厚木 縁結びの観音さまとしても知られる「長谷寺」

【観音堂】 (重要文化財)
 建久年間(1109~1198)源頼朝公が秋田城介義景に命じ造営を加えしめられた。
 だが、嘉吉二年(一四四二)春一山炎上する処となり、ついで六間半四面の堂宇を再建されたのが堂宇であります。宝形堂で斗棋の組み物や、十二支を素朴な彫りに飾った墓又等によった格調高い建築様式です。内陣には寛文十二年(1672)に旧飯山村の大工西海氏によって造られた厨子が安置され観音堂と共に重要文化財に指定されており、その中に本尊十一面観世音菩薩立像が納められている。

鎌倉 龍口寺輪番寺で最も早く建立「本龍寺」

 この寺は、輪番寺の中で日蓮宗(にちれんしゅう)の寺としては最も早く建てられたものです。山門を入った正面の本堂には、田辺ガ谷(たなべがやつ)の雨乞(あまご)いの日蓮上人像や大黒天、鬼子母神(きしぼじん)、十羅刹女(じゅうらせつじょ)像などが、本尊の三宝本尊とともにまつられています。また、室町時代の作で、彩色も美しい日行上人像も安置されています。

尾道 冬至の朝日の方向に向けて造形「岩屋荒神社」

 岩屋を正面から見ると、ほぼ三つの岩で岩屋ができている。上の大きな岩が、岩屋の天井部分になっており、その大岩を支えているのが両側の二つの岩で、それぞれが岩屋の左側面と右側面にある。
 下の岩に、大きく湾曲した上の大岩が乗っている。後にもう一つの岩があり、上の大岩を文えているようです。 古代人が造営したとも言われています。これだけの重量をどのように動かしたのでしょうか? 確かに岩の重なり方は人工的とは思えるのですが。

相模原 南西 小田原北条時代お堂を再建「長松寺」

 鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
 1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
 1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。

尾道にこんなところが「日比崎 竜王山石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 竜王山の五大明王は浮き彫り像で、不動明王は上部を浅い山型にした板状の石材を使い半肉彫りです。他の明王は船型の半肉彫りです。降三世明王は大自在天とその妃、烏摩を踏みつけて立つ三面八臂像で、軍荼利明王は一面十臂像、金剛夜叉明王は三面八臂像で、それぞれ火焔光背を負うています。細部まで丁寧に彫られた明王像で、大威徳明王は不動明王と降三世明王の後ろに隠れるように置かれています。

鎌倉 腰越 日蓮にぼたもちを供養した「法源寺」

 法源寺は、ぼたもち寺ともいわれ、桟敷尼(さじきに)が龍ノ口(たつのくち)の法難(ほうなん)の日蓮にぼたもちを供養(くよう)したといわれます。
 大町の常栄寺(じょうえいじ)にも同じ話がありますが、桟敷尼の実家が腰越だったといわれます。
 境内の向かって左側の建物は、「経一殿(きょういちでん)」という額を掲げる稲荷(いなり)堂です。
 この経一稲荷は、龍口寺の稲荷などとともに四方から日蓮を守護(しゅご)したと伝えられています。

厚木 元山王社の山王権現を祀る「知恩寺」

【智恩寺山王大権現懸仏】
 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。

尾道 尾道で最初にできた神社「艮神社」

 最上部の笠木(かさぎ)と反増(そりまし)部分(両側の反り返った所)の大きくてきれいにえがかれた曲面を持つ石鳥居は、尾道以外では余り見かけません。

 非常に神聖な感じを受ける神社ですね。

 この神社の真上を千光寺山へのロープウェイが通っています。ロープウェイの駅も直ぐそばにあります。
 “神様の真上をロープウエイで通るなんて”この感覚は尾道的なのでしょうか。尾道には神様も仏様も(隣近所に)たくさんいらっしゃるので、あまり気にしないのですね。

鎌倉 腰越 日蓮の刑場(処刑中止)の跡に「龍口寺」

 龍ロ法難の際、幕府に捕らえられた日蓮大聖人様がへの一晩幽閉されたと、伝えられる洞窟。
 日蓮は房州の出身で、積極性と理想主義を体現した人。
 南部の安房の人は、南国的で人情味に富み、積極的であり、情熱的で働き者が多いとのこと。

 日蓮は政治の中心地鎌倉にきて熱心にを法華経を広めました。
 そのころ、地震や火事、病気などの災害が続いたので、日蓮は、『立正安国論』を書き、「このように災害が続くのは思想が誤っている。人々が正しい信仰をもてば国が安らかになる。」と説きました。

福山 鞆 淀媛神社から医王寺へ

 鞆の入江の砂浜をのんびりと歩くことも出来ます。
 また、路地に入り登っていくと、途中に蘭学者、平賀源内(1728~79)の「平賀源内生祠」があります。平賀源内は、鞆の津の溝川家所有地で陶土を発見し、陶器造りを伝授しました。

