1334年(建武元年)、足利尊氏の祖父蒙蒔が開いたといわれていますが、宅問(たくま)上杉氏の祖とされる重兼が建てたという説もあります。
開山は、仏乗(ぶつじょう)禅師ともいう天岸慧広(てんがんえこう)です。中国に渡り修行を積んだ高僧で、五山文学の代表の一人に数えられています。
報国寺は、足利氏と上杉氏の菩提寺として栄え、5kmほど先の衣張(きぬばり)山まで境内に含むような大きなお寺でした。足利持氏の子義久が永享の乱で自殺したのはこの寺です。
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鎌倉 夢窓国師が瑞泉院を建立、その後「瑞泉寺」
鎌倉 四季花が絶えない美しい庭「光則寺」
鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」
鎌倉 祇園天王社と呼ばれていた「八雲神社」
鎌倉 身代地蔵(裸地蔵)が有名な「延命寺」
鎌倉腰越 小動神社の別当寺だった「浄泉寺」
昔、神仏を一緒にまつっていた時代には、今の小動神社は八王子社(はちおうじしゃ)と呼ばれ、浄泉寺はその別当寺となっていました。そのため、1917年(大正6年)まで、浄泉寺の住職が小動神社も管理していました。神仏分離令以後もこのような形をとっていたのは珍しいことです。こうしたことから、1333年(元弘3年) に新田義貞が鎌倉攻めのときに八王子社に奉納した剣が、この寺に保存されていたことがあったといわれています。また文治年間(1185年ー1189年)に、佐々木盛綱(もりつな)が船上からこの寺を拝んだという話も残っています。
http://risetu.net/03mati_tanken/02kamakura/949/9493/9493-5307Ajosenji/9493-5307Ajosenji_1.html
http://risetu.net/03mati_tanken/02kamakura/haiti_tera.html
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鎌倉 もと光触寺の鎮守社「十二所神社」
鎌倉 日蓮が斬首を免れた霊場跡「龍口寺」
鎌倉 墓碑58基、灯籠118基ほか「内藤家墓地」
鎌倉 日蓮上人が草庵をむすんだ寺「長勝寺」
鎌倉 毎夜山麓から赤子の声が「海蔵寺」
鎌倉 枯山水のお庭がある「浄妙寺」
鎌倉 風情のある住居のような「長寿禅寺」
鎌倉 蛭子は「えびす」とも読む「蛭子神社」
鎌倉 観音さまの安置によい場所「杉本寺」
鎌倉 北条家歴代の尊崇を集めた「覚園寺」
鎌倉 開基の北条時宗の廟所「仏日庵開基廟」
鎌倉 後醍醐天皇が書かれた額「光触寺」
鎌倉 天狗の姿をした「半僧坊大権現」
後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた方広寺(静岡県浜松市)が半僧坊の本元と言われています。
無文元選は、父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家、その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国するとき嵐にあい、そのとき、今にも大波に飲み込まれそうな船中で禅師が観音経を唱えていると、鼻が高く眼光の鋭いひとりの異人が現れました。この異人が「わたしが禅師を無事、日本にお送りします」と、船頭や水夫を指揮して台風を見事乗り切り、博多の港へと導いて姿を消したのでした。
その後、禅師が方広寺を開くと、その異人が再び姿を現し「弟子になりたい」と願いました。禅師は「あなたは、半ば僧のようなところがある」と言われて弟子になることを許し、そこから「半僧坊」と呼ばれ修行に励むことになりました。