鎌倉 一向宗開祖が創建した「向福寺」

 1282年創建。開山は一向俊聖上人。本尊:阿弥陀三尊(木造南北朝作)…… 南北朝時代の作。

 一向俊聖上人は、時宗の開祖一遍上人同様、鎌倉時代、各地を遊行回国し、踊り念仏を広めた。しかし、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。
 一向俊聖上人の一向宗は、江戸時代に幕府により強制的に時宗に統合された。その後、一向宗の復活をはかったが実現されていない。  大正12年の関東大震災によって、文政年間に建てられた本堂と表門が倒潰してしまった。現在の本堂は昭和5年に再建されたもの。

最も話しにくい相手はどんな人ですか?

 高層のマンションが林立する所に住む子供達、いろいろな人と話したり、人々の行動を見たり、何かしらの接触があるのでしょうか?
 自然などと接触する機会があるのでしょうか?
 他の人、自然とのふれあい、この体験がないと「加減」というものが身につきません。
 都内の高層マンションが林立している地域には、お店も少なく、人が集まる場所も少ないようです。公園があっても、親が危険だと教え、子供が自由に遊ぶことが出来ないようです。
 そのまま大人になってしまうと………!

尾道 のんびりとした船旅を「駅前桟橋」

 島に行く船が出ています。「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。
 他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。
 この辺りの海は、干満の差が3m前後あり、海岸の景色も変化します。海底までの深さも変わりますし、隠れていた岩が水面に顔を出します。また、潮の流れも早いのです。
 前に向島があるので、風の影響は少なくて済みます。

 1957年4月、瀬戸田港から尾道港に行く第五北川丸の海難事故がありました。岩礁に乗り上げ沈没、旅客112人及び乗組員1人が死亡。定員は旅客77人、乗っていた旅客は訳230人、約3倍の乗客を乗せていました。
 その頃、夏の海水浴場へ行く客船は、船の周囲が通路になっており、海水が足首まで来るくらい乗客を乗せていました。
 事故後、カウンターで乗客を数えるようになり、やっと定員を守るようになりました。

「ワームホール」を使ってタイムトラベル!

 タイムトラベルは映画やアニメの世界の出来事と思っています。しかし、面白いもので、「そうじゃないですよ……」という考え方もあります。
 こうした発想は、生成AIでは可能なのでしょうか? もし、そうなったらどんな考え方が生まれてくるのでしょうか。その生まれた考え方を肯定・否定するか、そのような作業は、AIがやるのでしょうか?、人間がやるのでしょうか?
 生成AIは政治にも介入してしまうのでしょうか。その場合、プーチンさんのような人を選ぶこともあるのでしょうか?
 未来、どんな社会に変化していくのか、予測しがたくなってきましたね!

鎌倉 一遍上人が関所の武士に拒絶され野宿「光照寺」

 1282年 鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行(おそらく尼を引き連れ、乞食同然の姿)は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をした、その野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺で、一遍上人法難霊場となっている。

 時宗の成功を賭け鎌倉入りを目指した一遍にとっては、その直前で、鎌倉入りを阻止され、この地で不安な一夜を過ごしたのでしょう。翌日江ノ島に行き、そこで踊念仏を行い大成功することができひと安心した。

国境を越えてくる宗教が!

 世界の宗教の60.3%を占め、三大宗教と言われるキリスト教、イスラム教、仏教。
 しかし、日本では確かにお寺さんは数多くありますが、本当に仏教徒なのでしょうか?
 神社もたくさんあります。しかも、生きているときのお願い事は、どちらかというと神様にお願いします。特に将来の希望は、神様にお願いしています。
 むかしはお寺さんも、狩猟・漁師・商人など少し身分が低く見られていた人が、豊かになってくると、その人達を救う手立てを考え、仏教を広めていました。北陸の一向宗などは100年も自主的な政治を続けていました。
 現代の仏教ビジネスを再考しなければならないのでしょうね!
 

厚木 水の神と農耕の神「大釜大弁財天尊」

 弁財天は、七福神のなかで唯一の女性は、美と才能、財宝を生み出す女神です。もとは「水のカ」を象徴するインドの女神サラスバティーです。
 弁財天は古代のインドにおける川の神(女神)で、水の神と農耕の神として信仰されていました。
 日本には中国と朝鮮を経由して、初めは仏教の守護神として伝わったといわれています。その当初の姿は守護神らしく宝珠・剣・弓矢などを持つ像でしたが、鎌倉時代になってから琵琶を弾く姿に変わり一般化し、芸能の神とも呼ばれるようになりまた。
 さらに江戸時代に入ると学問・音楽・除災・至福を与える神として、広く一般庶民に信仰されるようになりました。

人頭税廃止で拡大したイスラム教!

 宗教を広めるには、ビジネス感覚が必要なようです。
 広めたい階層(お客)に、どのようにして広めるか(売りこむか)。
 イスラム教は、人頭税という税金の免除。大航海時代のキリスト教は、武器・弾薬を含む貿易。浄土真宗の一向一揆は、戦国大名からの税の徴収を拒める不入の権利。
 広めたい階層に有利な権利を確保しながら、思想を定着させ、末永く継続すること(老舗)を目指す、という手法のようです!

