鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」

 明月院のもともとは、北条時頼が建てた「最明寺」という自邸内の持仏堂がはじまりのようです。時頼の死後は荒廃し、子の時宗がそれを再興し、禅興寺としました。
 この禅興寺の盛時に塔頭として明月院が建立されました。
 本寺の禅興寺は江戸時代に衰退し、明治初年に廃寺とされ、明月院だけが残りました。

 明月院にアジサイが植えられるようになったのは戦後。それまではなんの変哲もないお寺でした。垣根代わりに住職がアジサイを植え始め、次々と株を増やしてあじさい寺と呼ばれるようになりました。質素なお寺だった明月院かアジサイのおかげで有名になりました。

尾道 太宰府に左遷さる道真が寄った「御袖天満宮」

 菅原道真公着衣の袖をご神体とする神社で、大林宣彦監督の映画「転校生」で主人公が石段を転げ落ちるシーンのロケ地としても有名。またテレビアニメ「かみちゅ!」で境内モデルとなった神社。

 雷が鳴ったとき、「くわばら、くわばら」と唱えませんか?

 死後に雷神となった菅原道真は、復習のために各地に雷を落としたという伝説があります。
 しかし、自分の領地桑原には落雷がなかったところから、「私はあなたの故郷の桑原に住んでいる者ですよ。雷を落とさないでください。」という願いを込めて「くわばら、くわばら」と唱えるようになった、ということです。

鎌倉 足利尊氏が蟄居していた「浄光明寺」

 境内を奥に進むと、石段の上に頼朝の建てた永福寺(ようふくじ)から移されたと言い伝えられる本堂があります。中には、阿弥陀(あみだ)・釈迦(しゃか).弥勒(みろく)の過去・現在・未来を表す三世仏が安置されています。本堂の横にある収蔵庫には、本尊の阿弥陀三尊像(あみださんそんぞう)(国重文)と地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)が安置されています。阿弥陀如来像は、鎌倉時代末期の宋(現在の中国)の影響を受けた彫刻で、像の高さが141cmもあり大きく立派なことと、粘土を貼り付けた土絞(どもん)という模様(もよう)があることでで知られています。

鎌倉 蛇形ノ井の「蛇苫止堂」

 1422年(応永29年)のこと、佐竹(さたけ)氏と上杉(うえすぎ)氏の戦いがあり、負けた佐竹上総介入道常元(さたけかずさのすけにゅうどうつねもと)は山を登って、妙本寺祖師堂の中で自殺しました。あとを追ってきた上杉方は、祖師堂に火をつけました。そのときの住職日行(にちぎょう)は急いで堂の前の宝蔵から、これだけは焼かれないようにと、日蓮(にちれん)が書いた、本尊である仏の世界を表した曼荼羅(まんだら)を持ち出し、「蛇形ノ井」の中に隠しました。するとにわかに空に黒雲が起こり、その中に蛇の姿が見え、突然、すさまじい音とともに雨が降り注いで火を消してしまったということです。

鎌倉 明治の神仏分離の際にこの地に「蛭子神社」

 昔、本覚寺の鎮守でその境内にあった夷三郎(えびすさぶろう)をまつる夷堂が、明治時代になって寺と分けられてこの地に移り、蛭子神社と名付けられました。この場所には、もと小町下町(こまちしもまち)の鎮守の七面大明神(しちめんだいみょうじん)が、小町上町(こまちかみまち)の宝戒寺の鎮守であった山王大権現(さんのうだいごんげん)とー緒にまっられていました。
 本版は、1923年(大正12年)の関東大震災で壊れましたが、1933年(昭和8年)改築されました。

鎌倉 熊のような猫が住みついたという「報国寺」

通称:「竹の寺」
 1334年創建。開基は、足利尊氏の祖父、足利家時で、開山は天岸慧広(てんがんえこう)。
 1438年の永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺で自刃(10歳または14歳)している。

【伝説】
 室町時代この谷にも宅間猫という年老いた大猫が住みつき、里へ出ては子どもを取って食べるので、当時住職だった暘谷乾幢和尚(ようこくかんどうおしょう)が山に向かって一喝したら、熊のような猫が崖の下で死んでいたという話が残っています。

鎌倉 頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺「満福寺」

 開山は行基(668~749)と伝えられ、本尊は薬師如来です。源義経(1159~1189)が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があります。(案内板より)
 元暦2年(1185年)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。

鎌倉 1283年、正式な僧が100人いた「円覚寺仏殿」

【伝説】
 寺名・寺地は、はじめ北条時宗と蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)によりえらばれたが、工事を起すと地中から石櫃が現れ、中に円覚経が納められていたため、それにちなんで円覚寺と名づけるいたったという。山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。白鷺池・国師来朝の際、八幡の神霊が白鷺に化身、国師を導いてこの池に降りたったのを記念して名づけられたという。

鎌倉 花散歩、心おだやかに「長谷寺」

寺の花だよりには、
 春の桜・藤・躑躅(つつじ)・牡丹・山吹・海棠(かいどう)。
 夏の紫陽花(あじさい)・花菖蒲・百日紅(さるすべり)・凌霄花(のうぜんかずら)・木槿(むくげ)。
 秋の萩・桔梗・彼岸花・石蕗(つわぶき)・秋明菊・紅葉。
 冬の臘梅(ろうばい)・水仙・万作・椿・木瓜(ぼけ)・福寿草・梅。
 など、数々列記されています。

鎌倉 祇園社神霊を疫病流行時に勧請「八雲神社」

 元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
 境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。

鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」

 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。

鎌倉 明治維新、南朝の復活か「日野俊基朝臣の墓」

 俊基の墓は国指定の史跡となっており、1887年(明治20年)に俊基の霊を祀る葛原岡神社が建てられています。
 日野俊基は文書(もんじょ)博士で、出世したので、学問の神様としての信仰も集めています。
 南朝の忠臣としてその功ならず、元弘二年(1332)悲憤の最後を偲んで、別格官幣社に昇格ずる運動があったが、実現しなかった。戦後単立法人となった。
 現在は由比ガ浜地区の鎮守として信仰されています。鳥居の左手に社務所と神輿庫(みこしこ)があります。

鎌倉 新田義貞が鎌倉攻め本陣跡に建てた「九品寺」

 創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
 鎌倉では唯一の義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。
 1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
 北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。

鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝わる「英勝寺」

 ここは、もと扇ヶ谷(おおぎがやつ)上杉家の家老のような役目だった太田道灌(おおたどうかん)の屋敷のあったところといわれています。そばにある「太田道灌邸旧蹟(きゅうせき)」の史跡案内の石碑には、太田道潅やお勝の局(つぼね)についての説明が刻まれています。
 この寺を建てた英勝院は太田道潅の4代の孫太田康資(やすすけ)の娘で、徳川家康(とくがわいえやす)の側に仕えてお勝(かつ)の局(つぼね)と呼ばれていました。家康の信頼厚く、後に水戸家初代の徳川頼房(よりふさ)の養母となった人です。家康が亡くなると、尼(あま)となり英勝院と呼ばれました。やがて祖先ゆかりの地を3代将軍家光からいただき、1636年(寛延3年)に英勝寺を完成させました。

鎌倉 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。

鎌倉 昔の高い道のところに置き去り「成就院」

 平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師さま空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。

 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年~1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。

鎌倉滅亡の際の兵火で全焼、再建した「海蔵寺」

 もとは真言宗(しんごんしゅう)の寺でしたが、1253年(建長5年)鎌倉幕府6代将軍宗尊親主(むねたかしんのう)の命により、藤原仲能(ふじわらなかよし)が七堂伽藍を有する海蔵寺を創建したとあります。しかし、1333年(元弘3年)の鎌倉幕府滅亡の時に焼失してしまいました。
 その後1394年(応永元年)鎌倉公方(くぼう)足利氏満(あしかがうじみつ)の命により、上杉氏定(うえすぎうじさだ)が源翁禅師(げんのうぜんじ)(心昭空外(しんしょうくうがい))を開山に招いて再建しました。それからは扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄え、1577年(天正5年)に建長寺(けんちょうじ)に属し、現在に至っています。
 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より

鎌倉 源頼朝の娘、大姫、哀しい話が「岩舟地蔵」

 頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、木曽で兵を挙げた後、長男の義高(よしたか)を人質として鎌倉によこしました。
 頼朝は、義高をまだ幼い大姫の許婚者にしました。その後義仲を近江の粟津(あわづ)で討った頼朝は、義高も殺してしまおうと時をうかがっていました。政子は夫の考えを知ると、義高と仲の良い大姫の気持ちを思い、ある日、義高に女性の衣装を着せてまだ夜の明けきらぬうちにそっと馬で逃がしました。義高の家来が、一日中「双六(すごろく)」という二人でする遊びを一人でして、義高がいるように見せかけました。ところが頼朝はそれに気づき、義高を探し出して討ちとるように命令しました。数日後、義高は武蔵の入間川の河原でつかまり、首を切られました。この時の2人の年齢は、義高は12歳、大姫は6歳ぐらいだったといわれています。こののち大姫は、義高を慕って病気になり、若くして世を去りました。
 頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、頼朝の従兄弟(いとこ)だった義仲(よしなか)は、木曽で兵を挙げた後、長男の義高(よしたか)を人質として鎌倉によこしました。
 頼朝は、義高をまだ幼い大姫の許婚者にしました。その後義仲を近江の粟津(あわづ)で討った頼朝は、義高も殺してしまおうと時をうかがっていました。政子は夫の考えを知ると、義高と仲の良い大姫の気持ちを思い、ある日、義高に女性の衣装を着せてまだ夜の明けきらぬうちにそっと馬で逃がしました。義高の家来が、一日中「双六(すごろく)」という二人でする遊びを一人でして、義高がいるように見せかけました。ところが頼朝はそれに気づき、義高を探し出して討ちとるように命令しました。数日後、義高は武蔵の入間川の河原でつかまり、首を切られました。この時の2人の年齢は、義高は12歳、大姫は6歳ぐらいだったといわれています。こののち大姫は、義高を慕って病気になり、若くして世を去りました。

鎌倉 創立当時お堂は松葉ケ谷に「啓運寺」

 開山は啓運日澄(けいうんにっちょう)です。日澄は、大町名越(おおまちなごえ)の同じ日蓮宗の妙法寺(みょうほうじ)の住職をしていましたが、1483年(文明15年) にこの啓運寺を創立したということです。創立当時お堂は、松葉ケ谷(まつばがやつ)に建てられましたが、その後現在の場所に移転してきたといわれています。
 日澄は、博学で多くの知識をもち、徳の高い名僧といわれた人で、法華経(ほっけきょう)を研究して55巻からなる『啓運抄(けいうんしょう)』という書物を1503年(文亀3年)出版しています。そのほかにも多くの本を書き残した学僧でした。

鎌倉 100数基の小さな五輪塔が「来迎寺」

 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。

 本堂裏手の広場には、「三浦大介公の家来の墓」と表示された100数基の小さな五輪塔などが並んでいます。また、来迎寺会館の中には三浦義明の木像が安置されています。
 三浦大介は、源頼朝の挙兵の際に尽力し、石橋山の合戦に敗れた頼朝のもとに一族をむかわせ、みずからは衣笠城にとどまり平家方を迎え撃ち、畠山重忠の軍勢と戦い89才で戦死した三浦の豪族。