鎌倉 例祭では神輿が海に入る「五所神社」

 材木座に鎮座。祭神大山祗命・天照大御神・素盞嗚尊・建御名方命・崇徳天皇。例祭七月七日、神輿渡御がある。元村社。材木座区の氏神社。もと三島神社であったが、明治四十一年乱橋村と材木座村にあった諏訪神社・八雲神社・金比羅宮・視女(みるめ)社を合せて五所神社と改称した。視女社は補陀洛寺の鎮守で、見目明神(天照大御神)と牛頭天王を祀った社であった。境内に板碑がある。また神輿は寛永十九年(1642)修造の棟札がある。

鎌倉 仏の顔を納めている本尊の薬師如来「海蔵寺」

 昔、寺のうしろの山すそから、何とも悲しげな赤子の泣き声が毎夜のように聞こえてきました。
 開山の空外(くうがい)が、声のするところを探してみると、泣き声は古ぼけた墓石の下から聞こえてきます。そしてその墓石からは金色の光がもれて輝き、あたりにはよい香りがただよってい ました。そこで空外は、お経(きょう)をあげたあと、袈裟(けさ)をぬいで墓にかぶせました。すると不思議なことに、赤子の泣き声はピタリとやみました。翌日その墓の下を掘ってみると、18cmほどの立派な薬師如来のお顔が出てきました。 このあと空外は新しく薬師如来を造り、堀り出したお顔をお腹の中に納めてまつることにしたのです。

鎌倉 元寇戦没者追悼のため創建した「円覚寺」

 円覚寺の規模は、1283年には、正式な僧が100人、行者(あんじゃ)・人工が100人、その他の人が68人の合計268人でした。行者・人工とは、禅宗の寺で使われていた人達のことで、寺の様々な仕事をしていました。また、そのとき円覚寺で一年間に使う米の量は約1400石(約210 t)、銭は約1700貫文でした。このほかに寺の領地からは、大豆・まき・炭などが運ばれていました。
 1323年、を望が完成し、1334年~1335年に描かれたとみられる「円覚寺境内絵図」によれば、総門・山門・仏殿・法堂などが一直線上に並び、総門と山門との両側には、東司(とうす)(便所)と浴室があり、山門と仏殿の左右には、僧堂と庫裏が並んで中国風に配置されていました。また、このころの塔頭の数は、40を超えていました。

鎌倉 頼朝の娘大姫の守本尊を安置する「岩舟地蔵」

 頼朝の娘大姫の守本尊という地蔵立像を安置するが、堂の事蹟は不明。江戸中期の作成とみられる加納家蔵『扇谷村絵図』には、現在と同じ場所に「地蔵堂」と注記し、『相模風土記』も「岩船地蔵立像長一尺余と称す」と伝えるだけである。木造地蔵像は、胎内銘札等によると、元禄三年(1691)三橋氏が造立したもの。当時から「右大将頼朝御息女之守本尊」と伝えてた。この像を安置する床下に、約130cmほどの、一石で船形光背を負った石造地蔵像と思えるものがある。「岩船」の呼び名はこれに基づくのであろう。(三浦)
[文献]三浦勝男「鎌倉岩舟地蔵堂」(「神奈川県博物館協会会報」第二九号)

鎌倉 山すそに開かれた寺「長谷寺」

 長谷寺は山すそに開かれた寺なので、境内が上と下に分かれています。どっしりとした屋根、瓦の総門の脇から下の境内に入ると、左にハスの花が咲く妙智池(みょうちいけ)が、右にコイなどが泳ぐ放生池(いけ)があります。その二つの池のまわりには梅やボタン、ショウブなどか季節ごとに美しく咲き、1年を通じて花を楽しむことができるので「花の寺」ともいわれます。妙智池のとろには、以則は大黒堂(だいこくどう)がありましたが、現在は上の境内の観音堂の横に移されました。

