鎌倉 孟宗竹林の竹の庭「報国寺」

191031a_hokokuji.jpg

 1334年(建武元年)、足利尊氏の祖父蒙蒔が開いたといわれていますが、宅問(たくま)上杉氏の祖とされる重兼が建てたという説もあります。
 開山は、仏乗(ぶつじょう)禅師ともいう天岸慧広(てんがんえこう)です。中国に渡り修行を積んだ高僧で、五山文学の代表の一人に数えられています。
 報国寺は、足利氏と上杉氏の菩提寺として栄え、5kmほど先の衣張(きぬばり)山まで境内に含むような大きなお寺でした。足利持氏の子義久が永享の乱で自殺したのはこの寺です。

鎌倉 夢窓国師が瑞泉院を建立、その後「瑞泉寺」

191025a_zuisenji.jpg

 開山は夢窓国師(疎石)で、1327年(嘉暦2年)二階堂道蘊がこの地に瑞泉院を建てました。この後、南北朝の時代に最初の鎌倉公方となった足利基氏は夢窓国師に帰依して瑞泉寺と改め、1350年(貞和6年)に亡くなると、瑞泉寺に葬られました。以後鎌倉公方代々の菩提として栄え、関東十刹に名をつらねました。
 発掘調査により復元された初期禅宗庭園は、日本庭園の源流の一つで、国名勝です。

鎌倉 四季花が絶えない美しい庭「光則寺」

191021a_kosokuji.jpg

1274年の創建。開基は北条氏の家臣・宿谷光則(やどやみつのり)、開山日朗上人。
 開基の宿谷光則は、日蓮が佐渡に流罪になったとき、ともに捕らえられた日蓮の高弟日朗を幽閉し監視する任についたが、日朗は自らの不運を嘆くことなく、弟子の案ずる姿に心打たれた光則は、後に日蓮宗に帰依し、屋敷を寺にしたといわれる。
 1650年建立の本堂の中には非公開ではあるが、日蓮、日朗の坐像が安置され、境内の後山には日朗が幽閉されたという土牢跡が残っている。

鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」

191017a_jokomyoji.jpg

 北条氏六代執権・北条長時が1251年に創建して、浄土(諸行本願義)、真言、華厳、律の四宗兼学の寺として、開山に真阿(真聖国師)を迎えた。真聖国師は法然からつづく善導大師本願の弟子であったので、創建当時は浄土宗の寺でした。
 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

鎌倉 祇園天王社と呼ばれていた「八雲神社」

191013a_yakumo.jpg

 鎌倉最古の厄除開運の神社。平安末期に疫病が流行。その時に、源義光が京都祇園社の祭神をここへ勧請したのが始まり
 古くは祇園天王社・祇園社と称したが、明治維新に八雲神社に改称された。
 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。

鎌倉 身代地蔵(裸地蔵)が有名な「延命寺」

191007a_enmeiji.jpg

 本尊「阿弥陀如来像」は、圓應寺の閻魔大王を彫ったあまりの木で作られたことから「木あまりの像」、また、予定より早く完成したことから「日あまりの像」と呼ばれている。
 運慶作と伝えられる「木造地蔵菩薩立像」は、夫人の身代わりとなったことで夫人の守護仏とされている。裸形彫刻で普段は袈裟を纏っている。
 1923年の関東大震災では、滑川を遡上した津波がこの辺りまで来たという。

鎌倉腰越 小動神社の別当寺だった「浄泉寺」

 昔、神仏を一緒にまつっていた時代には、今の小動神社は八王子社(はちおうじしゃ)と呼ばれ、浄泉寺はその別当寺となっていました。そのため、1917年(大正6年)まで、浄泉寺の住職が小動神社も管理していました。神仏分離令以後もこのような形をとっていたのは珍しいことです。こうしたことから、1333年(元弘3年) に新田義貞が鎌倉攻めのときに八王子社に奉納した剣が、この寺に保存されていたことがあったといわれています。また文治年間(1185年ー1189年)に、佐々木盛綱(もりつな)が船上からこの寺を拝んだという話も残っています。
http://risetu.net/03mati_tanken/02kamakura/949/9493/9493-5307Ajosenji/9493-5307Ajosenji_1.html
http://risetu.net/03mati_tanken/02kamakura/haiti_tera.html
http://risetu.net/
191001a_josenji.jpg

鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」

190927a_juniso.jpg

 この神社は昔、熊野十二所権現社(ごんげんしゃ)といって1278年(弘安元年)には光触寺(こうそくじ)の境内にありました。1838年(天保9年)に今の土地を寄付する人がおり、当時30戸の村人の協力で神社を移しました。明治になって神仏分離となり、天神七柱(あまつかみななはしら)、地神五柱(くにつかみいつはしら)の十二柱の神様をまつり、社名を十二所神社と改め、今日に至っています。

鎌倉 日蓮が斬首を免れた霊場跡「龍口寺」

190923a_ryukoji.jpg

 龍口寺の始まりは、日蓮の弟子の日法が日蓮が亡くなった後、日蓮宗にとって記念すべきこの地を後世に残すために自分で日蓮の像を刻み、1337年(延元2年)に草庵を建てて安置したことだといわれますが、やはり日蓮の弟子である六老僧が建てたともいわれます。
 室町時代のころは龍口院と呼ばれていたようで、龍口寺の名が出てくるのは戦国時代になってからです。

鎌倉 墓碑58基、灯籠118基ほか「内藤家墓地」

190919a_naitouke.jpg

 磐城平(福島県浜通南部)から日向延岡(宮崎県)へ移封となった内藤家の墓地。
 代々のものが一墓地に建立されている。 高さ3mに及ぶ大宝筺印塔などが多く、他に笠塔婆、仏像形、五輪塔形、各塔婆形がある。
 不思議な雰囲気が漂っている墓地です。 入口は施錠されていて中には入れませんが、道路の位置が2~3m高い位置ですので、よく見えます。今は幼稚園で分離されていますが、光明寺の墓地の一部なのでしょう。このような大規模の大名の墓所がひとつにまとまっているのはめずらしいのだそうです。

鎌倉 日蓮上人が草庵をむすんだ寺「長勝寺」

190915a_tyoshoji.jpg

 安国論寺とならび、日蓮上人が松葉が谷に来て初めて草庵をむすんだ寺といわれる。
 石井長勝が日蓮に帰依し、1263年に本圀寺を創建したのが始まり。
 日蓮上人の四大法難のひとつである「松葉が谷焼打の法難」はこのあたりであったと伝えられる。その後廃寺となったのを日清が再興し、開基の石井長勝にちなんで長勝寺と名づけた。

鎌倉 毎夜山麓から赤子の声が「海蔵寺」

190909a_kaizoji.jpg

 創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。
 この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開している。
 夏の満月の夜、このあたりに来てみるのも一興かも。

鎌倉 枯山水のお庭がある「浄妙寺」

190903a_jomyoji.jpg

 臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第五位。山号は稲荷山、浄明寺所在。文治四年(1188)に足利義兼が開創、開山は退耕行勇と伝える。はじめは密教系の寺院で極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅剰に改め、次いで寺名も改称するにいたった。改宗時期は正嘉年間(1257-59)のはじめ、と推定されている。歴代には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など、名僧が多い。中興開基は足利貞氏。盛時には三門・仏殿・法堂・禅堂・経堂などが軒を並べ、霊芝庵・瑞龍庵・法雲庵等々の塔頭もあったが、震災や火災で滅んだり廃絶したりして、現在は本堂・庫裡・荒神堂等が伽藍を形作りている。全域史跡指定。

鎌倉 風情のある住居のような「長寿禅寺」

190830a__tyojuji.jpg

 建長寺から小袋坂を下って、明月院踏切へさしかかる途中の左側の小高い石段の上が長寿寺。亀ケ谷坂はこのお寺の脇へ下りてくる。
 石段を昇ると山門前にはこの坂の象徴亀公をふまえた石塔がある。なるほど、亀は万年というから、それで長寿寺というのでしょうか。昔の人は智慧があるのですね。
 開山は古先印元。開基は足利尊氏といわれています。

