鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。

厚木 古民家は、当時の生活を色濃く伝える「岸邸」

 厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
 古民家は建築様式や各部屋の使われ方や呼び方など、その地方の特色を色濃く残しており、歴史や文化を考える上で貴重な文化遺産であるといえます。
 岸家住宅は、広大な屋敷の入リロに薬医門を構え、主屋の他に土蔵3棟があります。建築年代は、「本宅上棟式祝儀受納帳」や棟札などから、主屋が明治24年(1891)、薬医門が明治19年(1886)と考えられます。

尾道 豪商の寄進で再建〈持善院〉

 1994年境内に祀られ長寿の神として知られる「多賀皇神社」も新しく建て替えられました。
 国生み神話の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)をお祀りしています。伊勢神宮に祀られている天照大神(あまてらすおおみかみ)の御親にあたる神様で、昔から「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」といわれ、除災招福、特に寿命の神様として信仰されています。(持善院ホームページより)
 向拝に竹を編んで作られた「龍の注連縄」が張られています。

鎌倉 昔の高い道のところに置き去り「成就院」

 平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師さま空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。

 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年~1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。

座間 家康が鷹狩りの途中に寄った「宗仲寺」

 宗仲寺は家康と関係の深い寺である。この寺の開基は内藤清成で、家康の側近として活躍した人であり、開山源栄上人も若いころから家康と親交があった上人である。
 家康は鷹狩りを好み平塚に中原御殿、府中に府中御殿を建て、しばしば鷹狩りを催したといわれる。座間宿村は、中原御殿へ四里(約16km)府中御殿へ六里(約24km)という位置にあり、鷹狩りの道筋にあたっていたため、三回この宗仲寺にたちよって源栄と談話したことが、いくつかの史料の中に残されている。
 鷹狩りの獲物はハト、このお寺の裏には鳩川が流れています。
 ところで、日本には伝書鳩がいたにもかかわらず、伝書鳩の話はほとんどないですね。唯一知っているのは、尾道にある浄土寺の話だけです!

尾道 尾道で最初にできた神社「艮神社」

 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。

 「艮」という字は、会意(二字以上の漢字を組み合わせ,同時にそれぞれの意味をも合わせて一字の漢字とすること)は、「目+人」で、「目」は呪的な目的で聖所に掲げられている邪眼。その下に、後ろ向きに退く「人」の形になっており、侵入者が邪眼を恐れ、退く意味だそうです。

鎌倉滅亡の際の兵火で全焼、再建した「海蔵寺」

 もとは真言宗(しんごんしゅう)の寺でしたが、1253年(建長5年)鎌倉幕府6代将軍宗尊親主(むねたかしんのう)の命により、藤原仲能(ふじわらなかよし)が七堂伽藍を有する海蔵寺を創建したとあります。しかし、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡の時に焼失してしまいました。
 その後1394年(応永元年)鎌倉公方(くぼう)足利氏満(あしかがうじみつ)の命により、上杉氏定(うえすぎうじさだ)が源翁禅師(げんのうぜんじ)(心昭空外(しんしょうくうがい))を開山に招いて再建しました。それからは扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄え、1577年(天正5年)に建長寺(けんちょうじ)に属し、現在に至っています。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

福山 鞆 坂本龍馬は策略士だった「いろは丸展示館」

 いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。
 明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
 このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。
 龍馬は、交渉の部隊を長崎に移すことで時間稼ぎをし、その時間を利用し、様々な工作を行ったようです。
 最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決着しました。
 この事件は、坂本龍馬が暗殺される半年前のことです。

座間 野火が延焼して焼失、現在の地へ「星谷寺」

 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたもの。
 本尊は聖観音菩薩で、坂東八番の札所として著名な真言宗大覚寺派の寺院です。寺の縁起によれば奈良時代・聖武天皇の御代(724~748年)に高僧行基により営まれた堂宇が寺の起こりとされます。嘉禄三年紀梵鐘(国重要文化財)、宝篋印塔や文書類(座間市重要文化財)など、多くの寺宝を伝えます。

鎌倉 源頼朝の娘、大姫、哀しい話が「岩舟地蔵」

 頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、木曽で兵を挙げた後、長男の義高(よしたか)を人質として鎌倉によこしました。
 頼朝は、義高をまだ幼い大姫の許婚者にしました。その後義仲を近江の粟津(あわづ)で討った頼朝は、義高も殺してしまおうと時をうかがっていました。政子は夫の考えを知ると、義高と仲の良い大姫の気持ちを思い、ある日、義高に女性の衣装を着せてまだ夜の明けきらぬうちにそっと馬で逃がしました。義高の家来が、一日中「双六(すごろく)」という二人でする遊びを一人でして、義高がいるように見せかけました。ところが頼朝はそれに気づき、義高を探し出して討ちとるように命令しました。数日後、義高は武蔵の入間川の河原でつかまり、首を切られました。この時の2人の年齢は、義高は12歳、大姫は6歳ぐらいだったといわれています。こののち大姫は、義高を慕って病気になり、若くして世を去りました。
 頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、木曽で兵を挙げた後、長男の義高(よしたか)を人質として鎌倉によこしました。
 頼朝は、義高をまだ幼い大姫の許婚者にしました。その後義仲を近江の粟津(あわづ)で討った頼朝は、義高も殺してしまおうと時をうかがっていました。政子は夫の考えを知ると、義高と仲の良い大姫の気持ちを思い、ある日、義高に女性の衣装を着せてまだ夜の明けきらぬうちにそっと馬で逃がしました。義高の家来が、一日中「双六(すごろく)」という二人でする遊びを一人でして、義高がいるように見せかけました。ところが頼朝はそれに気づき、義高を探し出して討ちとるように命令しました。数日後、義高は武蔵の入間川の河原でつかまり、首を切られました。この時の2人の年齢は、義高は12歳、大姫は6歳ぐらいだったといわれています。こののち大姫は、義高を慕って病気になり、若くして世を去りました。