鎌倉 忍性が熊野本宮からお迎えした「熊野神社」

 正面にみかげ石の鳥居があります。石段を上がると美しい緑色の銅葺き屋根の社殿が建っています。かたわらに、神輿(みこし)を納めてある神輿庫(みこしこ)もあります。境内の囲いもなく開放的な割には荒れた感じのないこの神社は、いかにも地域の人々によって守られているという雰囲気をもっています。

鎌倉 念仏僧の代表者の一人「良忠上人御廟」

 念仏僧の代表者の一人、然阿良忠。石見国三隅荘(島根県)に生まれた人。深く学問を学ばれた後、38歳で聖光上人の弟子となり、法然上人の教えを受け継ぎ、浄土宗の三祖に呼ばれる。法然からかぞえて三代目の人。62歳の頃に鎌倉に入り、布教と弟子の育成に取り組み、鎌倉における専修念仏者の間で指導的立場に立つとともに、他宗僧侶の間でも大きな位置を占めた。78歳の時、在京の門下の招請により、京に上がり布教、著述に励んだ。その後、88歳の時鎌倉に帰ったが、翌年89歳の高齢で入寂した。

鎌倉 竜巻や火災にあったりした「補陀洛寺」

 文覚上人(は頼朝の挙兵をうながした人)の開山、源頼朝の開基。1181年に源頼朝の祈願所として創建。七堂伽を完備した大寺院だったが、火災や竜巻で多くの伽藍を失なった。当時は境内も1km四方あった。
 本尊の十一面観音菩薩像や薬師如来像(行基の作)、日光・月光菩薩(運慶作)、地蔵像(空海作)などが安置されている。

 源頼朝の供養をする位牌所。

 「補陀洛」サンスクリット語で「ポータラカ」(観音菩薩が住むという南海上にある山のことで、観音浄土を意味する)。日本語に翻訳するとき「補陀洛」の字をあてた。
 はじめは、阿弥陀仏の西方浄土が人々の信仰を集めるが、次第に南の補陀洛浄土への信仰が盛んになっていったという。

鎌倉 洪鐘(おおがね)と呼ぶ「円覚寺 鐘楼弁天堂」

 急な石段を上ると、正面に弁天堂があります。その左側には、「正安三年」(1301年)の年号が記された梵鐘(国宝)があります。この梵鐘は、北条貞時が物部国光(もののべくにみつ)に造らせた鎌倉時代の代表的な名鐘の一つで、高さは2.59mもあり、関東地方最大の鐘です。また、鐘楼の鰐口(わにぐち)には「天文九年」(1540年)の年号が記されています。弁天堂は、麓鐘が江の島弁財天の教えによって鋳造に成功したという伝説により建てられています。

鎌倉 恵比寿と同一視される「蛭子神社」

 昔、本覚寺の鎮守でその境内にあった夷三郎(えびすさぶろう)をまつる夷堂が、明治時代になって寺と分けられてこの地に移り、蛭子神社と名付けられました。この場所には、もと小町下町(こまちしもまち)の鎮守の七面大明神(しちめんだいみょうじん)が、小町上町(こまちかみまち)の宝戒寺の鎮守であった山王大権現(さんのうだいごんげん)とー緒にまつられていました。
 本版は、1923年(大正12年)の関東大震災で壊れましたが、1933年(昭和8年)改築されました。
 夷堂は、今は再び本覚寺に移されています。

鎌倉 地震や津波で海辺から移された「円応寺」

 山号を新居山(しんきょさん)といい、十王堂(じゅうおうどう)とも呼ばれていますが、もとは新井(あらい)(荒井)の闇魔堂(えんまどう)というお堂だったといわれています。新居の閣魔堂は、知覚禅師(ちかくぜんじ)が1250(建長2年)に建てた寺で、はじめは甘縄神明(あまなわしんめい)神社の近くの「由井郷見越岩(ゆいごうみこしいわ)」にありましたが、足利尊氏によって海辺に移されました。

