鎌倉 海風がここちよい「小動神社」 小動の地名は、風もないのに揺れる美しい松の木「こゆるぎの松」がこの岬の上にあったことに由来しているという。別の由来では、この岬の鼻に枝を差し出した松があり、つねに海風に揺れていたため「小揺ぎの松」といい、それが地名になったともいう。
鎌倉 心おだやかに花散歩「長谷寺」 鎌倉時代以前からある古寺。736年の創建、開山は徳道(奈良長谷寺の開祖でもある)。坂東33ヵ所観音霊場の四番札所であり、本尊の十一面観音は高さ9.18mある。 寺の縁起によると、霊夢を得た徳道上人が721年に大和(奈良県)の初瀬で1本の楠から2体の像を造り、1体を奈良の長谷寺に、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと祈り海に流しました。 その16年後、三浦半島の長井の浜の漂着したものを現在の地に移し、長谷寺は創建されました。 むかしは、奈良初瀬の長谷寺に対して新長谷寺とよばれていいました。奈良の長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、この長谷寺とは宗派としてのつながりはありません。
鎌倉 本尊阿弥陀如来は運慶作?「教恩寺」 中座山大聖院教恩寺と号す。開山は知阿、開基北条氏康。もと材木座光明寺境内にあって、宝海山と号したともいう。本尊の木造阿弥陀如来并両脇侍菩薩立像は鎌倉時代前期の作品で、鎌倉市指定文化財。 本堂に安置されている本尊の阿弥陀如来は、運慶が刻んだものと伝えられていますが明らかではありません。
鎌倉 鶴岡八幡宮への参道「若宮大路」 鶴岡八幡宮の参道の「若宮大路」は、頼朝が妻政子の安産を祈願して1182年3月に整備したという。頼朝と政子のあいだには長女がいましたが、嗣子の誕生を祈り、堂々たる大路を海から鶴岡八幡宮へむけて、神をまねく通り道若宮大路を造ったのでしょう。 1182年(寿永元年)8月12日、幼名万寿、二代将軍源頼家が生まれています。 「段葛」とは江戸時代からの名称で、往時は置道(路)とか置石とか作道とよばれていました。
鎌倉 室町時代、佐竹義盛が建てた「大宝寺」 室町時代の1399年(応永6年)佐竹義盛(よしもり)が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けたといいます。それがこの大宝寺の前身で、その後、廃寺になっていたものを、1444年(文安元年)、本覚寺(ほんかくじ)を開いた日出(にっしゅつ)が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺に改めたと伝えられています。 本堂には、本尊の三宝本尊と四菩薩像、その前に日蓮上人像、左側に開山日出と新羅三郎義光の像、右側に出世大黒天と鬼子母神像などがまつられています。
鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」 ここの堂守の僧が勝長寿院に参詣した帰り、路上で急死、84歳の命を落としたと「吾妻鏡」の1188年10月10日の記事にあるから、お堂がそのころにはあったようです。 今では個人宅にある社のようで、お茶屋(不動茶屋)なのかと思えます。お茶屋の奥にお堂があり、不動明王が祀られています。 窟堂(いわやどう)(岩窟不堂(がんくつふどう))は1184年(文治4年)からあり、今も奥の岩屋に不動明王がまつられています。窟小路(いわやこうじ)の道の名はこれによります。
鎌倉 元寇に対応した北条時宗を葬る「仏日庵」 北条時宗は公安9年(1284)に死去したのだが、その菩提はこの円覚寺の仏日庵に葬られた。 その後北条貞時の時代になり、円覚寺は朝廷から太政官符を与えられ、官寺の寺格を得ることになる。貞時の死に際しては法堂が完成し、法要が営まれた。建武・暦応年間(1333~1342)に描かれた「円覚寺境内絵図」には、総門から山門、仏殿などが中国の宋にならって一直線に並び、その隆盛を今に伝えている。(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著より)
鎌倉 徳川・蒲生家ゆかりの寺「薬王寺」 この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。
鎌倉 厳しい座禅会が行われる「報国寺」 報国寺坐禅会は、二十九世 義道和尚の下に昭和三十四年十一月より始められました。 「残業しないで通常の3倍の成果が上がる時間術」(箱田忠昭著)より 仕事だけ、金儲けだけであると、どうしても人としての「幅」がなくなり魅力がない。仕事以外の面で何かやりがいのある勉強をしていきたい。私の場合は坐禅を鎌倉の報国寺坐禅道場でやるようになって、ちょっと人生が充実したような気がする。………
