鎌倉 坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの「巽神社」

 「荒神さま」というとかまどの神・火の神として尊敬されてきました。平安時代のはじめ、坂の上坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東国をしずめるためこのあたりにきたとき、葛原岡(くずはらおか)に荒神を迎えたという伝説があります。その後、1049年(永承4年)に源頼義(みなもとのよりよし)が社殿を改築したといわれ、さらに、今の場所に移ったそうです。

鎌倉 円覚寺、石段を上がると国宝の梵鐘「鐘楼弁天堂」

 1301年の刻銘のあるもので、「洪鐘」(おおがね)と呼ばれている。
 総高259.4cm、口径142cmで、鎌倉時代の代表的な形態を表している(鎌倉で最大の梵鐘)。
 鋳造を頼まれた物部国光は、大きな鐘のため二度の失敗を繰り返すが、北条貞時が七日七夜江ノ島弁財天に参籠し、その加護によって三回目の鋳造で成功したのだという。

鎌倉 日野俊基の霊をまつる「葛原岡神社」

 この神社は、1887年(明治20年)に、日野俊基(ひのとしもと)の霊をまつるため建てられました。
 日野俊基は文書(もんじょ)博士で、出世したので、学問の神様としての信仰も集めています。
 現在は由比ガ浜地区の鎮守として信仰されています。鳥居の左手に社務所と神輿庫(みこしこ)があります。

鎌倉 門前に[源頼朝公祈願所]の石碑「補陀洛寺」

 この寺は南向山(なんこうざん)という山号をもつ真言宗の寺で、源頼朝が文覚(もんがく)を開山として1181年(養和元年)に建てたといわれます。もとは七堂伽藍という建物がそろった大きな寺院であったということです。その後、だいぶ荒れてしまいましたが、文和年間(1352~1356年)に、鶴岡八幡宮の供僧(ぐそう)だった頼基(らいき)が復興したと伝えられています。
 補陀洛寺は別名竜巻寺(たつまきでら)ともいわれ、竜巻にあったり火災にあったりしたようです。寺に伝わるものとして、本尊の十一面観音をはじめとする仏像や貴重な文化財の多い寺です。

鎌倉 福の神が住でいる「銭洗弁天宇賀福神社」

 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
 翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
 北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。

鎌倉 一時は約3,000坪の境内だった「薬王寺」

 昔は梅嶺山(ばいれいざん)夜光寺(やこうじ)とい真言宗の寺でしたが、1293年(永仁元年)日朗(にちろう)の高弟だった日像(にちぞう)が開山となって日蓮宗に改められたと伝えられています。また、梅立寺(ばいりゅうじ)とか梅嶺寺(ばいれいじ)とかの名も伝わっていますが、江戸時代の初めごろ日達(にちたつ)によって薬王寺と改められ再興されました。その後、徳川忠長(ただなが)が1633年(寛永10年)高崎で自刃しましたので、妻の松孝院(しょうこういん)殿(織田信長の次男信雄(のぶかつ)の娘)は、夫の霊を供養するためにこの寺に墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進しました。

鎌倉 日蓮が佐渡へ流されるまで土牢に幽閉「光則寺」

 境内は四季花が絶えない美しい庭ですが、特に、本堂の右前には樹齢約200年、高さ7mほどのカイドウがあり、4月上旬に咲くので有名です。
 本堂に向かって左前に、日蓮宗の信者でもあった宮沢賢治(みやざわけんじ)の『雨ニモマケズ…』の詩碑があり、池の奥は竹林が裏山へと続いています。
 境内奥の墓地上にある。文永八年(1271)龍ノロ法難で日蓮は斬首をまぬがれ、佐渡へ流されるまで、他の僧俗とこの土牢に幽閉されたという。

鎌倉 十字架を模した紋がいまも残る「光照寺」

 石段を上ると、山門の右側に「子育て地蔵」と呼ばれるお地蔵さまが立っています。このお地蔵さまに、子どものことについてお願いするとかなえてくれると信仰されています。
 山門は明治のはじめごろ廃寺となった東渓院(とうけいいん)から移したもので、「くるす門」ともいわれ、キリスト教の十字の紋がある珍しい門です。江戸時代に鎌倉にもキリスト教の信者がいたのではないかと思われい本堂内にはキリシタンが使用したとみられる燭台(しょくだい)が2基あります。

鎌倉 退居寮として開創「白雲庵」

  正和年間(1312~16)に退居寮として開創。 禅師は曹洞宗を修めた中国元の高僧で、1309年、時の執権北条貞時の招きで来日し、1310年円覚寺第10世となり、暦応3年当寺にて遷化するまで、建長寺(18世)、寿福寺などの住職を務めた。江戸時代前期には40の塔頭があった。 現在は18寺の塔頭があり、そのうち住職のおられるところは13寺。 白雲庵はその中で最も古い塔頭である。

鎌倉 ここにも稲荷を祀られている「本成寺」

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

鎌倉 石仏補陀落迦観自在窟 「円覚寺 大方丈」

 円覚寺方丈前の百観音は江戸時代、拙隻尊者が百体の石仏を岩窟に泰安したことが由緒となり、明治に至って今北洪川老師が整備されました。
 円覚寺の百観音を結願所として円覚寺派の寺院に百観音巡礼の札所が開設されました。
 昔は、霊場に写経を納め、その際に納経印をいただいていましたが、それが現在の御納経帳または御朱印帳に変わったものとされています。行く先々の霊場で観音さまの由来を知り、観音さまの御利益にあずかり、観音さまを念じながらお参りされると、心が清浄になり安心を得られることと思います。

