旧市街から見ると、ちょっと離れた西側にあります。
境内に入っただけでは気がつかないのですが、裏山にある“岩に刻まれた仏像群(磨崖仏)”は見もの、特別な世界観を作り出しています。
墓地がある斜面には、数多くの仏像か岩に刻み込まれています。ただし、お墓があるところより上は道がありません。双眼鏡などで見ることをおすすめします。(このあたりは花崗岩が風化した大きめの砂粒が斜面にあり、枯れ葉も多く、かなり滑りやすいのです。このような道のない斜面を歩きなれた人以外は、登らない方がよいでしょう。)
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尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」
昔の船着場です。
このあたりは大潮だと3mを越える干満のさがあります。人力で荷揚げするため、船と岸の段差を少なくするために階段状になっています。
このような船着場があると、津波で動力が失われクレーンなどの荷揚げ装置が動かなくなったときでも、人力で荷揚げができますね。
秋の大潮近くに台風が来ると、このあたりの道路は、下水道を逆流した海水で覆われるそうです。
尾道 浄土寺山鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ
浄土寺山の鎖場です。一番鎖、二番鎖、三番鎖と、山頂に向かって三ヶ所の鎖場があります。
この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
真言宗の開祖空海は、「自分が学ぶ上代の俗典は、俗事のことばかりであり、人の一生が終わってしまえば何の役に立つものではない。
この際、俗典の勉学はやめて、真実の教えの源を尋ねることに越したことはない」と、山岳修行者になられて、吉野の金峯山、四国は石鎚山、阿波国の大滝嶽、土佐国の室戸崎などで山岳修行に励まれました。
室戸崎では、ついに虚空蔵菩薩の化身である明星が身中に飛び込んで一体となるという神秘体験を得て、虚空蔵求聞持法を成就したという。
尾道 日限(ひぎり)地蔵尊「大山寺」
心願成就の日限(ひぎり)地蔵尊として日を限って日参し、一心にお願いすれば願い事がかなえられます。特に受験シーズンになると合格祈願のため大勢のお参りがあります。
鎌倉にある安養院にも石造地蔵菩薩の像が安置されていて、「日限地蔵」の別名で信仰されている地蔵様があり、こちらでは「定めた日数内に願い事をかなえてくれる」とされています。
尾道 お茶子娘の供養かんざし燈籠「八阪神社」
この神社のお祭りで、勇壮な喧嘩神輿の三体廻しが、渡し場、中央桟橋前、浄土寺下の三ケ所で行われていました。昔は非常に激しく、御輿を海に投げ込んでいる場面がありましたが、いまはどうなっているのでしょうか?
この付近は、「新街」と呼ばれる飲み屋街。横道に入り込むと「迷路」です。しかし、どこかで広い道に出ますので、まあ、なんとかなります。しかし、酔っ払っているとどうなるかな?
志賀直哉が尾道に住んでいた頃は、この界隈を遊び回っていたのかな?
尾道の花街の人通りの激しい店先で、酒臭い乞食坊主が寝ているので迷惑この上ない。その人が俳人の種田山頭火であったとか。
尾道 大きな反りの豪快な鳥居「亀山八幡神社」
注目したのは、鳥居上部の笠木、島木が一本物の石から創られている事と、反りの大きさである。普通島木部分は柱間において直線であるが、この部分までが大きな反りが付けられている点である。創られた時代は、亀山八幡宮の鳥居が萬治二年(1659年)と支柱に彫り込まれている。八幡宮鳥居支柱に刻まれた文字を読むと、大工石屋与七郎、小工石屋助六、石屋中と有り棟梁与七郎、助六を中心に石工集団で創っている事が伺える。笠木島木が一本物の石で、巾約20尺5寸(6.15m)反りが大きく、豪快で力強く両翼を上げた迫力満点の鳥居で、横綱の不知火型の土俵入りをイメージして創られたのではないかと、推測したい。
尾道 三人の義賊、三つ首様をを祀る「海福寺」
【民話 海福寺の三つ首さま】
江戸時代の終わりごろ、尾道は凶作が続き悪い病気もはやり、世の中は騒然としていました。おまけにどろぽうや追いはぎまでも出没して、人々の心は安まることがありませんでした。
どろぼう一味の首領格と思われる者に、惣兵衛、亀蔵、利助というのがいました。この三人はどろぼうといっても、金持ちからお金や品物をうばい、貧しい人たちに恵んでいたのです。
ところがとうとうこの三人が捕えられました。
三人は文政十一年神無月(旧暦十月)の二十六日、木枯らしのふく寒い日に、処刑されることになりました。………
尾道 ピラミッド型に積まれ無縁仏塚「正授院」
1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
このお寺さんの鐘楼のそばを奥の方に入っていくと、ちょっと意外な場所を発見します。見過ごしてしまいそうなところを発見するとわくわくします。
尾道 冬至の朝日の方向に向けて造形「岩屋荒神社」
岩屋を正面から見ると、ほぼ三つの岩で岩屋ができている。上の大きな岩が、岩屋の天井部分になっており、その大岩を支えているのが両側の二つの岩で、それぞれが岩屋の左側面と右側面にある。
下の岩に、大きく湾曲した上の大岩が乗っている。後にもう一つの岩があり、上の大岩を文えているようです。 古代人が造営したとも言われています。これだけの重量をどのように動かしたのでしょうか? 確かに岩の重なり方は人工的とは思えるのですが。
尾道にこんなところが「日比崎 竜王山石仏群」
この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