鎌倉 蛭子は「えびす」とも読む「蛭子神社」

190826a_hiruko.jpg

 昔、本覚寺の鎮守でその境内にあった夷三郎(えびすさぶろう)をまつる夷堂が、明治時代になって寺と分けられてこの地に移り、蛭子神社と名付けられました。この場所には、もと小町下町(こまちしもまち)の鎮守の七面大明神(しちめんだいみょうじん)が、小町上町(こまちかみまち)の宝戒寺の鎮守であった山王大権現(さんのうだいごんげん)とー緒にまっられていました。
 本殿は、1923年(大正12年)の関東大震災で壊れましたが、1933年(昭和8年)改築されました。

鎌倉 観音さまの安置によい場所「杉本寺」

190820a_sugimototera.jpg

 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。

鎌倉 北条家歴代の尊崇を集めた「覚園寺」

190816a_kakuonji.jpg

 古義真言宗京都泉涌寺派。もとは真言・律・禅・浄土の四宗兼学であったが、明治初年に兼学が禁止されて本山泉涌寺が古義真言宗を標榜したのに伴って古義真言宗となった。開山は智海心慧、開基北条貞時。鷲峰山真言院覚園寺と号す。
 この寺の前身は建保六年(1218)に北条義時が建てた大倉薬師堂だという。それ年寺に改め覚園寺としたのは永仁四年(1296)のことである。元冦の難を逃がれることを祈ってのことであうった。鎌倉時代を通じて北条氏の滅亡後建武中興に際しては後醍醐天皇の勅願所となった。建武の中興後は足利氏の祈願所ともなり、代々の為政者に保護されている。

鎌倉 開基の北条時宗の廟所「仏日庵開基廟」

190812a_butunitian.jpg

 中国から日本へ渡来した無学祖元は、元の襲来を前にした北条時宗に、一喝を加えて励ました。「莫煩悩(まくぼんのう)」=「煩悩する莫(なか)れ」現在の情況をありのまま見ることを怠り、ありもしない妄想にふりまわされてノイローゼになることを戒めたのだ。元軍20万の妄想を払うと、作戦がはっきりしてきた。
 北条時宗は元寇を退けたものの、異国相手では没収できる土地がなく、手柄のあった者にもわずかな恩賞しか与えられなかった。このため、多くの武士が幕府に反感を抱く。こうして鎌倉幕府は衰退へと向かっていくのだった。

鎌倉 後醍醐天皇が書かれた額「光触寺」

190808a_kosokuji.jpg

 もとは真言宗の寺でしたが、1279年(弘安2年)に一に帰依した作阿を開山とし、時宗に改めたといいます。開山とは、新しく寺を造ったときの創立者の僧のことです。
 現在の本堂は、改修されていますが江戸時代の建物で、内部の正面には後醍醐天皇が書かれたと伝えられる「光触寺」の額が掲げられ、本堂内陣の装飾は美しい極楽の世界を作り出しています。本堂の前を横切ると池があり、その奥に菖蒲園があります。

鎌倉 天狗の姿をした「半僧坊大権現」

190803a_hansobo.jpg

 後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた方広寺(静岡県浜松市)が半僧坊の本元と言われています。
 無文元選は、父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家、その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国するとき嵐にあい、そのとき、今にも大波に飲み込まれそうな船中で禅師が観音経を唱えていると、鼻が高く眼光の鋭いひとりの異人が現れました。この異人が「わたしが禅師を無事、日本にお送りします」と、船頭や水夫を指揮して台風を見事乗り切り、博多の港へと導いて姿を消したのでした。
 その後、禅師が方広寺を開くと、その異人が再び姿を現し「弟子になりたい」と願いました。禅師は「あなたは、半ば僧のようなところがある」と言われて弟子になることを許し、そこから「半僧坊」と呼ばれ修行に励むことになりました。