鎌倉 腰越 開山は空海と伝えられる「浄泉寺」

 以前は、山門も本堂も、江ノ電の線路の方を向いて建っていましたが、1955年(昭和30年)に国道134号線が造られた際に現在の位置に移されました。国道の工事中の1954年(昭和29年)に、浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝(かいげんつうほう)・治平(じへい)通宝・政和(せいわ)通宝・洪武(こうぶ)通宝その他、宋(そう)や明(みん)の古銭が1000枚以上、約60kgも出土しました。

鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝える「英勝寺」

 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。

(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」[文献]『市史』社寺編、小丸俊雄『東光山英勝寺』より)

鎌倉 素朴な一木造の薬師如来像「辻薬師堂」

 薬師堂には、素朴な一木造で、平安後期のものといわれる本尊の薬師如来像(やくしにょらいぞう)と、江戸時代のものである脇侍の日光(日光)・月光(がっこう)菩薩像(ぼさつぞう)や、鎌倉時代の八体と江戸時代の4体の十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)が安置されていました。現在は鎌倉国宝館す。堂内には同じ形の仏像の一部が安置されています。
 薬師如来は薬壷を持って人々の病気を治すなど願いごとをかなえ、日光・月光菩薩は薬師如来のカが昼夜を問わず発揮できるようにするといわれます。

鎌倉 江ノ島電鉄設置で移した「諏訪神社」

 現在の鎌倉市役所横、市立御成小学校付近は諏訪一族の屋敷跡と伝える場所で、この諏訪神社も諏訪一族の守護神として邸内に祀られていたという。もともとは御成小学校内にあったが、江ノ島電鉄の開通に伴い現在地に移した。御成の人々はもともと小町の蛭子神社の氏子であったが、鉄道線路による分断もあり、1950年頃から諏訪神社の氏子となった。

鎌倉 日蓮が「立正安国論」を執筆した「安国論寺」

 日蓮が鎌倉に来て初めて道場とした岩穴を御法窟といい、『立正安国論』もここで書いたといいます。昔は「日蓮窟」と呼んでいました。
 この法窟がこの寺の造られるもとになったので、開山は日蓮になっています。また寺の名は『立正安国論』を書いたことからきています。

鎌倉 関東大震災で諸堂は潰滅したが「浄智寺」

 浄智寺は山号を金宝(峰)山(きんぽうざん)といい、臨済宗の寺で、北条時頼の三男宗政とその子の師時(もろとき)の二人が開基となり、1281年(弘安4年)ころに建てられたようです。また、開山は、宋の僧である元庵普寧(ごったんふねい)と大休正念(だいきゅうしょうねん)、準開山は、南州宏海(なんしゅうこうかい)(真応禅師(しんおうぜんじ)となっています。宗政が若くして亡くなったため宗政夫人が夫の宗政と子の師時の二人を開基とし、また、開山に招かれた宏海が、自分はまだ若いのでその師の正念をたて、正念はその師の普寧を開山にたてたため、このように複雑な形になったようです。

鎌倉 銭を洗うと百倍、千倍になるという「銭洗弁天」

 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
 翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
 北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。

鎌倉 芝増上寺から移設も「建長寺 仏殿、法堂」

 仏殿は、芝増上寺にあった崇源院(徳川秀忠の夫人、浅井長政の娘、お江)の霊屋を1646年に譲り受けたもの。
 現在の仏殿(国重文)は、1628年(寛永5年)に芝増上寺建てた、江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠の夫人だった崇源院(すうげんいん)の御霊屋(みたまや)の拝殿を、1647年(正保4年)に移転したもので、天井や壁に華麗な装飾がみられます。

鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」

 勧行寺(かんぎょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。山号は龍口山。旧本山は玉沢妙法華寺。潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 境内の右手には本堂があります。開山は日実(にちじつ)で、1303年(嘉元元年)に創建されたと伝えられます。本尊は三宝本尊で、室町時代のものとみられる立派な日上人像とともにまつられています。また、右手に宝剣、左手に経巻を持つ丈嫌菩薩もまつられています。