竜王山の五大明王は浮き彫り像で、不動明王は上部を浅い山型にした板状の石材を使い半肉彫りです。他の明王は船型の半肉彫りです。降三世明王は大自在天とその妃、烏摩を踏みつけて立つ三面八臂像で、軍荼利明王は一面十臂像、金剛夜叉明王は三面八臂像で、それぞれ火焔光背を負うています。細部まで丁寧に彫られた明王像で、大威徳明王は不動明王と降三世明王の後ろに隠れるように置かれています。
尾道 尾道で最初にできた神社「艮神社」
最上部の笠木(かさぎ)と反増(そりまし)部分(両側の反り返った所)の大きくてきれいにえがかれた曲面を持つ石鳥居は、尾道以外では余り見かけません。
非常に神聖な感じを受ける神社ですね。
この神社の真上を千光寺山へのロープウェイが通っています。ロープウェイの駅も直ぐそばにあります。
“神様の真上をロープウエイで通るなんて”この感覚は尾道的なのでしょうか。尾道には神様も仏様も(隣近所に)たくさんいらっしゃるので、あまり気にしないのですね。
尾道 熊野神社から福善寺の間に「丹花小路」
伝説「丹花(たんが)の子育てゆうれい」
久保の本通り啓文社(閉店)の斜め前に細い小路があります。この小路は丹花小路といいます。
むかし、この丹花小路に一軒のあめ屋がありました。そのあめ屋では、でんぷんで作った白い『のしあめ』を売っていました。もろぶたいっぱいの『のしあめ』をのみでわって計り売りしていました。丹花小路で作られるので、丹花あめとよばれていました。そのあめ屋でそのころふしぎな出来事がおきていました。 トントン、トントン、毎晩のように遠慮深げに戸をたたく人がいました。………
尾道を代表する景勝の地「千光寺山頂」
2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。
ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
設計は、建築設計事務所「AS」です。
尾道 向島の小歌島とを結ぶ航路「福本渡船」
大林宣彦監督の映画「ふたり」「さびしんぼう」のロケ地となったり、PlayStation 4用ゲームソフト「龍が如く6 命の詩」にも尾道仁涯町の“仁涯渡船場”として描かれています。
チケットを購入する必要はありません。船内で料金が徴収されます。カード類は利用できませんので小銭を用意して乗船して下さい。片道3~5分の航海を体験でき、通勤時間帯は3~5分間隔、通勤時間帯以外は10分間隔で就航しています。(混み具合で変わるようです。)
尾道 生口島 1936年建立始まる「耕三寺」
大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。
尾道 のんびりとした船旅を「駅前桟橋」
島に行く船が出ています。「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。
他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。
前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。
1957年4月、瀬戸田港から尾道港に行く第五北川丸の海難事故がありました。岩礁に乗り上げ沈没、旅客112人及び乗組員1人が死亡。定員は旅客77人、乗っていた旅客は訳230人、約3倍の乗客を乗せていました。
その頃、夏の海水浴場へ行く客船は、船の周囲が通路になっており、海水が足首まで来るくらい乗客を乗せていました。
事故後、カウンターで乗客を数えるようになり、やっと定員を守るようになりました。
尾道 すごい気を放っているらしい「艮神社」
艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
非常に神聖な感じを受ける神社ですね。
この神社の真上を千光寺山へのロープウェイが通っています。ロープウェイの駅も直ぐそばにあります。
“神様の真上をロープウエイで通るなんて”この感覚は尾道的なのでしょうか。尾道には神様も仏様も(隣近所に)たくさんいらっしゃるので、あまり気にしないのですね。
尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」
1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
尾道 歴史や文化の発信を願う「海の駅」
ヨットやボートの停泊設備です。
住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
ここの「海の駅」なのですが、食堂や売店の施設はが、ホテルや食堂、商店街がすぐそばなので、停泊施設以外は造らなかったのでしょう。
「海の駅」は、瀬戸内海の豊かな自然環境と歴史や文化という貴重な地域の観光資源を多くの皆さんに発信することにより、瀬戸内海の島々への観光客を誘致し、賑わいをもたせて地域経済の活性化と産業振興を図り、人々に安らぎと癒しを与えることを目的に、平成12年3月に広島県豊町に設置された「ゆたかの海の駅」が発祥です。
尾道 京からお連れした仁王さん「西国寺山門」
この仁王門は、門中にまつられている二体の仁王尊像とともに室町末期の作で、仁王尊像の躍動感と、威厳を感じます。正面に下がる大草履は、健脚を願っての奉納と伝えられています。
西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。
ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。
「民話 西国寺の仁王さん」では、京都に有名な仏師が彫った素晴らしい仁王さんを、船で淀川を下り、京から大阪へ、そして海路尾道まで運んだと。