江の島 ひっそりと無縁仏を祀る「延命寺」 「此処は何なのかしら・・・・?」 たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。 閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。
鎌倉 加賀の白山を開いた泰澄が開山「寶善院」 もとは泰澄山瑠璃光寺ともいったと伝えられています。奈良時代の天平神護年間(765年~767年)に越後の国の僧で越の大徳といわれた泰澄が、日ごろ信仰していた十一面観音をこの土地にまつったのが寺の起こりだと伝えられていますがはっきりしていません。泰澄は、加賀(今の石川県)の白山を開いたといわれる人です。越というのは、越前・越中・越後の三国をまとめた呼び名で、今の福井・富山・新潟の三県のことです。また大徳というのは、並ぶ者のないほど徳の高い僧であるということです。
鎌倉 最近は恋愛成就で人気の「佐助稲荷神社」 佐助二丁目鎮座。祭神宇迦御魂命・大己貴命・大宮女命・事代主命。例祭二月初午、元無格社。社伝によると、当社の神霊が翁の姿に現れて、佐殿源頼朝に旗挙げをすすめて助けたので佐助というと伝える。社は鶴岡八幡宮非常の際の御旅所として古くは同社の飛地境内社であった。『金兼稿』に見える源十郎・弥十郎の話は当社の霊験によって、苦難をのり越え、魚腹より財宝を得て栄える昔話の伝説化したもので、古縁起とも見られる。[文献]『市史』社寺編
鎌倉 もとは蓮乗寺といい真言宗だった「蓮乗院」 この寺院の創立年代や開山については、はっきりわかりませんが、光明寺より早い時期からこの地にあった寺で、蓮乗寺(れんじょうじ)といってはじめ真言宗だったということです。その後、光明寺が佐助ヶ谷(さすけがやつ)から移されてきてから、光明寺の子院となり、浄主宗の蓮乗院と改めたといわれてします。 1243年(寛元元年)に光明寺が良忠によって創建されたといわれますが、寺院の落成まで良忠は蓮乗院に居住して、建築を監督(かんとく)したということです。こうしたことから、光明寺の新しい住職となると、まず蓮乗院に入ってから改めて光明寺の本山方丈に入る慣わしになりました。
鎌倉 昔、極楽寺の境内でした「熊野神社」 正面にみかげ石の鳥居があります。石段を上がると美しい緑色の銅葺き屋根の社殿が建っています。かたわらに、神輿を納めてある神輿庫もあります。境内の囲いもなく開放的な割には荒れた感じのないこの神社は、いかにも地域の人々によって守られているという雰囲気をもっています。
鎌倉 大地震で亡くなった人々を弔う「来迎寺」 鎌倉時代の1293年(正応6年)に、鎌倉の大地震で亡くなった人々を弔うため、一向が建てた寺だということがわかりました。明治時代になって頼朝の墓のそばにあった法華堂がなくなったので、そこにまつられた地蔵菩薩・如意輪観音・跋陀婆羅尊者の三仏像と鰐口や手洗い石が移されました。
鎌倉 水戸家から住持をむかえた「英勝寺」 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。(長峰五幸著「鎌倉 趣味の史跡めぐり」より)
鎌倉 天井画《白龍の図》がある「円覚寺 仏殿」 1964年(昭和39年)に建造再建された鉄筋コンクリート造の建物。もとの仏殿は1923年(大正12年)の関東大震災で倒潰し、その40年後に、1573年の図面をもとに再建された。 禅宗様の建築様式で、本尊は宝冠釈迦如来坐像。 円覚寺仏殿造営図は1573年、同寺の仏殿を再興するため作成された断面図(縦約2.2m、横約3.5m)と平面図(縦約1m、横約0.9m)の清書本。制作年代などが分かる安土桃山時代の設計図として珍しく、当時の禅宗様建築の構造形式を細かく伝える点でも貴重。
鎌倉 円覚寺、石段を143段のぼると「鐘楼弁天堂」 急な石段を上ると、正面に弁天堂があります。その左側には、「正安三年」(1301年)の年号が記された梵鐘(国宝)があります。この梵鐘は、北条貞時が物部国光に造らせた鎌倉時代の代表的な名鐘の一つで、高さは2.59mもあり、関東地方最大の鐘です。
江の島 台湾近代化の尽力者を祀る「児玉神社」 明治時代の陸軍大将・児玉源太郎(1852(嘉永5)年~1906(明治39)年)を祀った児玉神社は、創建が1918(大正7)年。その後1921(大正10)年に後藤新平らの尽力により、主要な社殿が建立された。 児玉が生前、江の島の風景を愛し、しばしば清遊した由縁により、この地に神社が創建された。ことに境内には台湾総督時代の関係者による献納の燈籠・水盤などが見られる。
鎌倉 龍口寺輪番を勤めた「本龍寺」 この寺は、輪番寺の中で日蓮宗の寺としては最も早く建てられたものです。山門を入った正面の本堂には、田辺ガ谷の雨乞いの日蓮上人像や大黒天、鬼子母神、十羅刹女(じゅうらせつじょ)像などが、本尊の三宝本尊とともにまつられています。また、室町時代の作で、彩色も美しい日行上人像も安置されています。