鎌倉 源氏が衰退の原因か?「永福寺跡」

 頼朝の死後。二代目の将軍になったのは息子の頼家。 こんな豪華な建物を受け継いだ頼家なんですけど。家臣たち、御家人たちは、「次の将軍さまは何やってんの」というような、不信感を抱いてしまった。それは、頼家がここで何とをやったのか? なのですが、二代目将軍頼家の永福寺での行いに、家来たちは不信感を募らせたといいます。
 どんなことをやったのかというと、京都から文化人を呼び寄せ、遊びの名人を呼び寄せ、頼家はここでどんちゃん騒ぎや蹴鞠をやったり、遊び場にしてしまったのだという。しかも京都から人を呼び寄せており、武士よりも朝廷の貴族たちを大切にしているとして、家来たちが不信感を抱いていった可能性があるのだ、と思われます。

鎌倉 薬師堂だけが残った「辻薬師堂」

 ここには医王山(いおうざん)という山号の長善寺(ちょうぜんじ)があり、寺の伝えでは、奈良時代の神亀(じんき)年間(724~729)、鎌倉にいた豪族で「由比の長者」といわれた染屋太郎時忠(そめやたろうときさだ)が建てたといわれますが、確かなことはわかりません。もとはJR横須賀線の名越のトンネルの西の谷にありましたが、後にこの地に移されました。横須賀線が敷かれたとき、その線路が境内を横切ることになり、本堂が取り壊されて廃寺(はいじ)になり、薬師堂だけが残ったということです。
 また、一説によると、長善寺は江戸時代に焼失し、薬師堂だけを残して廃寺になったともいわれています。

鎌倉 果てしなく大きな智慧と福徳がある「虚空蔵堂」

 正式な名称は、明鏡山円満院星井寺
 聖武天皇の時代の730年 行基が全国行脚の途中、ここで頭脳明晰、記憶力増進をかはる虚空蔵求聞持法(頭脳明晰・記憶力増進の秘宝)の修行したときの伝説が残されている。
 本尊は虚空菩薩(智慧と頭脳明晰と広大無辺の宇宙を掌る仏様)で、行基が彫って祀ったと伝えられている。その後、源頼朝が、秘仏として35年に1度だけ開帳するように命じたと伝わる。現在は毎年1月13日に御開帳して拝める。

鎌倉 頼朝が戦いで大勝したため改名「大巧寺」

 創建は1320年と伝えられています。
 この寺は、はじめ大行寺(だいぎょうじ)といって十二所しありました。頼朝がある戦いのとき、この寺で練った作戦によって大勝したため、大巧寺と名を改めるよう命令したそうです。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになりました。

鎌倉 法然上人が開祖か「鎌倉大仏高徳院」

 開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳だが、高徳院では法然上人を開祖としている。
 当初は、阿弥陀大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、もともとは「大仏殿」が正式名称だった。
 1238年に着工した大仏は木造。1247年、大風で倒壊。1252年に現在の青銅で鋳造された。1495年の津波で大仏殿が流され、露天の大仏になってしまった。この年は北条早雲が小田原城を奪取した年であり、鎌倉はすでに大仏殿を再建する経済力はなかったのでしょう。
 かってこのあたりは鎌倉の西の果て、そのため、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、都市鎌倉、そして関東地方を護持させようとした。

鎌倉 敵味方の区別なく慰める「円覚寺」

 鎌倉時代の1282年 鎌倉幕府執権北条時宗が元寇(文永の役)戦没者(両軍の兵士)追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
 文永の役(1274年)に続いて、弘安の役(1281年)も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。
 円覚寺の経営を主に支えた荘園は、尾張国富田庄(名古屋市)で、円覚寺の寺僧が派遣され海上交通を利用し結びついていた。
 この寺は度重なる兵火や失火等の災害によって多くのお堂を焼失した。現在ある建物は1703年(元禄)の大地震以降再建されたものです。

鎌倉 松葉ケ谷法難の跡「安国論寺」

 寺地は松葉ケ谷法難の跡と伝える。本堂のほか、御小庵・庫裡・山門・熊王稲荷大明神尊殿などが伽藍を形造っている。日蓮が寵って『立正安国論』を執筆したという巌窟も残る。本堂の本尊木造日蓮上人坐像は昭和三十八年の造立。建物も新しい。御小庵の本尊は『立正安国論』を書いている姿を形どった木造日蓮上人坐像。これら以外、鬼子母神および十羅剃女立像・七面大明神立像・大黒天立像・日朗上人坐像などの木造像もまつられている。熊王稲荷大明神尊殿の本尊は木造稲荷明神騎狐像。他に古文書・絵画等も伝わる。

鎌倉 八幡太郎義家が白旗を立てた「源氏山公園」

 源氏山は、英勝寺と寿福寺の裏にまたがる山をいう。後三年の役(平安時代後期の陸奥・出羽を舞台とした戦役)に際して東国に下った八幡太郎義家が山上に白旗を立てたという伝説に因って、源氏山・旗立山とよばれている。『詞林採葉抄』では鎌倉第一の勝地だという。この山は武庫山といわれていたようで、義堂周信の詩にも載せられている。

鎌倉 祖先をまつる神社「御霊神社」

 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。桓武天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。