子供時代に「しつけ」が曖昧になると、大人になってから、変わることは出来ない。
法律違反でなければ、何を言っても良い、という感覚が根づいてしまいます。ときには、法律さえ犯しても良いとなってしまいます。
東京都の選挙活動でも見受けられましたが、法律さえ守れば良い、ということになっています。
むかしの商人感覚では「法律は最低のマナー」とされており、もっと上のサービスを目指すことが、最低限のマナーでした。
時代の変化が早くなったため、その場だけの成功を目指すようになり、その結果、「法律さえ守っていれば良い」ということになっているのでしょうか、ときには、法律さえ無視する人も多くなっているようです?
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厚木 「星下り寺」とも称される「妙伝寺」

妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。
日蓮上人配流に際して、無量光寺開祖一遍上人は、当所觀音堂に来て日蓮上人と謁見、以来無量光寺と当寺とで音信を取り合っていたと伝えられています。
厚木 地蔵様の伝説がある「広沢寺」
厚木 水害に合い現在の地に移された「厚木神社」
厚木 温水(ぬるみず)の阿弥陀様「専念寺」
“ 温水(ぬるみず)の阿弥陀様(南毛利地区)
昔、聖徳太子は、尼寺ヶ原に一乗尼寺というお寺を建てました。それから数百年たった鎌倉時代、源頼朝の妻・政子が、衰えていた一乗尼寺を再建しました。
ところが建長四年(1252)の夏、寺は火災にあって全焼してしまいました。その時です。ひとかたまりの真っ赤な炎が空を飛んで、少し離れた池の中に落ちました。村人が不思議に思って池に近寄ってみると、池の中ほどに、一乗尼寺の本尊である阿弥陀如来が光り輝いて立っているではありませんか。池に手を入れてみると水が温んでいました。村人はこの様子を見て、これは仏様のありがたい思し召しであると思い、ここに寺を建て、専念寺と呼びました。この池は「光温池」として残っています。
また、池の水が温んだことにちなみ、この地を温水というようになりました。
【出典】『あつぎ子ども風土記』『厚木の伝承と地名』”
厚木 古くはこのあたりに鋳物師がいた「子合地蔵尊」
厚木 鎌倉幕府御家人安達藤九郎盛長勧請「八幡神社」
厚木 明治の先進民家「古民家 岸邸」
“ 厚木市古民家岸邸として開館されています。
古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。
随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。
今ではまったくありませんが。 ”
厚木 曹洞宗天巽派の修行道場「清源院」
厚木 親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡弘徳寺」
“ 弘徳寺の寺伝ではかつてこの地には聖徳太子の発願によって秦河勝が地蔵菩薩を安置するために建てた地蔵堂があり、そこに親鸞聖人が御巡錫になり、その宿縁を大変喜ばれて、ここに草庵を結ばれて浄土真宗の教えをひろめられ、 後に信楽坊に草庵を託されたと伝えています。
寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
『新編相模風土記稿』によれば、かってこの地には地蔵堂があり、親鸞が錫をとどめた旧跡と云われる。”
厚木 鋳物が盛んだった「鐘鋳神社」
厚木 幽静な寺院としての景観を伝える「龍鳳寺」
厚木 古くは「赤城明神社」といいった「依知神社」
厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」
厚木 徳川家康は当寺を訪れた際の後に改称「松石寺」
弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならべて」-(家康)
当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。
このお寺の裏山(華厳山)には四国八十八ヵ所を模した石仏群がある。この造立に当たり、江戸、武州各郡、駿州まで寄進を集め、また、近くに七沢石を産し、七沢、煤ヶ谷に多くの石工がいたためつくることができた。しかし、現在(1972年)では風雨、地震なのにより倒壊、損壊したものが多く、その順序もよく判らない。