商人の町として歴史のあるところで、ビジネスの基本を学べると良いのですが、いまでは歴史のある商人の町ですら、商人としての風土を少なからず失ってしまったようです。
しかし、商人の歴史はまだ学べます。もう一度、百年・二百年と、商売を続けていくことが出来るノウハウを学んでほしいですね、
ビッグモーターは極端ですが、多くのビジネスは、むかし豪商と言われた人達と比べると、社会への貢献という発想が、消えてしまっていますね!
2023年のアーカイブ
厚木 廃仏毀釈の影響が大きかった「龍鳳寺」
豊臣秀吉が太閤検地を始めると、天正十九年(1591)には七石の御朱印を賜り、寺領として明治に至るまで隆昌を極めました。しかし明治初年に廃仏毀釈令が発せられると一戸残らず離壇、堂はすべてなくなり、庫裡は小学校として売られました。
(明治維新の廃仏毀釈令は、寺院から撞鐘、半鐘、鰐口などを提出させ大砲の材料とした一面もあったのでしょう。)
明治二十四年になると、第二十五代護三和尚は寺門の復興に努め、丈六(5.28m)の誕生仏を自ら彫刻し、大正年間に完成させました。そのため第二十六代大徹義雄和尚(昭和初期)にかけては、桜花燗漫四月の花まつりに老若男女が訪れ賑わいました。
「破壊された石仏」たち
地蔵菩薩などで、首が欠けたり顔や腕が削られたりした傷ましい石仏を見ます。それらは自然の劣化によって起きたものではなく、明らかに人為的な破壊行為によるものです。 このような石仏に対する破壊行為が起こった背景には、明治維新後に新政府が公市した「神仏判然令」とそれによって影響を受けた「廃仏毀釈」と呼ばれた仏教の排斥運動がありました。 この六地蔵のうち四体は顔の部分が壊されています。厚木地区ではこのほかにも壊された石仏が各地にあります。
まずはほめてから、問題点を指摘!
ビッグモーターの事件で、改めて「まずはほめてから、問題点を指摘」という原則の大事さを考えました。
「ほめてから、問題点を指摘する」には、冷静さと、解決の方向性が分かっていないとできません。
まずは自己研鑽が必要なのですが、生成AIが助けてくれるようになると良いのですが、はやくできるようになってほしいですね!
鎌倉 ここにも稲荷を祀られている「本成寺」
「稲荷の神霊と頼朝」
頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑になっていたとき、ある夜、翁が枕元に現れ、「兵を起こし、平氏を滅ぼし、天下を統一せよ」と激励したと言う。
さっそく、頼朝は鎌倉に入るやいなや、稲荷の神霊に感謝して、佐助山の隠れ里を選び、社殿を造らせ、佐助稲荷神社とうしたと伝えられている。
このためか、鎌倉には稲荷を祀るところが多い。
思春期は、見た目に最も関心を払う時期!
若者は多様性を持っています。と同時に、その多様性を絞り込もうとしています。ただ、その絞り込みは「見た目」が中心になっているようです。
芸術家で、若くして命をなくした人達は、行き過ぎた見た目の絞り込みが原因だ、と思える人もいます。
生成AIのしくみが、若者の深みのある思考に、つながっていくと良いのですが!
尾道 のどかな海岸広場が 「尾道駅前海岸」
駅前にこんなに広い空間を公園にするという発想が、どこから生まれて来るのでしょうか。古くから尾道に住んでいる人にとっては違和感がないのでしょう。
しかし、他の都市はバスやタクシー乗り場以外は商業スペースになっています。
古くからの商業都市の尾道、駅前にしては広大とも言っていい公園スペースを許す文化があるのですね。
「あるがままの自分」を生きている!
人間、あるがままに生きている人は、どのくらいおられるのでしょうか?
多くの人は気づかないまま、なにかしらガンバって、ガマンして、生きているような気もします。
縄文時代の人々は、もっとゆるやかに生きていたのでは、と思ったりします。それは、縄文土器を見たときです。細やかな模様を、自由に、楽しみながら、時間など考えずに、造っていたように思われます。
縄文時代の人は、何千年かあとに、学歴社会になるとは、思ってもいなかったのでしょうね!
海老名 江戸時代初期に創建されたか「龍昌院」
「新編相模国風土記稿」では、山号を上郷山、宗珪寺(海老名市河原口)の末寺とされています。本尊は、木造釈迦如来坐像で、寛保2年(1742)の修理墨書があることや作風から江戸時代前期に造立されたと考えられます。
寛政2年(1790)に江戸糀町7丁目の仏師・西山平治郎が造立した木造地蔵菩薩半珈像なども安置されています。
能山雲元(?~1620)が開山したと伝えられることから江戸時代初期に創建されたと考えられます。
子どもが一番したいことは「ダメ」と言われたこと!
子育てでは「個性を大事に」と言われます。
「子育てしているあなたの個性はどうですか」と問われると、ちょっと直ぐには返事が出来ないですね。
個性など気にしないで、好きなことを自由にやっていると(人に対し危険なことは注意が必要ですが)子供は育っていくものでしょう。
ただ、何でも出来るようにすることは、個性は育たないようですね!
鎌倉 鎌倉幕府ができる前からあった「御霊神社」
御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。
桓武(かんむ)天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。
忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。
時間をどうしたら生み出せるか!
