開基は鎌倉時代の一遍上人と伝わる由緒ある時宗寺院です。元は沖見堂(沖御堂)と称して鞆港に近い西町にありました。「沖見堂」の名称から、航海の安全を保つ灯台の役割を果たしていたのではないかという説もあります。
寺領も広く、境内に五坊を有する大伽藍でしたが、毛利氏に寺領の大半を没収され、その後福島正則によって行われた慶長年間の町割りで町の北の端にあたる現在地に移転しました。江戸時代を通して、朝鮮通信使の定宿でもありました。
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福山 鞆 見事な石造物が 「阿弥陀寺」
福山 鞆 多彩な歴史の足跡が刻まれる「小松寺」
福山 鞆の浦 仏庭十三仏がある「地蔵院」
福山 万葉集にも歌われた「昔の鞆の港」
室町幕府最後の将軍、足利義昭は毛利輝元を頼って、1576年に鞆に移りました。長期滞在となり鞆幕府とも呼ばれました。足利義昭がまだ鞆に滞在中である1582年6月2日に、明智光秀による本能寺の変で、織田信長忠が討たれました。
その2年前には、織田信長を裏切った武将の荒木村重は、隣の港町尾道に滞在しており(1578年10月、突如、信長に対して反旗を翻し籠城したが、その後脱出し、1580年には尾道に滞在)、また、尾道の西国寺には、長宗我部が織田信長を呪った祈祷文と思われる文書が残っているとか。鞆の港は瀬戸内海の中央にあり、瀬戸内海に面した中国、四国、北九州の情報も多かったのでしょう。また、尾道の浄土寺には、伝書鳩を使った通信の技術もあったようです。
そういえば、江戸時代に大阪の米相場の情報を、伝書鳩を使って入手していた尾道の浄土寺の言い伝えでは、「源氏は伝書鳩を使うことができたが、平家は出来なかった」とか。戦争ではローマ時代から使われていた(中国でも使われていた)伝書鳩という通信手段が、日本の歴史の中に出てこないことは不思議ですね!
福山鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」
福山 航海の安全を祈願する「阿武兎観音」
福山 万葉集の大友旅人の歌も詠まれた「鞆港」
福山 鞆 神功皇后の海路安全を願う「沼名前神社」
福山 鞆 かって加藤清正を祀るお堂があった「法宣寺」
福山鞆 「こがらっさん」と親しまれる「小烏神社」
鞆の浦 武将でもある安国寺恵瓊が再興「安国寺」
福山 鞆湾の入口の守り神「淀媛神社」
福山鞆の浦 坂本龍馬「いろは丸展示館」
鞆の浦 江戸時代創建の客殿「福善寺対潮楼」
福山 かつて鞆製網合資会社の「鞆の津の商家」
福山鞆の浦 多彩な歴史の足跡が「小松寺」
福山 鞆の浦で2番目に古い「医王寺」
福山 おっぱいがいっぱい「阿武兎観音」
福山 鞆 坂本龍馬と紀州藩「いろは丸展示館」
いろは丸事件ば、慶応3年(1867)4月、龍馬は海援隊を組織し伊予大洲藩から借げ受けた西洋式の蒸気船「いろは丸」に乗って長崎から大坂に物資(鉄砲)を運ぶ途中、岡山県六島沖(現在の同県笠岡市)で、紀州藩の蒸気船「明光丸」に横から衝突されたのです。明光丸は鞆港へ向けて、いろは丸を曳航しようとしましたが、浸水のため宇治府沖で沈没してしまいました。
このため両者は鞆の浦にとどまりの損害賠償について昼ゆ夜交渉を繰り返しましたが決裂し、舞台を長崎に移して再交渉を行いました。最終的に、龍馬側が賠償金を受け取る、ことでようやく決蒲ししました。
この事件は、坂本龍馬が暗殺(この時、龍馬33才)される半年前のことです。



















