厚木 日本三体地蔵尊の一体「子合地蔵尊」

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 保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利主計(かずえ)のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。

厚木 岡津古久にある「子安神社」

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 子安神社の創立は不詳でありますが、古社調査事項取調書(明治二十九年(1896)によれば文明十八年(1486)以前の創立であります。
 祭神は木花咲耶姫命が祀られておりますが、配祀祭神として豊宇気命と須佐之男命が祀られております。 古社調査書によれば、境内地には稲荷神社があり祭神は宇加之魂命が祀られておりました。
 祭神木花咲耶姫命は古来から子宝・安産の命として崇められ、人々の信仰も厚く、天正十九年(1591)には神領壱石の御朱印を賜りました。

厚木 曹洞宗僧侶の修行道場だった「清源院」

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 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。
 天巽和尚は、足柄の最乗寺15世を勤めた人、最乗寺での務めを終えられて沼田の龍華院に帰る途中、上州で起きた戦乱に巻き込まれることを避け、上荻野にある松石寺に足止めされていたとき、松石寺の住職の地位を譲られた天巽は、三田にあり荒廃していた天台宗清源院の再建に乗り出す。曹洞宗に改められた清源院は、天巽派の寺院として復活を遂げる。


厚木 鎌倉時代頃の創立「光福寺」

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 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して正福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。 律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。


愛川町 関東の山岳修験の道場だった「八菅神社」

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 八菅山の中腹にあり、別名八菅の七社権現とも呼ばれ、日本武尊、国常立尊、伊邪那岐命、金山毘古命、誉田別命、大己貴命、伊邪那美命の七神が祭神として祭られている。
 明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地で、大山阿夫利神社、日向薬師とともに関東での山岳修験の道場であり、修験道三派のうち聖護院流である。


厚木 その昔、草競馬の催された「長谷寺」

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飯山の隠し鐘(小鮎地区)
 飯山の観音様の釣り鐘は、昔、霊験あらたかなお坊さんが造ったもので、板東でいちばんありがたい鐘であるといわれています。この鐘の音を開く者は、みな心を洗われる気がします。病人もこれを聞いて一生懸命信心すれば、病はたちどころによくなりました。


厚木 元は真言宗の乗碩寺だった曹洞宗「松石寺」

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 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。
「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならへて」-(家康)


厚木 日本三体地蔵尊の一体「子合地蔵尊」

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 『子合地蔵牌山来記』によると、この地蔵尊は、八幡太郎義家の六男・森冠者義隆に縁のあるものといいます。保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。


清川村 落人伝説が伝えられる「蓮久寺」

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 上飯山の落人伝説(小鮎地区)
 厚木市上飯山に川田姓の家が十数軒あります。この川田一族に次のような落人伝説が伝えられています。時代は約八百二十年背のこと、奥州平泉泉に逃れた源義経が衣川で鎌倉の軍勢に討たれましたが、このときに義経をかくまったという理由で、藤原泰衡も頼朝の怒りをかって殺されました。泰衡を討ったのは彼の郎従・川田次郎でした。後、頼朝は川田次郎の行為を責め、鎌倉に呼びだし、次郎を斬るとともに川田一族を罰しようとしました。



厚木 豆腐地蔵の伝説「広沢寺」

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 曹洞宗に属し薬師如来を本尊とし、創立は後花園天皇の時代、相州足柄上郡の最乗寺了庵彗明禅師が開山しました。
 禅師は、当時七沢城主であった上杉定正と親交が深く、寺内には領地の一部を寄附してもらった上杉定正夫婦の遺骨が埋葬されています。



厚木 ヘビになった弁天様「浮島弁天社」

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浮島弁天社の由来
 明治初年のこと松下荻野山中藩士の企画により永い間水害をもたらした弁天様のある浮島を取り除く 爆破が無じ成功したがその直後不思議や弁天様の化身が現れた早速上依知村中が協力して当社を建立し弁財天を祀り 村の平安を祈念したのである。


厚木 霊水の湧き出る白山池がある「白山神社」

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 昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、 それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。
 むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、 この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、 この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。


厚木 創建当時は昼なお暗い地だった「宝泉寺」

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 宝泉寺は上依知南部の山際境の丘陵地下段にあります。寺の縁起や『新編相模国風土記稿』によると、室町時代後期の文明18年(1486)の起立と伝えられ、当時の裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としていたため別名「松壽林宝泉寺」と呼ばれていました。


厚木 荻野山中藩の陣屋が付近に「山中稲荷神社」

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荻野山中藩陣屋跡(市指定史跡)
 現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
 この大久保家は、相模国愛甲郡中荻野村を中心として、合計1万3千石を領した小さな大名でした。初代の大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩主大久保忠朝の次男で、1698年、相模国足柄上郡、駿河国駿東郡内の新開地6千石を分けられ、分家しました。1706年駿河国駿東郡、富士郡に5千石の加増を受けて1万1石の大名となり、更に1718年には、相模国大住郡、高座郡、愛甲郡内に5千石の加増を受け、総計1万6千石となります。


厚木 懸仏(かけぼとけ)の「知恩寺」

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 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。


厚木 樹齢約500年のクスノキ「妻田薬師院」

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 伝承によれば、本尊薬師如来座像は聖徳太子自身が彫刻されたもの、また脇侍仏の日光、月光両菩薩は運慶の作といわれています。しかし、この仏像も永禄12年(1569)、武田信玄が関東地方に出陣したときお堂が兵火にあった際焼失してしまったようです。現在の薬師堂は、18世紀中期に再建されたもので、本尊の薬師如来座像は天正7年(1579)武蔵国の住人・長野伊像之祐という人が寄進したものです。その後、お堂は数回にわたって修復されています。


厚木 平家の落ち武者が祀った「春日神社」

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 コノシロを食べない村(南毛利地区


 温水(ぬるみず)の鎮守社は春日神社です。その鍵取りは、同村の旧家・奥田家が代々世襲しています。春日神社は藤原家の守護神です。源平の戦に敗れた平家の落ち武者がこの地に土着して、春日社を祀ったと伝えられていますが、その理由は分かりません。


厚木 鋳物師が活動に因んでいる「鐘鋳神社」

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 御祭神:日本根古皇続弥照命(やまとねこすめらつぎいやてるみこと)
 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祭ったもの。
 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」
としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。

厚木 温水(ぬるみず)の阿弥陀様「専念寺」

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 1603年、八王子滝山大善寺出身の専蓮社念譽存貞上人のもと、神奈 川県座間市新田宿の地に創建された。寺号「専念寺」はその開山上人の法名から名 付けられたと言われている。
  本尊は阿弥陀如来、脇侍は観音菩薩・勢至菩薩。境内には聖観世音菩薩、六地蔵等がある。境内入口右手には瘡守稲荷社があり、江戸時代から大正時代にかけて広 く信仰が始まり現在に至る。

厚木 馬の安全とその供養の「七沢観音寺」

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 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。