当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。
また、今も境内に滾々と湧く「延命水」は尾道随一の名水です。
「おどり念仏」を今に伝える当山は、まさに時宗の町寺というべき存在と言えるでしょう。
尾道市には奇跡的にも未だ六カ寺の時宗寺院が存在しております。
カテゴリーアーカイブ: 尾道
尾道 夕方“鐘の音”が市街に響く「千光寺」
御袖天満宮 から福善寺への小道!
【民話 力じまんの和七】
明治の初の頃のことです。尾道の港の仲仕たちは、畳表を上げ下ろしする表仲仕と、海産物を上げ下ろしする浜仲仕とに別れていました。
表仲仕の和七は心やさしく働き者でだれにもまして力持ちでした。
そんな和七の鼻をあかそうと、浜仲仕たちの考えたのが、天神さんの五十五段の石段を、三十貫の鉄棒を二本担いで下りることです。
この挑戦を和七はうけてたちました。そして当日、大勢の見物人に囲まれて和七は、六十貫の鉄棒をいっきに胸まで持ち上げると、石段の中程まで下りていきました。 しかしその後、和七は苦しそうになり足も遅くなりました。そして「天神さん、一生一度の力ですぞ。」と天神さんに誓うと、石段の中程まで下りていきました。しかしその後、和七は苦しそうになり足も遅くなりました。そして「天神さん、一生一度の力ですぞ。」と天神さんに誓うと、すべての力をふりしぼって、最後の一段を下りきりました。 その後表仲仕と浜仲仕のいざこざもなくなりました。
尾道 港の守護神を浄土寺から移す「住吉神社」
尾道や瀬戸田は、中世から瀬戸内海交易の中継地として発展し、江戸時代においても有数の港町でした。北前船が寄港するようになると、さらなる飛躍をとげています。
尾道では、1689年に薬師堂浜の西側を、1690年にさらに西の荒神堂浜を、1697年に土堂浜を埋め立てています。この埋立は商人たちの手によるもので、増大する船舶の出入りに応じる形となっていました。
この後、さらなる港の活性化に伴い、住吉浜の築造が急務となりました。そこで、広島藩は、直接工事を計画し、1740年尾道町奉行に平山角左衛門を任命。平山角左衛門は、翌年工事に着手し、住吉浜を築造しました。
(神社は昭和の初期までは、こちら側(海側)を向いていたようです。)
尾道 足利二代将軍義詮が寄進「天寧寺」
尾道 海雲塔とも呼ばれる「天寧寺 三重塔」
尾道 蓮花坂(れんが坂) から 大山寺へ
尾道 生口島 1936年から建立が始まった「耕三寺」
尾道 駅を降りすぐ海が「尾道駅前海岸」
尾道 生口島 日本画家・平山郁夫氏も遊んだ「向上寺」
1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。
国宝の三重の塔は、1階の軒は2軒本繁垂木の扇垂木。つまり二重になっている繁垂木で、垂木が平行ではなく隅の部分で45度になるよう、扇が開いたようになっている。
組み物は唐様の柱上の組み物が3段に積み上げている構造。和洋に唐様が取り入れられて形式で、各層に花頭窓があるほか、建物の装飾が見事。
三重塔の周囲が日本画家・平山郁夫氏の幼少時代の遊び場だったとのこと。また、よくスケッチしたお寺でもあります。
尾道 江戸時代の豪商橋本家の別荘「爽籟軒庭園」
尾道 石鎚山修験道の縮小版「浄土寺山鎖場」

この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
写真は 2013年~2014年の落石対策工事前です。
鎖場が1番から3番あり、1番が一番長く、3番は“腕の力”だけで登る箇所もあります。
ほぼ斜面を真っ直ぐ登りますので、かなり急斜面を登ることになります。
各鎖場は、横に迂回もできますが、山道として整備されてはいません。
尾道 千光寺 から 市立美術館へ
尾道 幼少時代尾道で過ごした「林芙美子像」
尾道 もとは向島にあった信行庵が移転「信行寺」
1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。
1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。
尾道 岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」
尾道 瑠璃山という別名を持つ「浄土寺山山頂」
尾道 干潮と満潮の差は3mを越える「昔の船着場」
尾道 海雲塔とも呼ばれた「天寧寺三重塔」
当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。
本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
なぜ、五重塔として修復せずに、三重塔に変えてしまったのか、その理由はよくわかりませんが、五重塔として再建して、再び四重、五重が傷んでしまったら困ると考えた人がいたのかもしれません。いずれにしても珍しい塔です。
(「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)