尾道 もとは向島にあった信行庵が移転「信行寺」

 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。

 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。

厚木 鎌倉幕府の御家人安達藤九郎盛長が勧請「八幡神社」

 八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。
 建築年代ぽ残された棟札(むなふだ)から元禄3年(1690)とみられます。
 朱塗りを基調として、彫刻や組物などは極彩色としています。
 元禄3年(1690)の八幡宮再興棟札には大工として、三増村((愛川町三増)の高木半左衛門、宮本清兵衛の二人の名前が記されています。また「進神ノ大施主 川口長三郎」とあり。これは三田郷の領主です。

鎌倉 江戸期に当地へカムバック「成就院」

 縁起によれば、弘法大師・空海が護摩を焚いて修行した跡に北条泰時が開いた寺という。時に順徳天皇の1219年11月21日。
 平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、
 1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失した。
 兵火の後、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバックした。

福山 鞆 福島正則が埋め立て陸続きに「圓福寺」

 当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
 戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
 福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。
 いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用されました。

尾道 岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。

鎌倉 四季の花が楽しめる「長谷寺」

 鎌倉時代以前からある古寺。736年の創建、開山は徳道(奈良長谷寺の開祖でもある)。坂東33ヵ所観音霊場の四番札所であり、本尊の十一面観音は高さ9.18mある。
 寺の縁起によると、霊夢を得た徳道上人が721年に大和(奈良県)の初瀬で1本の楠から2体の像を造り、1体を奈良の長谷寺に、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと祈り海に流しました。
 その16年後、三浦半島の長井の浜の漂着したものを現在の地に移し、長谷寺は創建されました。
 むかしは、奈良初瀬の長谷寺に対して新長谷寺とよばれていいました。奈良の長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、この長谷寺とは宗派としてのつながりはありません。

相模原市南西 庚申信仰の本尊を祀る「勝源寺」

 勝坂の金沢山勝源寺は、曹洞宗愛甲郡小野竜鳳寺末で開山は笑山充間(寛永五年没)、開基は村民伊右衛門(寛永10年没)である。ここの青面金剛は明治時代に養蚕祈願の庚申さまとして賑わったお寺です。
 青面金剛は中国の道教が基礎となった庚申信仰の本尊です。庚申信仰では、人の身体には三匹の虫「三戸(さんし)」がいて、庚申の日の夜には人が寝ている間に抜け出し、天帝に宿主の罪科を報告すると考えられています。悪行が伝わると寿命を短くされてしまうため、皆で集まって徹夜する「庚申待ち」という風習が生まれました。

厚木 弘法大師の伝説、荻野川「秋葉神社」

【石になったサト芋】
 今から約1200年前(8百年代)、全国を行脚していた弘法大師は、ある夏の日、この荻野にさしかかりました。すると、一人の農婦が、源氏河原で取りたてのサト芋をざるで洗っていました。土手の上から、それを見た大師は、イモを洗う農婦の見事さに見とれてしまい、いつの間にか、その農婦の後ろまで近寄っていました。そして、丁寧に頭を下げた大師は、その農婦に「私は旅をしている者です。この辺りは山が多く、宿屋もありません。すまないが、そのサト芋を恵んではくれませんか」と話し掛けました。ところが、その農婦は「このサト芋は石のように硬いので食ぺられません。水も少ないので……」と、大師(頼みを何となく断わりました。………

鎌倉 龍口寺輪番でもっとも早く建てられた「本龍寺」

 本龍寺(ほんりゅうじ)は、神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。本尊は大曼荼羅。霊跡本山比企谷妙本寺の旧末寺(池上土富店法縁)。
 この寺は、日蓮聖人の直弟子である日朗聖人の弟子、朗門九鳳の一人、妙音坊日行聖人を開山とする。比企高家の屋敷跡に建てられたと伝えられ、境内には高家の墓が残る。
 本龍寺は龍口寺輪番八ヵ寺のうち、もっとも早い時期に建てられた寺である。1302年(乾元元年)日行によって開かれた。創建時には与蓮山(よれんざん)という山号であったが、輪番寺になり龍口山とあらためられた。

尾道 瑠璃山という別名を持つ「浄土寺山山頂」

 尾道三山で最も高い浄土寺山(瑠璃山)の山頂展望台からの眺めは天下一品。歴史的な雰囲気を残す尾道旧市街地はもちろん、南には瀬戸内海の島々、北には尾道の別の姿を見ることができます。
 特に瀬戸内の島々の遠望が良いです。ここまで登ってくる観光客はまづいません。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
 浄土寺山は”尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。冬の時期、条件が良ければ四国山脈まで一望できます。

鎌倉 足利尊氏が後醍醐天皇への挙兵決意「浄光明寺」

 北条氏六代執権・北条長時が1251年に創建して、浄土(諸行本願義)、真言、華厳、律の四宗兼学の寺として、開山に真阿(真聖国師)を迎えた。真聖国師は法然からつづく善導大師本願の弟子であったので、創建当時は浄土宗の寺でした。
 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

福山 鞆 ふわりとした空気が流れる「慈徳院」

 慈徳院の山門は、寺伝によると昭和17年ごろに再建されたものだといいます。この山門は薬医門の形式をとっており、屋根には立派な鬼瓦が見られます。
 その山門をくぐると、ふわりとした空気が流れる静かなお庭が迎えてくれます。四季折々で表情を変えるお寺さんのお庭―、鞆っこにとっての癒しの空間です。

