厚木 地蔵様の伝説がある「広沢寺」

【豆腐地蔵】(本堂に安置されています)

  ある雪の積もった朝、七沢の豆腐屋が家の前を見ると、山に向かって誰かの足跡が付いた。
「こなに朝早く来た人もせいるもんだ」
と足跡をたどって行くと、、広沢寺奥の地蔵堂の所でとまっていた。主人は豆腐を置いて帰ってきた。
 その夜豆腐屋の夢の中に地蔵様が現れ
「私は及川村のある寺におった地蔵だが、及川村は豆腐屋がなくこの七沢にやってきた。これからも頼む、そのかわりこの村に来る疫病を追い払つてやる」
村の人々はこの地蔵様を豆腐地蔵と呼び、毎日毎日豆腐を上げお参りし、みんな長生きをしたそうな。

厚木 水害に合い現在の地に移された「厚木神社」

 現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょがき)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。
 承徳年中この地が、水害に合い現在の地に移されました。江戸時代に、毎年6月5日から12日まで大祭を行い、神輿(みこし)を相模川に入れ、水中渡御(とぎょ)の行事をおこなっていました。
 正徳年中に、祭礼中誤って御神体を水中に落してしまいましたが、翌年、厚木村下町の告原伊兵衛の夢により神体のある所が分かり、祭礼前の5月相模川から探した神体を同家の庭に祭り6月の大祭に移し、盛大に祭が行われたといいます。

厚木 温水(ぬるみず)の阿弥陀様「専念寺」

“ 温水(ぬるみず)の阿弥陀様(南毛利地区)

 昔、聖徳太子は、尼寺ヶ原に一乗尼寺というお寺を建てました。それから数百年たった鎌倉時代、源頼朝の妻・政子が、衰えていた一乗尼寺を再建しました。
 ところが建長四年(1252)の夏、寺は火災にあって全焼してしまいました。その時です。ひとかたまりの真っ赤な炎が空を飛んで、少し離れた池の中に落ちました。村人が不思議に思って池に近寄ってみると、池の中ほどに、一乗尼寺の本尊である阿弥陀如来が光り輝いて立っているではありませんか。池に手を入れてみると水が温んでいました。村人はこの様子を見て、これは仏様のありがたい思し召しであると思い、ここに寺を建て、専念寺と呼びました。この池は「光温池」として残っています。
 また、池の水が温んだことにちなみ、この地を温水というようになりました。

【出典】『あつぎ子ども風土記』『厚木の伝承と地名』”

厚木 古くはこのあたりに鋳物師がいた「子合地蔵尊」

 『子合地蔵牌山来記』によると、この地蔵尊は、八幡太郎義家の六男・森冠者義隆に縁のあるものといいます。保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。

厚木 鎌倉幕府御家人安達藤九郎盛長勧請「八幡神社」

“ 八幡神は、早い時代から反乱の鎮圧や仏教の保護などに霊験を示して各地への広まりをみせます。また「ツキを呼ぶ神様」としても登場しています。
 全国の八幡様を祀る神社の数は三万とも四万ともいわれています。
 八幡神社など、同じ名前の神社が多いのは、なぜでしょうか?
 それは、神さまが分身の術を使えるから。
 神さまは分祀されても、霊験が落ちることはありません。だから、人気のある神さまはどんどん数が増えるのです。”

厚木 明治の先進民家「古民家 岸邸」

“ 厚木市古民家岸邸として開館されています。
 古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
 古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。
 随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
 明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。
 今ではまったくありませんが。 ”

厚木 曹洞宗天巽派の修行道場「清源院」

“ 厚木市三田に曹洞宗の巨利、東福山清源院があります。三田地域のほぽ中央、西方丘陵、緑したたる森の中に所在し、禅宗としての巨刹です。この地は、昔北条氏の家臣、越智弾正忠の館跡とも伝えられ、清源院の本尊薬師如来像は、天正年間、越智出雲守の寄進によると伝えられます。
 中世末期、天台宗を曹洞宗の名僧、慶順和尚の同時再興によって改宗されたもので、近世においては曹洞宗のこの地方における中心として権威をもっていました。
 同寺の縁起によると平安時代、伊豆天城山麓の伊東家の香華院(こうげいん=菩提寺のこと)として建立されたと伝えられ、江戸時代に入って旗本、伊東氏の菩提寺となりました。”

厚木 親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡弘徳寺」

“ 弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、     後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。
 寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
 開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
 建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
 墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
 明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
 『新編相模風土記稿』によれば、かってこの地には地蔵堂があり、親鸞が錫をとどめた旧跡と云われる。”

厚木 鋳物が盛んだった「鐘鋳神社」

 厚木の荻野には、鉄や銅を使って鋳物を作る鋳物師(いものし)(「いもじ」ともいう)がたくさん住んでいました。もとは飯山に住んでいたものが、移り住んできたようです。難波氏、木村氏、毛利氏などが鋳物師として活圖しました。荻野で鋳物が盛んになったのは、荻野川から原料の砂鉄が手に入りやすかった上に、砂鉄を溶かすための木材も手に入りやすかったからでしょう。

