尾道 むかし曼荼羅堂といわれていた「海龍寺」

 奈良の西大寺の定証上人が西国巡礼の途路、当時の曼荼羅堂といわれていたこの寺に住み、荒廃していた浄土寺を建立したと伝えられている。
 その頃備後太田庄の荘官でこの寺の別当職であった和泉法眼渕信がこの寺を定証に寄進したという古記録がある。
 正中二年(1347年)には炎上したが、直ちに再建され、寺名を現在の海龍寺と改めたのは寛文二年(1662年)である。

尾道 大理石の彫刻が並ぶ耕三寺「未来心の丘」

 広さ約5,000平方メートルお大理石の庭園で、彫刻家  杭谷一東(くえたにいっとう) 氏にその制作を依頼したもの。使用されている白い大理はイタリアのもので、船で運んだものです。
 瀬戸内周辺は花崗岩の産出地で、それを知っている人は違和感を覚えるのでしょうが、作家はそれを狙ったのでしょうか?

尾道 千光寺山山頂にある「八畳岩」

【伝説 雷と千光寺山の大松】

 千光寺山頂に杉原民部太夫元恒の築城した権現山城の跡に、千畳敷という平地があります。その東北に八畳岩という大きな岩があり、そこに物見やぐらが建っていました。物見やぐらからは木ノ庄町木梨にあった杉原氏本城鷲尾山城が望まれ、また尾道もひと目で見渡せたそうです。
 その物見やぐらの跡に、大きな古松がひときわ高くそびえていました。人々はその松を「物見の松」と呼んでいました。………

尾道 市立美術館から 千光寺への途中に「鼓岩」

【民話 鼓岩とお姫様】
 戦国の世、千光寺山には木梨山城主(木ノ庄町)杉原氏の出城「権現山城」がありました。城にすぐ近い南の山道にある大岩は、お姫さまや、若君のこの上ない遊び場でした。大岩は、優しい奥方さまやお姫さまが大好きで、お城から聞こえてくる琴や鼓の音に、うっとりと聞きほれていました。
 コロコロ  コロコロ  コロリンシャン、
 ポン  ポンポン  ポン  ポンポン
 大岩は毎日が宴のように楽しい気分でした。
 特に、大岩は、毎日が宴のように楽しい気分でした。特に、ポンポンポンと軽やかな鼓の音に、心が弾みます。

 浄土寺山には、大阪城の石垣につかわれた石の残りも残っています。豊臣秀吉が天正十一年(1583)全国制覇の根拠地として大阪に壮麗な城を築きましたが、その石垣に瀬戸内海沿岸の石が多く用いられました。尾道の浄土寺山からも大阪へ船で積み出されていました。 どのようにして運んだのか分かりませんが、この辺りは海の干潮と満潮の潮の高低差が3m以上もあるので、干潮のときに、海の中にある石にロープをかけ船に結びつけ、満潮になると、船と一緒に石も海底から離れるので、沖に出ることができます。そのようにして運んだのでしょうか?

尾道 後醍醐天皇の第三王子が開基「妙宣寺」

 後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。
 本尊は法華宝塔釈迦牟尼仏である。寺記によると、1615~1623年の頃、寺運が衰えたが、1708年本堂を再興し、次いで1782年現在の本堂を再建した。
 本堂の後ろには加藤清正を祀る清正公堂があり、熊本の本妙寺のと同作の清正等身大の肖像が安置されている。

尾道 咲き競うボタンの「天寧寺」

 開基は1367年に、尾道の人 万代道円の発願により、足利二代将軍義詮が父尊氏の遺志をついで工費を寄進し、普明国師を講じて開山したもので、宗旨は臨済宗、創建当時は東西三町にわたる宏荘な大寺院であった。本尊は宝冠の釈迦如来。
 1389年3月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ舟橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の饗応を受けた。1688~1703年に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になったが、1682年雷火のため全山消亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。

尾道 昔の人が愛した景色の「文学記念室」

 庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されています。
 1912年~1928年かけて増改築され現在の形となっています。
 福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開。 2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録されました。

尾道 旧市街がよく見える「海徳寺」

 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。

尾道 昔から船着場があった「海の駅」

 海の駅とは、国土交通省により登録された、一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)のことで、ヨットやボートの停泊設備です。
 「海から、誰でも、いつでも、気軽に、安心して立ち寄り、利用でき、憩える」ことをめざしています。
 ここは、住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
 ここの「海の駅」は、食堂や売店の施設はありません。ホテルや食堂、商店街が近いので、停泊施設以外は造らなかったのでしょうか。

尾道 心願成就の守り本尊の日限地蔵「大山寺」

 古くから「天神坊」とも呼ばれ、西隣の御袖天満宮との深い関係をしのばせている。開基の詳細は不明であるが、平安時代の初期、空海(弘法大師)入唐(803年)の頃には既に開かれていたと伝えている。
 901年菅原道真が太宰府へ流されるとき尾道に船を寄せたという話は、当地では有名な伝説である。これはこの寺にも深い関係がある。1069~1073年頃に、西国寺の慶ばんが多くの末寺を建てているが、この寺もその頃興されたものと思われる。
 寺に祀られている日限地蔵は心願成就の守り本尊として参詣祈願する人が多い。