厚木 長野高遠石工の作か地蔵様がある「広沢寺」

 清川村の煤ヶ谷から厚木の七沢、および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があった。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちでした。
 高遠は長野県伊那市の高遠町で、鎌倉時代の頃から石材業が発達して農民の多くが石工となって働いていた。
 高遠の地は田畑が少なかったので、農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかく、高遠藩はその対策として、元禄の初め頃にいろいろな職人になることを奨励した。その背景があり、また職人の中でも手間賃は石工が最も高かったので石工になる者が多かったようです。

鎌倉 鼻高く眼光の鋭い異人「建長寺半僧坊大権現」

 無文元選は、父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家、その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国するとき嵐にあい、そのとき、今にも大波に飲み込まれそうな船中で禅師が観音経を唱えていると、鼻が高く眼光の鋭いひとりの異人が現れました。この異人が「わたしが禅師を無事、日本にお送りします」と、船頭や水夫を指揮して台風を見事乗り切り、博多の港へと導いて姿を消したのでした。
 その後、禅師が方広寺を開くと、その異人が再び姿を現し「弟子になりたい」と願いました。禅師は「あなたは、半ば僧のようなところがある」と言われて弟子になることを許し、そこから「半僧坊」と呼ばれ修行に励むことになりました。

尾道 干潮と満潮の差は3mを越える「昔の船着場」

 「昔の船着場」が再整備されています。
 瀬戸内海中央部の干潮と満潮の差は3mを越えます。そのため船着場は階段状に作られており、毎日2回づつ干潮と満潮があり、海面の高さの変化に応じて、船と船着場(岸)に板をかける段を変えて、人が荷の積み卸しをしていました。
 このあたりは瀬戸内海の中央部で、海水が激しく混ぜ返されます。このため、海の栄養分が行き渡り、しかも18kmにもなる潮流が味の良い海産物を生み出します。料理人の中には備後地方の海で採れた魚が一番おいしいと言われる方もおられます。しかし、下水処理が進みすぎ、海の栄養分が不足し、海産物に変化が起きています。

鎌倉 地元では大塔宮ともいわれる「鎌倉宮」

 二階堂に鎮座。護良親王の通称である大塔宮(おおとうのみや)に因み、地元では大塔宮ともいわれている。祭神は護良親王。境内に摂社南方社(祭神南ノ方)村上社(祭神村上義光)がある。例祭八月二十日。もと官幣中社。明治二年七月勅令により創建。明治六年、明治天皇の行幸があり、その行在所は一部宝物の陳列所としている。境内は東光寺跡。本殿背後に土牢があり、祭神幽閉の処といラ。親王の墓は東北にあたる理智光寺趾の山頂にあって、宮内庁の所管である。九月二十二、三日の両夜、観光協会の主催で薪能が奉納される

相模原 江戸時代 山伏の修験が行われた「八幡宮(磯部)」

 磯部八幡宮はもともと源氏の氏神であるとされ、境内には三社神、金刀比羅神社、山神宮、疱瘡神、稲荷社などが点在しているほか、御神像の仏弥陀が奉斉されています。
  神社の創建時期は明らかでないが、1358年以前にはすでに旧磯部村の鎮守としてこの地で民衆の信仰を集めていたと見られています。
 当社では山伏の修験が行われ江戸時代には沢山の家業繁昌厄除が焚から又この地域は大山詣りの宿場のため境内は非常に賑ったと伝へられます。
 当時は対岸の依知、山際等からも参拝があり特に火渡りの護摩が有名でありました。

鎌倉 日蓮の弟子である六老僧が建てたとも「龍口寺」

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法(にっぽう)が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻(きざ)み、1337年(延元2年)に草庵(そうあん)を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧(ろくろうそう)が建てたともいわれます。1883年(明治16年)ごろに住職を置くようになるまで、龍口寺には住職を置かず、輪番八ヵ寺といって、近くの八つの寺が順番に龍口寺を守っていました。室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。
(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

尾道 海雲塔とも呼ばれた「天寧寺三重塔」

 当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
 なぜ、五重塔として修復せずに、三重塔に変えてしまったのか、その理由はよくわかりませんが、五重塔として再建して、再び四重、五重が傷んでしまったら困ると考えた人がいたのかもしれません。いずれにしても珍しい塔です。
 (「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)

厚木 源頼朝の側室丹後の局を救った「妻田薬師院」

 妻田の薬師堂のある地名は、白根といいます。言い伝えによれば、良(ろう)弁(べん)という僧がお堂で休んでいて夢を見ました。東の方を見ると、庭の大楠が灯籠になり、お堂は昼のように明るくなりました。良弁が身を清めようとして池の側へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がりました。そこでこの地を白根と呼ぶようになったそうです。
 境内の楠は、県指定の天然記念物で、戦国時代の1569年、武田信玄が小田原を攻めた帰り道、夜中に軍を進めるためにこの木に火を付けて灯りとしたという話も伝えられています。
 また、この薬師については、源頼朝の側室丹後の局が正室・政子の嫉妬によって命を狙われた際に、局を救うという働きをしています。局の薬師如来信仰の賜であるという伝承になっています。