尾道 加藤清正を祀る清正公堂がある「妙宣寺」

 後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。
 このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。

 本堂の後ろには加藤清正を祀る清正公堂があり、熊本の本妙寺のと同作の清正等身大の肖像が安置されている。
 豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した際には、尾道は拠点港になり、大勢の兵士や物資が集積しました。
 その縁で秀吉の重臣、加藤清正の等身大の木像が妙宣寺に祀られています。

厚木 天正時代徳川家康が訪れた「松石寺」

 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならべて」-(家康)

 当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。

福山 鞆 鍛冶屋たちの氏神様「小烏神社」

 小烏神社は、地元の人たちから「こがらっさん」の愛称で親しまれている神社。福島正則が鞆の浦の城下町を整備した際に、鍛冶工をこの地域に集めて鍛冶屋町を造りました。その中心にあるのが小烏神社です。創建の年代はよくわかっていませんが、室町時代の後期に、鍛冶を生業とする人たちが、氏神様として祀ったのが起源ではないかといわれています。

 12月には例祭である「ふいご祭り(鉄鋼祭)」も開かれます。現在の神社の境内は、1864(元治元)年に林半助らにより整地されたものだといいます。鞆鍛冶の伝統を今に伝えるお社さんです。

鎌倉 創立当時お堂は松葉ケ谷に「啓運寺」

 開山は啓運日澄(けいうんにっちょう)です。日澄は、大町名越(おおまちなごえ)の同じ日蓮宗の妙法寺(みょうほうじ)の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷(まつばがやつ)に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 日澄は、博学で多くの知識をもち、徳の高い名僧といわれた人で、法華経(ほっけきょう)を研究して55巻からなる『啓運抄(けいうんしょう)』という書物を1503年(文亀3年)出版しています。そのほかにも多くの本を書き残した学僧でした。

尾道 裏山の岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」

 済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
 ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちているシーズンは、滑りやすいので注意してください。

座間 不動尊を祀る不動池「心岩寺」

 開山年代は寛正元(1460)年頃で、鎌倉建長寺第七十五世悦岩興惟禅師の法弟成英玉大和尚が開山し、この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺としたものと伝えている。
 本堂北側の不動尊を祀る不動池には豊富な湧水が利用されています。
 裏手の墓地には伊達正宗の好敵手で、豊臣秀吉の小田原攻めに参加し帰路当地で亡くなった岩城常隆の追善供養塔(五輪塔。座間市重要文化財)が伝わります。

鎌倉 100数基の小さな五輪塔が「来迎寺」

 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。

 本堂裏手の広場には、「三浦大介公の家来の墓」と表示された100数基の小さな五輪塔などが並んでいます。また、来迎寺会館の中には三浦義明の木像が安置されています。
 三浦大介は、源頼朝の挙兵の際に尽力し、石橋山の合戦に敗れた頼朝のもとに一族をむかわせ、みずからは衣笠城にとどまり平家方を迎え撃ち、畠山重忠の軍勢と戦い89才で戦死した三浦の豪族。

福山 鞆 戦国時代、安国寺恵瓊が再興した「安国寺」

 無本覚心(法燈国師)を開山として、1273年(文永十年)に釈迦堂(仏殿)を、翌年に阿弥陀三尊像を造立した『金宝寺』が、備後安国寺の前身です。
 安国寺の歴史が再発見されたのは1949(昭和24)年。解体修理が行われた安国寺の阿弥陀三尊像の中から古文書が見つかった時です。
 安国寺は本来、金宝寺。室町時代に寺社名、歴史が書き換えられたと分かりました。阿弥陀三尊像、法燈国師坐像やこれらを収める釈迦堂など、すべて金宝寺時代のものだと判明しました。

尾道 千光寺山、たたくとポンポンと鳴く「鼓岩」

 鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。
 右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。

「鼓岩(つづみ岩)=ぽんぽん岩」 映画監督:大林宣彦
 尾道の、海や町を見降ろす千光寺山の中腹に、ぽんぽん岩と呼ばれる大岩がある。小石を握ってその岩の真ん中を破くとぽんぽんと音がするので、そう呼ばれるのである。それはきっと、岩の内部が空洞になっている故なのだが、ぼくにはそれがまるで岩の声のように聞こえる。面白くて、楽しくて、そして恐ろしい。
 だから、こどもの頃から、ぼくはこのぽんぽん岩が大好きだった。面白くて楽しいだけでは駄目。こどもは恐ろしいものに心ひかれるのである。

鎌倉 源頼朝と源実朝を祀る「白旗神社(八幡神社内)」

 鶴岡八幡宮境内末社。祭神源頼朝・源実朝。例祭五月二十八日。他に八月九日一目実朝祭、十月二十八日文墨祭を行う。
 「天正修営目論見図」には本宮の西側に白旗社があり、明治十九年柳営社(源実朝)と合せて現在地に鎮祭した。
 白旗社については社伝によると正治二年(1200)白旗大明神の勅号を賜って、平政子(北条政子、北条政子という名は近世以降になってそう呼ぶようになったようです。1218年以降1225年までは、朝廷や寺社には吾妻鑑に記載されている「平政子」を名乗っていたと考えられる。)が創建、また源頼家の造立ともいう。