厚木 幽静な寺院としての景観を伝える「龍鳳寺」

 祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸(東京都)駒込の吉祥寺の末寺です。
 大州安充禅師(本寺二世)により享禄三年(1530)開創じされました。開基となったのは地頭庄(荘)左近太夫で、境内に墓があります。

 庄左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。

厚木 古くは「赤城明神社」といいった「依知神社」

 上依知の相模川にかかる昭和橋のたもとにある依知神社の境内に、県の名木100選に選ばれている大きな2本のイチョウがあります。
 樹齢ほぼ500年という古木にもかかわらず、樹勢が盛んで、太い方は目通り3m、細い方が1.8m、高さ25.1mほどもあり、木の幹には乳状下垂が見られます。
 神社の由緒によると、鎌倉幕府の2代征夷大将軍に任ぜられた源頼家が、神社の建物を再建し、その記念として境内に植えたものであると伝えられています。
 現在は、国道129号線によって社殿とイチョウが左右に分断されていますが、元は一体の神社の境内にありました。

厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」

 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
(北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。)
 その後、近世初期、僧党誉の中興もあり壮大な寺容を誇り、六斎市(門前市)も栄えた。本堂の裏には、厚木を中心に多くの梵鐘や仏像を製作した鋳物師、木村一族のお墓がある。

厚木 徳川家康は当寺を訪れた際の後に改称「松石寺」

 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならべて」-(家康)
 当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。
 このお寺の裏山(華厳山)には四国八十八ヵ所を模した石仏群がある。この造立に当たり、江戸、武州各郡、駿州まで寄進を集め、また、近くに七沢石を産し、七沢、煤ヶ谷に多くの石工がいたためつくることができた。しかし、現在(1972年)では風雨、地震なのにより倒壊、損壊したものが多く、その順序もよく判らない。

厚木 かっては石神社と呼ばれた「荻野神社」

句碑 「大空は 蓋ふたも實ももなし ほととぎす」
 「蟹殿洞々(かにどのとうとう)」作
 荻野の俳人・蟹殿洞々は、明和4年(1767)に上荻野村に生まれた。俳人の五柏園丈水に師事したが、丈水の没後は嶋立麾系の俳人たちと親交を結んだ人です。
 荻野神社の社殿の西側約5mのところにあり、樹齢約600年推定され、高さ約30mもある大木です。古くから御神木として扱われ、多くの天災に遭遇しながらも生き続けています。

厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。

厚木 衆生を威嚇力で導く馬頭観音「七沢観音寺」

 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。
 本尊に動物霊から守ってくれる馬頭観音菩薩を安置したのは、上杉定正の愛馬日影を祭ったことによると伝えられています。

厚木 縁結びの観音さまとしても知られる「長谷寺」

【観音堂】 (重要文化財)
 建久年間(1109~1198)源頼朝公が秋田城介義景に命じ造営を加えしめられた。
 だが、嘉吉二年(一四四二)春一山炎上する処となり、ついで六間半四面の堂宇を再建されたのが堂宇であります。宝形堂で斗棋の組み物や、十二支を素朴な彫りに飾った墓又等によった格調高い建築様式です。内陣には寛文十二年(1672)に旧飯山村の大工西海氏によって造られた厨子が安置され観音堂と共に重要文化財に指定されており、その中に本尊十一面観世音菩薩立像が納められている。

厚木 元山王社の山王権現を祀る「知恩寺」

【智恩寺山王大権現懸仏】
 江戸時代には、智恩寺境内にあった山王社にまつられていた懸仏(かけぼとけ)が、現在では本堂の中に保存されています。
 山王権現とは、日吉神社・日枝神社の祭神であり、権現とは仏・菩薩が化身してわが国の神として現れることを意味しています。また懸仏は銅などの円板上に、仏像・神像を半肉彫りにあらわし、柱や壁などにかけて礼拝したもので、特に鎌倉時代から室町時代にかけての資料が多く見られます。

厚木 平安初期の美人小野小町を祀る「小町神社」

 小野小町(生没年不詳)は、「絶世の美女」という最高級の形容詞でいまに語り継がれています。
 平安時代の女流歌人で、六歌仙(ろっかせん)の一人という文化人の姿の一方で、伝説的な恋多き女としての姿がよく知られています。
 小野小町を慕った深草少将(ふかくさのしょうしょうの「百夜(ももよ)通い」の伝説に象徴されるように、その美貌ゆえに多くの男たちの心をとりこにしたといわれています。

尾道 花崗岩で出来た大石門をくぐり延命「持光寺」

持光寺の石の門(延命門)
 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。これだけの石を据え微塵の狂いを生じていない。
 付近の古老のはなしでは、門の上に柱をたてるためのものであろう穴が数個あったと聞かされ、梯子を借りて屋根まで登つたが、薄くセメントがはられ穴の確認はできなかつたが、おそろく天寧寺などで見られるように鐘楼門にする計画であったのが石の基礎だけ出来あがったところで挫折したのであろう。