ここは、もと扇ヶ谷(おおぎがやつ)上杉家の家老のような役目だった太田道灌(おおたどうかん)の屋敷のあったところといわれています。そばにある「太田道灌邸旧蹟(きゅうせき)」の史跡案内の石碑には、太田道潅やお勝の局(つぼね)についての説明が刻まれています。
この寺を建てた英勝院は太田道潅の4代の孫太田康資(やすすけ)の娘で、徳川家康(とくがわいえやす)の側に仕えてお勝(かつ)の局(つぼね)と呼ばれていました。家康の信頼厚く、後に水戸家初代の徳川頼房(よりふさ)の養母となった人です。家康が亡くなると、尼(あま)となり英勝院と呼ばれました。やがて祖先ゆかりの地を3代将軍家光からいただき、1636年(寛延3年)に英勝寺を完成させました。
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鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」
鎌倉 昔の高い道のところに置き去り「成就院」
鎌倉滅亡の際の兵火で全焼、再建した「海蔵寺」
もとは真言宗(しんごんしゅう)の寺でしたが、1253年(建長5年)鎌倉幕府6代将軍宗尊親主(むねたかしんのう)の命により、藤原仲能(ふじわらなかよし)が七堂伽藍を有する海蔵寺を創建したとあります。しかし、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡の時に焼失してしまいました。
その後1394年(応永元年)鎌倉公方(くぼう)足利氏満(あしかがうじみつ)の命により、上杉氏定(うえすぎうじさだ)が源翁禅師(げんのうぜんじ)(心昭空外(しんしょうくうがい))を開山に招いて再建しました。それからは扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄え、1577年(天正5年)に建長寺(けんちょうじ)に属し、現在に至っています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
鎌倉 源頼朝の娘、大姫、哀しい話が「岩舟地蔵」
頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、木曽で兵を挙げた後、長男の義高(よしたか)を人質として鎌倉によこしました。
頼朝は、義高をまだ幼い大姫の許婚者にしました。その後義仲を近江の粟津(あわづ)で討った頼朝は、義高も殺してしまおうと時をうかがっていました。政子は夫の考えを知ると、義高と仲の良い大姫の気持ちを思い、ある日、義高に女性の衣装を着せてまだ夜の明けきらぬうちにそっと馬で逃がしました。義高の家来が、一日中「双六(すごろく)」という二人でする遊びを一人でして、義高がいるように見せかけました。ところが頼朝はそれに気づき、義高を探し出して討ちとるように命令しました。数日後、義高は武蔵の入間川の河原でつかまり、首を切られました。この時の2人の年齢は、義高は12歳、大姫は6歳ぐらいだったといわれています。こののち大姫は、義高を慕って病気になり、若くして世を去りました。
頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、木曽で兵を挙げた後、長男の義高(よしたか)を人質として鎌倉によこしました。
頼朝は、義高をまだ幼い大姫の許婚者にしました。その後義仲を近江の粟津(あわづ)で討った頼朝は、義高も殺してしまおうと時をうかがっていました。政子は夫の考えを知ると、義高と仲の良い大姫の気持ちを思い、ある日、義高に女性の衣装を着せてまだ夜の明けきらぬうちにそっと馬で逃がしました。義高の家来が、一日中「双六(すごろく)」という二人でする遊びを一人でして、義高がいるように見せかけました。ところが頼朝はそれに気づき、義高を探し出して討ちとるように命令しました。数日後、義高は武蔵の入間川の河原でつかまり、首を切られました。この時の2人の年齢は、義高は12歳、大姫は6歳ぐらいだったといわれています。こののち大姫は、義高を慕って病気になり、若くして世を去りました。
鎌倉 創立当時お堂は松葉ケ谷に「啓運寺」
鎌倉 100数基の小さな五輪塔が「来迎寺」
鎌倉 源頼朝と源実朝を祀る「白旗神社(八幡神社内)」
鎌倉 登り口に「星ノ井」のある「虚空蔵堂」
鎌倉 護良親王の遺子日叡が父の霊を弔うため「妙法寺」
日蓮の御小庵が焼かれた後、ここには法華堂が建てられ、本圀寺(ほんこくじ)となりましたが、室町時代の初めに京都に移されました。その跡地に護良親王(もりよししんのう)の遺子(日叡(にちえい)が父の霊を弔うため、1357年(延文2年)に寺を再興したのが妙法寺の起こりといわれています。
妙法寺の寺名は日叡がいたところの妙法房(みょうほうぼう)から、山号は日叡の幼名りょう巌丸(りょうげんまる)から付けられたといわれています。
この妙法寺は南北朝から室町時代にかけては寺の勢いが盛んで、塔頭が5院あったということです。また江戸時代、11代将軍徳川家斉(いえなり)が参拝し、明治30年ごろまで、将軍御成(おなり)の門があったといいます。
鎌倉 前身は多福寺、その後、廃寺、そして再興「大宝寺」
鎌倉 一幡の母が井戸に身投げ「蛇苫止堂」
若狭局を祀る社
源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。
すると、それに不満な源頼家は、比企能員(ひきのよしかず)と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。
蛇苦止明神は妙本寺(みょうほんじ)の守護神となっています。
鎌倉 北条時頼の夫人により創建か「延命寺」
鎌倉 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ「東漸寺」
鎌倉 鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「化粧坂」
鎌倉 材木座町内の五つの神社を一緒に「五所神社」
この神社は、1908年(明治41年)に町内にあった三島(みしま)・八雲(やくも)・諏訪(すわ)・金比羅(こんぴら)・見女八坂(みるまやさか)の五つの神社を一緒にしてまつったものです。祭神は大山祇神(おおやまづみのかみ)・素戔嗚尊(すさのうのみこと)・建御名方命(たけみながたのみこと)・崇徳院霊(すとくいんのみたま)・天照大神(あまてらすおおみかみ)で、毎年6月の第2日曜には盛大な祭りが行われています。境内の神輿庫には、神輿が安置されていて、「寛永十九年」(1642年)の棟札(むねふだ)がかかっています。例祭では、五所神社を出発した神輿は、昔から伝わる「天王謡(てんのううた)」を唄いながら材木座の町内を練り歩いた後、材木座海岸で海に入ります。
鎌倉 深山幽谷の山寺といった風情がある「浄智寺」
鎌倉 鎌倉では珍しい五重塔「龍口寺」

龍口寺の五重の塔は明治四十三年(1910)竣工、棒造り銅板葺き、神奈川県で唯一の木造本式五重塔である。初層の上部には彫刻師、永田伊助の手になる日蓮大聖人御一代記が奉納されている。
五重の塔は、この世と、また、私たち人間を形づくっている五つの要素である
「地」、「水」、「火」「風」、「空」の五大を意味する。
鎌倉 比企能本夫妻の像が「妙本寺祖師堂」
鎌倉 源氏と鎌倉のつながりのできた「元鶴岡八幡宮」
元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水(いわしみず)八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州(今の東北)の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
後三年の役(えき)のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。