光明山 法然寺(浄土宗)
尾道市瀬戸田町瀬戸田  標高:14m
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元祖大師法然上人 御遺跡
安芸国 瀬戸田 浄土宗 法然寺

 法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め、今から八百年余り昔)、その徳を慕われた後白川法皇のの皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。

 上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。
 その後三原の仏通寺(臨済宗)の末寺となっていた時期もあるようですが、江戸時代の初め頃、慶長年間(1607年)に法然上人の御遺跡が荒廃していることを惜しんだ美作涅槃寺(ねはんじ)の一道和尚(紫田勝家公の弟と伝えられています)によって再興され、伽藍が整えられました。本堂、庫裡はいずれも慶長年間の建築です。

 本尊阿弥陀如来立像は、法然上人念持仏に伝わる漆箔・玉眼の木造です。下品中生の印を結んでいらっしゃいます。観音菩薩・勢至菩薩の両脇侍は木造で、ご本尊よりもあるいは古いものかと言われています。
 本尊阿弥陀如来立像は、法然上人念持仏に伝わる漆箔・玉眼の木造です。下品中生の印を結んでいらっしゃいます。観音菩薩・勢至菩薩の両脇侍は木造で、ご本尊よりもあるいは古いものかと言われています。

 大師堂(左手の建物・摂艦取堂いう扁額があります)に安置されております法然上人のご尊像は、熊谷直失(這生)作を伝えられるもので、もと武州熊谷(現在の埼玉県熊谷市)にあって老巧著しかったものを江戸時代に修理、祐天上人によって開眼された物です。
 慶長の頭、京都金戒光明寺が火事で焼失し、御寺光明坊にあった法然上ご自製の座像が本尊として献上されました。永年尊崇した尊像を失った人の嘆は大きかったのですが、このお像はまるでそれと入れ替わるかのようにこの島に渡海して来られたとして尊崇されて参りました。(案内板より)
 画家の平山郁夫氏の菩提寺と伺っていた浄土宗の寺院です。開基は江戸時代初期の1607(慶長12)年、一道上人によるとか。見事な石垣の間の石段を登り三門を入ると、地蔵堂、鐘堂、本堂があり、本道の東に庫裏がつながっています。本堂と庫裏は当初からのもので、400年以上前に建立されたわけです。
 法然は、厳しい修行ではなく、ひたすら念仏を唱えることで誰もが極楽往生(おうじょう)できるという易行道(いぎょうどう)念仏を唱えた人。
 『徒然草(つれづれぐさ)』にある人が法然上人に尋ねた。
 「念仏をしているとき、どうも眠くなって困ります。どうしたらよいのでしょうか?」すると、法然上人はこう答えられた。
「それなら、目が醒めたときに念仏をされるとよい」答えられましたと。
 また、法然は『一言芳談』の中で「身はいやしくて心はたかく有りなん」といっています。




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