「忙しい」という中にも、二種類あります。決断が早く、行動も早い人で忙しい人は、本当に忙しい人。決断に手間取り、結果としてやることが溜まる人は、忙しそうに見える人。
現状把握が洩れなく出来ている人は、決断が早く、すぐ行動に移れます。現状把握の一部に洩れがあると、決断が遅くなってしまい、その結果忙しくなります。
現状把握といっても、できるたけ“現場”の状況を洩れなく把握すると、誰でもほぼ同じ判断になります。
関係者の判断内容が異なる場合の多くは、現場の状況把握が不十分な場合が多いのでしょうね!
尾道 奇祭ベッチャー祭の「吉備津彦神社」
寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。
神輿と獅子頭を先頭にベタ・ソバ・ショーキーの三鬼神が市内を練り歩き、子どもたちを追い回す神事。「ベタ」「ソバ」が持っている「祝棒」で突かれると子宝に恵まれ、「ショーキー」が持っている「ささら」で叩かれると頭が良くなるとされ、子供達は「ベッチャー、ベッチャー」とはやし立てる。江戸時代に流行した疫病退散祈願から始まった西日本有数の奇祭。
上司も部下は、単なる役割分担!
日本にも、能力主義が叫ばれ、取り入れた企業もある時代。ただ心配なのは、若くしてリーダーになった人が、長期間その地位にいると、組織の流動性が阻害されるのではないか? という心配です。
若ければ若いほど、その権力・地位・収入にこだわる危険性があるからです。
江戸時代のように、権力や財力、名誉が分散されるしくみがあれば、ある程度はその危険から遠ざかることも考えられるのですが、そうでなければ、危険なリーダーが、長く支配することも起きてしまいますね!
厚木 相模観音霊場27番札所だった「聖眼寺」
江戸時代には相模三十三観音霊場の二十七番札所として観音信仰で栄えていた寺院です。寺は三田寺と呼ばれ、参道入口の門塔に「當国二十七番三田寺」と彫り込まれています。
相模三十三観音霊場は、宮の藤巻寺から始まり大磯、平塚を巡り秦野の太岳院に至るまでの巡拝ルート。
人間の力の及ばない大きな力の存在を知る!
地球上の急激な人口増が続いています。それに加えて温暖化が進んでいます。今までは、ある程度の人口の増加は、食べ物を工夫すればなんとかなる、と思っていました。
しかし、少し心配も出始めてきました。温暖化により、雨の降り方が大きく変わり始めています。植物も、今までのように育ってはくれません。魚も同じ海では捕れなくなってきています。
これに権力争いや、食料の争奪による戦争も増えてくる心配もあります。
これからは偉人の歴史ではなく、庶民がどのようにして生き残ってきたかの歴史を学ぶ必要があるようです!
福山 鞆 「心を観る行」ができる「顕政寺」
ここの観心行では、目を閉じて合掌をしがら、太鼓を叩きに合わせて、南無妙法蓮華経とお唱えながら、自分の心の中を見つめてます。
様々な日々の出来事を思い出して、「あれは悪いことをしたなぁ」、「こんな良いことがあったなぁ」と思い出しながら、お題目をお唱えます。そうすることで自分自身がきれいになっていくことを感じてください。
良い出来事は改めて感謝し、悪い出来事は反省する。そして、それらに固執することなく、手放していく。これは心に溜まった垢を洗い流すということ。心がきれいになれば、また新しいものが入ってくるようになります。
バテバテなのに「がんばれ、がんばれ」と!
健康寿命を出来るだけ長く保ちたいもの。坂の上のほうに住んでいる方のほうが、感覚的には健康のようです。
そう言えば、坂の上にある小学校の先生が、「入学して1年ほど経つと、風邪をひく児童が少なくなる」と話していました。
歳をとっても同じなのでしょうね。やはり、ある程度からだに負担をかけていないと、健康寿命は保てないのでしょうね!
鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」
ここの堂守の僧が勝長寿院(鎌倉市雪ノ下にあたる相模国鎌倉大御堂ヶ谷に、鎌倉時代初期に源頼朝が建立した寺院)に参詣した帰り、路上で急死、84歳の命を落としたと「吾妻鏡」の1188年10月10日の記事にあるから、お堂がそのころにはあったようです。
今では個人宅にある社のようで、お茶屋(不動茶屋)なのかと思えます。お茶屋の奥にお堂があり、不動明王が祀られています。
高度成長期は環境や安全よりも……!
高度成長期の後には、大きな危険がひそんでいます。そのことに気づけなかった日本でした。しかし、日本は歴史に学ぶことができます。いつも何とか学ぼうとします。
中国は、日本病になると言われています。日本より環境の状況はかなりきびしいようです。
日本は経済の低成長の時代が長く続きました。しかし、政治は、一時野党に入れ替わったことはありますが、安定していました。
中国では、「天」は共産党を選び続けるのでしょうか。混乱は少ない方が良いのですが!
尾道 明治の火災の時、三重塔が残った「向上寺」
国宝の三重の塔
1階の軒は2軒本繁垂木の扇垂木。つまり二重になっている繁垂木で、垂木が平行ではなく隅の部分で45度になるよう、扇が開いたようになっている。
組み物は唐様の柱上の組み物が3段に積み上げている構造。
1階は全体的に唐様が強く出ている。
和洋に唐様が取り入れられて形式で、各層に花頭窓があるほか、建物の装飾が見事。
三重塔の周囲が日本画家・平山郁夫氏の幼少時代の遊び場だったとのこと。また、よくスケッチしたお寺でもあります。