厚木 日本三体地蔵尊の一体「子合地蔵尊」

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 『子合地蔵牌山来記』によると、この地蔵尊は、八幡太郎義家の六男・森冠者義隆に縁のあるものといいます。保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。


清川村 落人伝説が伝えられる「蓮久寺」

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 上飯山の落人伝説(小鮎地区)
 厚木市上飯山に川田姓の家が十数軒あります。この川田一族に次のような落人伝説が伝えられています。時代は約八百二十年背のこと、奥州平泉泉に逃れた源義経が衣川で鎌倉の軍勢に討たれましたが、このときに義経をかくまったという理由で、藤原泰衡も頼朝の怒りをかって殺されました。泰衡を討ったのは彼の郎従・川田次郎でした。後、頼朝は川田次郎の行為を責め、鎌倉に呼びだし、次郎を斬るとともに川田一族を罰しようとしました。



厚木 豆腐地蔵の伝説「広沢寺」

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 曹洞宗に属し薬師如来を本尊とし、創立は後花園天皇の時代、相州足柄上郡の最乗寺了庵彗明禅師が開山しました。
 禅師は、当時七沢城主であった上杉定正と親交が深く、寺内には領地の一部を寄附してもらった上杉定正夫婦の遺骨が埋葬されています。



厚木 ヘビになった弁天様「浮島弁天社」

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浮島弁天社の由来
 明治初年のこと松下荻野山中藩士の企画により永い間水害をもたらした弁天様のある浮島を取り除く 爆破が無じ成功したがその直後不思議や弁天様の化身が現れた早速上依知村中が協力して当社を建立し弁財天を祀り 村の平安を祈念したのである。


厚木 霊水の湧き出る白山池がある「白山神社」

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 昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、 それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。
 むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、 この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、 この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。


厚木 創建当時は昼なお暗い地だった「宝泉寺」

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 宝泉寺は上依知南部の山際境の丘陵地下段にあります。寺の縁起や『新編相模国風土記稿』によると、室町時代後期の文明18年(1486)の起立と伝えられ、当時の裏山は松が繁り昼なお暗く凄然としていたため別名「松壽林宝泉寺」と呼ばれていました。


厚木 荻野山中藩の陣屋が付近に「山中稲荷神社」

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荻野山中藩陣屋跡(市指定史跡)
 現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
 この大久保家は、相模国愛甲郡中荻野村を中心として、合計1万3千石を領した小さな大名でした。初代の大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩主大久保忠朝の次男で、1698年、相模国足柄上郡、駿河国駿東郡内の新開地6千石を分けられ、分家しました。1706年駿河国駿東郡、富士郡に5千石の加増を受けて1万1石の大名となり、更に1718年には、相模国大住郡、高座郡、愛甲郡内に5千石の加増を受け、総計1万6千石となります。


厚木 懸仏(かけぼとけ)の「知恩寺」

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 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。


厚木 樹齢約500年のクスノキ「妻田薬師院」

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 伝承によれば、本尊薬師如来座像は聖徳太子自身が彫刻されたもの、また脇侍仏の日光、月光両菩薩は運慶の作といわれています。しかし、この仏像も永禄12年(1569)、武田信玄が関東地方に出陣したときお堂が兵火にあった際焼失してしまったようです。現在の薬師堂は、18世紀中期に再建されたもので、本尊の薬師如来座像は天正7年(1579)武蔵国の住人・長野伊像之祐という人が寄進したものです。その後、お堂は数回にわたって修復されています。


厚木 平家の落ち武者が祀った「春日神社」

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 コノシロを食べない村(南毛利地区


 温水(ぬるみず)の鎮守社は春日神社です。その鍵取りは、同村の旧家・奥田家が代々世襲しています。春日神社は藤原家の守護神です。源平の戦に敗れた平家の落ち武者がこの地に土着して、春日社を祀ったと伝えられていますが、その理由は分かりません。


厚木 鋳物師が活動に因んでいる「鐘鋳神社」

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 御祭神:日本根古皇続弥照命(やまとねこすめらつぎいやてるみこと)
 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祭ったもの。
 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」
としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。

厚木 温水(ぬるみず)の阿弥陀様「専念寺」

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 1603年、八王子滝山大善寺出身の専蓮社念譽存貞上人のもと、神奈 川県座間市新田宿の地に創建された。寺号「専念寺」はその開山上人の法名から名 付けられたと言われている。
  本尊は阿弥陀如来、脇侍は観音菩薩・勢至菩薩。境内には聖観世音菩薩、六地蔵等がある。境内入口右手には瘡守稲荷社があり、江戸時代から大正時代にかけて広 く信仰が始まり現在に至る。

厚木 馬の安全とその供養の「七沢観音寺」

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 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。

厚木 かって袈裟掛けの松があった「弘徳寺」

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 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
 1960年まで「袈裟掛けの松」というのがありました。ふつうの松の葉は二本ですが、この松の葉は不思議なことに一本だったので、「一葉の松」ともよばれました。


厚木 相模国式内社(しきないしゃ)の「小野神社」

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 この神社は、延長五年(1194年)の「延喜式」巻九に「相模国式内社の内愛甲郡一座小野神社」と書かれています。
 現在の拝殿は、嘉永元年(1848年)に建てられ、わら葺屋根でありましたが、、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社、村の鎮守なり延喜式に載りし小野神社、当国十三社の一にて祭神下春命という」とあります。