尾道にこんなところが「日比崎 石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立している。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっている。
竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場であった。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立する。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めている。

尾道 一畑薬師如来も祀る浄土寺「薬師堂」

 方三間、宝形造、本瓦葺の開山堂です。「延命薬師如来」、「一畑薬師如来」を祀る薬師堂となっています。
 「一畑薬師如来」は、出雲の一畑山頂にある臨済宗「一畑寺」に祀られる薬師如来と関係があるのでしょうか? 浄土寺は真言宗泉涌寺派なのですが、泉涌寺は「密・禅・律・浄」の四宗兼学の道場としての歴史があるので、禅寺である一畑寺であっても関係があってもおかしくはないのでしょう。
 浄土寺歴住墓の灯籠には「出雲国 堅田定五郎忠成」と刻まれたものがあり、出雲との繋がりが深いため、「一畑薬師様」という通称で呼ばれている、特に目のお薬師様として信仰されている薬師様にいらっしてもらったのでしょうか。

尾道 “重軽さん”の金剛院「金毘羅大権現」

 金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っています。
 永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物があります。
 天狗の原点ついては、『日本書紀』に猿田毘古神について、鼻がきわめて長く、背も高く、目は鏡のように輝いていたとあり、この姿から天狗のイメージのもとになったともされています。神々の道案内をするという役割は、のちに方角の神、旅の神、道の神という信仰を生みだしました。そのため集落の境や道の分かれ目などに道祖神として祀る例も多くなりました。

尾道 金堂の保存修理で間違いが「西国寺」

 ここの金堂の保存修理工事では、建物の右側の側面の戸と左側の側面の戸をめぐって、戸を右前に並べるか、それとも左前にするか、それをめぐる話があります。
 金堂の左右側面の戸は、舞良子(まいらこ)と呼ばれる細い桟が一定の間隔で取り付けられています。こういう側面にある戸は、中世までの建物では、左右の戸が建物の正面から見て対称になっていることがよくあります。右側の側面の戸が右手前に並び、左側の側面の戸は左手前に並ぶことです。
 西国寺の金堂の左右の舞良戸も右側面は右手前に並び、左側面は左手前に並んでいました。
 ところが、保存修理を終わってみると、左右とも右手前に戸を並べてしまっていたのです。建具を担当した職人が、引き違いの戸は右手前と思い込んでいたため、こういう間違いが起きてしまったのです。

尾道 間借りしていた三軒長屋「志賀直哉旧居」

 志賀直哉が1912年から1913年にかけて間借りしていた三軒長屋。
 志賀直哉は、夕方になると八坂神社があるあたりの歓楽街に出かけ、帰ってくるのは明け方だったとか。
 長屋のとなりのおかみさんに家事などの面倒を見てもらっていたとか、そのおかみさんのご主人は、「あの遊び人の面倒などみるな!」と言っていたとか。
 そのおかみさんのためにか、尾道でガスを引いたのが2番目に早かったとか、そんな話が残っているようです。

尾道 蛇が神さまの使い「辨天神社」

 「辨天」は「べんざいてん(弁才天)」の略。
弁才天は七福神のなかで唯一の女性、美と才能、財宝を生み出す女神、弁天(べんてん)(弁財天、弁才天)です。もとは「水のカ」を象徴するインドの女神サラスバティーです。
 「弁才天・辯才天」(「弁(辯)才」は 梵 Sarasvatī (サラスヴァティという女神の訳語) インドの神の名。聖河の化身という。
 室町時代以降は、弁財天が七福神の一神に加えられて福徳財宝をつかさどる神様として崇められるようになり、とりわけ江戸時代になるとその人気が大いに盛り上がりました。

尾道 京からお連れした仁王さん「西国寺山門」

 寺の山門に怒った顔をして立っている仁王像は、ふつうペアをなしており、一方は口を大きく開き(それを「阿(あ)」形(ぎょう)といい)、もう一方は口をへの字に結んでいる(それを「吽(うん)」形(ぎょう)という)。
 仁王は金剛力士とも呼ばれ、仏法を守護し邪悪をしりぞけるために寺の入口に立っています。一体の仁王像もありますが、ペアの仁王像では一方は「阿」形、もう一方は「吽」形の姿で表現されます。山門に安置される仁王像は、向かって右に「阿」形、左に「吽」形というのが一般的です。

尾道 紫田勝家の弟?が再興した「法然寺」

 

 法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め、今から八百年余り昔)、その徳を慕われた後白川法皇のの皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。
 上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。

尾道 西国寺伽藍配置で最南端部に造営?「熊野神社」

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西国寺山南先端部にある水尾町にある神社です。
 日本最古の伽藍様式の大阪四天王寺の伽藍配置でも最南端部に造営されているのが熊野権現です。 むかしの西国寺を想像した時、この配置にも何らかの意味があるのでしょうか。
 古く江戸時代から続く水祭りが復活したようです。旧水尾町(現久保)に伝わる夏祭りで、水細工人形を陳列し、水尾町の豊かな水源を慶ぶ熊野権現神社の祭祀です。からくり人形をで水細工の場面がつくられ、人形の手の先から水が噴水のように吹き出します。