尾道 熊野神社から福善寺の間に「丹花小路」

伝説「丹花(たんが)の子育てゆうれい」

 久保の本通り啓文社(閉店)の斜め前に細い小路があります。この小路は丹花小路といいます。
 むかし、この丹花小路に一軒のあめ屋がありました。そのあめ屋では、でんぷんで作った白い『のしあめ』を売っていました。もろぶたいっぱいの『のしあめ』をのみでわって計り売りしていました。丹花小路で作られるので、丹花あめとよばれていました。そのあめ屋でそのころふしぎな出来事がおきていました。 トントン、トントン、毎晩のように遠慮深げに戸をたたく人がいました。………

鎌倉 弁財天を円覚寺の鎮守とした「鐘楼弁天堂」

 北条貞時が、江ノ島にあった弁財天を円覚寺の鎮守として祀った。鎌倉幕府、あるいは、北条氏と江の島弁財天との関わりは、

 江島弁財天は、昔から福徳金運の神様として知らており、江の島に鎮座する江島神社は、江島弁財天、あるいは江島弁天、江島明神(みょうじん)などと呼ばれて親しまれてきた。
 もともと江島神社は龍神(りゅうじん)信仰から発したものであり、そこに仏教信仰が入ってきて神仏習合によって弁財天が融合したのが、鎌倉時代のこと。

厚木 平安初期の美人小野小町を祀る「小町神社」

 小野小町(生没年不詳)は、「絶世の美女」という最高級の形容詞でいまに語り継がれています。
 平安時代の女流歌人で、六歌仙(ろっかせん)の一人という文化人の姿の一方で、伝説的な恋多き女としての姿がよく知られています。
 小野小町を慕った深草少将(ふかくさのしょうしょうの「百夜(ももよ)通い」の伝説に象徴されるように、その美貌ゆえに多くの男たちの心をとりこにしたといわれています。

尾道を代表する景勝の地「千光寺山頂」

 2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。

 ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
 設計は、建築設計事務所「AS」です。

福山 西国法華布教の拠点であった「法宣寺」

 1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が、この地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。
 かつては、この正面に「天蓋マツ」とも呼ばれた天然記念物の松がありました。しかし、1991年夏、残念ながら六百余歳で枯死しました。

鎌倉 明治維新で実現した王政復古「葛原岡神社」

 明治天皇は日野俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、1884年勅旨をもって従三位を追贈され、1887年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われた。一説には、地名の起りは葛原親王・鎌倉権五郎景政を祭神とする梶原の御霊社の故地であったことに因むという。
 いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したのが、桂小五郎をはじめとする長州の倒幕派です。薩摩の立場も南朝論であり、大久保利通や西郷隆盛が立ち上がったのは「南朝こそ正統であり、北朝は偽王朝である」という理念を実現するためです。

尾道 向島の小歌島とを結ぶ航路「福本渡船」

 大林宣彦監督の映画「ふたり」「さびしんぼう」のロケ地となったり、PlayStation 4用ゲームソフト「龍が如く6 命の詩」にも尾道仁涯町の“仁涯渡船場”として描かれています。

 チケットを購入する必要はありません。船内で料金が徴収されます。カード類は利用できませんので小銭を用意して乗船して下さい。片道3~5分の航海を体験でき、通勤時間帯は3~5分間隔、通勤時間帯以外は10分間隔で就航しています。(混み具合で変わるようです。)

鎌倉 汚れを洗い落とし、銭を清める「銭洗弁天」

 泉の水で銭を洗うということは、いつごろから始まったのか。伝説によれば、鎌倉幕府の五代執権・北条時頼がそこに参詣して、湧水で銭を洗って福銭にしたのがその起こりだという。
 だが、伝えられている話は作り話に違いないと見る人もいます。近所の誰かが銭を洗ってみた。案外それが銭洗いの始まりであるのかもしれないですね。
 由来はともかく、銭を洗うと銭が増えるという。洗えばなぜ増えるのか。人から人へと渡るうちに、銭には汚れがついてしまう。その汚れを水で洗い落とし、銭を清める。そして銭の力を再生させれば、増えていくということなのでしょう。

尾道 花崗岩で出来た大石門をくぐり延命「持光寺」

持光寺の石の門(延命門)
 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。これだけの石を据え微塵の狂いを生じていない。
 付近の古老のはなしでは、門の上に柱をたてるためのものであろう穴が数個あったと聞かされ、梯子を借りて屋根まで登つたが、薄くセメントがはられ穴の確認はできなかつたが、おそろく天寧寺などで見られるように鐘楼門にする計画であったのが石の基礎だけ出来あがったところで挫折したのであろう。

厚木 イチョウの古木が残る「荻野神社」

 当社は 旧荻野村の中央に位置し祭神は 大己貴命、配祀は素戔嗚尊。

 創立年は不詳 1687年再興し自然石をご神体とし牛頭天王を合祀し石神大明神と称した。1870年に荻野神社と改称された。
 1591年 徳川家康より社領に三石の朱印を附せられ1873年に郷社に指定された。
 境内は約七百坪で御神木の大公孫樹を中心に構成する一大高森は荻野郷総鎮守に相応しい様相を呈している。