、総本宮は静岡県にある秋葉山本宮秋葉神社である。祭神は火を司る火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)で伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の子供だが、明治までは秋葉大権現といわれる仏教寺院で、秋葉山三尺坊が信仰を集めていた。
秋葉三尺坊大権現が火伏の神として全国的になるのは徳川綱吉の頃からで、秋葉山三尺坊が火伏に霊験あらたかとして宣伝されてからである。秋葉講が組織され、とくに火事の多い江戸では多くの秋葉講が結成され、町の各所に秋葉山常夜燈が設置され、家々の軒下には秋葉大権現のお札が張られるようになり、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになって全国各地に広がったのである。
尾道 五重塔から三重塔へ「天寧寺 三重塔」

「五重塔から三重塔へ」という珍しい塔
ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。重要文化財に指定されています。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
天寧寺の三重塔は、五重塔であるにもかかわらず、心柱が下まで通っているわけで、こういうところからも、以前は五重塔であったことがわかります。また、その他にも、五重塔だったことを示す痕跡があちこちに残っています。外観もそうです。三重塔にしては各層の間が詰まっているように見える。
鎌倉 石段の登り口に「星ノ井」のある「虚空蔵堂」
相模原南西 庚申信仰の本尊を祀る「勝源寺」
勝坂の金沢山勝源寺は、曹洞宗愛甲郡小野竜鳳寺末で開山は笑山充間(寛永五年没)、開基は村民伊右衛門(寛永10年没)である。ここの青面金剛は明治時代に養蚕祈願の庚申さまとして賑わったお寺です。
青面金剛尊霊場(札所)
青面金剛は中国の道教が基礎となった庚申信仰の本尊です。庚申信仰では、人の身体には三匹の虫「三戸(さんし)」がいて、庚申の日の夜には人が寝ている間に抜け出し、天帝に宿主の罪科を報告すると考えられています。悪行が伝わると寿命を短くされてしまうため、皆で集まって徹夜する「庚申待ち」という風習が生まれました。
この会合を「庚申講」と呼びます。庚申講は平安時代から貴族に広まり、やがて民間でも盛んとなり、夜通しの酒宴へと変化していきました。仏教では、青面金剛は帝釈天の使者で、悪霊を払い除く力があるとされています。
尾道 明治の火災の時、三重塔が残った「向上寺」
明治の王政復古で祀られた「日野俊基朝臣の墓」
日野俊基は、1324年、後醍醐天皇の側近、倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。
この時、日野俊基はゆるされたが、資朝は翌年佐渡に流された。
後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。
1331年、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てたが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された。
日野俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。
日野俊基は、討幕運動の先駆者として、明治天皇が、忠臣として再評価されました。
厚木 相模観音霊場27番札所だった「聖眼寺」
寺院の由来と歴史
聖眼寺(しょうげんじ)は上三田の才戸橋南側の県道から、山の根の長い参道を入った奥に観音堂が建立されています。昔は観音堂の左手に本堂と庫裡がありましたが、今は存在しません。
江戸時代には相模三十三観音霊場の二十七番札所として観音信仰で栄えていた寺院です。寺は三田寺と呼ばれ、参道入口の門塔に「當国二十七番三田寺」と彫り込まれています。
『新編相模国風土記稿』の古文書によると、開山は円珍(えんちん)といわれる智証大師(814~891)で、観音堂には千手観音長二尺智証作を置くと記されています。円珍は14歳で比叡山に登って修行。天台教学・密教を学び、第五世天台座主となり、法門の発展に尽くした高僧です。
尾道 聖観音に祈願して海難をのがれた「善勝寺」
開基は、遠く天平の世、諸国に建立された頃と伝えられている。古くは禅宗で善性寺といい、1573~1591年尾道権現山城(千光寺山城)主杉原民部太夫元垣の菩提所となった。杉原氏の没落後は寺運も衰えたが、1596~1614年の頃、性意が中興して真言宗にかわり善勝寺と改名した。
本尊は聖観世音菩薩(市重文)。これは一名「萩の観音」とも呼ばれている。現在の本尊は1694年住職隆慶・その弟子頼音のときに、当地の小物小屋浄甫が再建したものを1980年に修復したものである。1664年6月正遍建立の持仏堂がある。
寺宝の「官人使馬之図」(市重文)の額は、当地橋本氏の祖次郎右衛門が海上で難風に遭ったとき、この寺の聖観音に祈願して海難をのがれたので報恩のために異国からこの絵を持ち帰って本納したと伝えられている。
鎌倉 北条時頼の夫人により創建か「延命寺」
相模原 江戸時代には寺子屋も開かれていた「常福寺」
尾道 生口島の耕三寺「未来心の丘」
未来心(みらいしん)の丘。
境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。


