尾道 すごい気を放っているらしい「艮神社」

 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
 非常に神聖な感じを受ける神社ですね。

 この神社の真上を千光寺山へのロープウェイが通っています。ロープウェイの駅も直ぐそばにあります。
 “神様の真上をロープウエイで通るなんて”この感覚は尾道的なのでしょうか。尾道には神様も仏様も(隣近所に)たくさんいらっしゃるので、あまり気にしないのですね。

権力を握ったままなかなか引退しない

 「能力主義」が叫ばれています。若くしてトップになった人は、どのタイミングで引退すればよいのでしょうか?
 人間の性(さが)として、「権力・財力・名誉」にはしがみついていたいもの。その地位から下りることが出来るでしょうか?
 その弊害から逃れようとして、年功序列が生まれたのでしょうか?
 組織において、これで万全といった制度はなかなか難しいですね。参考になるとしたら、江戸幕府の体制でしょうか?

鎌倉 文殊菩薩伝説がある「勧行寺」

 1303年(嘉元元年)、但馬阿闍梨日実が創建。
 1683年(天和3年)、火災で伽藍を焼失する。その後復興する。
 1791年(寛政3年)、暴風雨で被害を受ける。その後復興する。
 1923年(大正12年)、関東大震災で被害を受ける。その後復興する。

 境内の右手には本堂があります。開山は日実(にちじつ)で、1303年(嘉元元年)に創建されたと伝えられます。本尊は三宝本尊で、室町時代のものとみられる立派な日上人像とともにまっられています。また、右手に宝剣、左手に経巻を持つ丈嫌菩薩もまつられています。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)

「絹」は外からの毒素は中に入れません!

 絹を使った衣料品は、着物がほとんどになりました。すっかり化学繊維が定着しています。
 律令制の時代は、課税は「租・庸・調」とされ、「調」には生糸も入っていたようです。当然いまでいえば税金ですから、広く生産されていたのでしょうね。
 天然の繊維は、植物として生きていたときの、他生物からの防御機能があるわけですから、繊維となってからも、その機能が残っているものもあるようです!

相模原南 北条氏照の娘貞心尼が中興開基「天應院」

 戦国時代に八王子を中心とした大石定久公(八王子滝山城主)の統治により、心源院、天應院等が季雲永嶽大和尚を開山にして、明応4年に建立されたと考えられます。

 虚空蔵菩薩を本尊とし、9石7斗の御朱印を賜り、5世太蔭師の時代、北条氏照の娘貞心尼を中興開基として、明応4年(1495)に当地に中興開山したと伝えられます。

 徳川家光の養育役であった青山忠俊により再中興されています。明治時代には、当地に麻溝小学校の前身にあたる下溝学校を開校、また下溝の松原集落にあった薬師堂を当地に移転、この薬師は関東九十一薬師霊場19番です。

鎌倉 江戸時代は所領150貫ほどだった「円覚寺」

 1333年(元弘3年)に北条氏が滅亡した後も、北条氏に招かれ円覚寺の住職にもなっていた夢想礎石が、後醍醐天皇や足利氏の信任も厚かったため、寺の勢いは保たれましたが、室町時代には、1374年(応安7年)をはじめとして火災がしばしばあり、しだいに衰えていきました。
 1590年(天正18年)、関東に入った徳川家康は、翌年円覚寺の所領を認めましたが、150貫ほどでした。江戸時代はあまり変わりはありませんでした。
 幕末・維新の混乱で寺領も失い僧侶が坐禅などの修行をする道場である僧堂も閉じられましたが、1875年(明治8年)、今北洪川(いまきたこうせん)により再興され、関東屈指の禅道場として再生しました。

思い通りに部下が動くことなど期待しないこと!

 部下を「自分の思い通り動かす」を基本としている上司は多いようです。
 その場合、「組織の思い」「世間の思い」をどれほど意識しているかによって、部下の動きは違ってきます。
 「自分の思い」の正当性を常に吟味し、指示を出したいもの。
 ただし、人を自分の思い通り動かす、という発想そのものが、難しいことを認識し、相手に社会における正当性を、きちんを伝え、相手が自発的に動くようにさせることが、基本中の基本なのでしょう!

尾道 四十八夜念仏修行ののち入水往生「信行寺」

 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。

 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。

出店する際には必ず事前対策を!

 店を持って商売を始めるのは、素人にとってはハードルが高いもの。そのためか、ネット販売のみ、というスタイルが出来、少しハードルが下がったようです。
 ただ、心配もあります。まだネットのみでの販売で、老舗と言われるところはありません。ネット上で、いかに数十年、百年以上と店を続けて行くノウハウが見つかっていないため、詐欺まがいのネット店も出てしまいますね!

福山 鞆 神功皇后の妹君の淀媛命を祀る「淀媛神社」

 神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊しました。帰路携帯していた「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として奉任させました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源です。
 数年後に淀姫命は鞆の浦を去りましたが、後世その特を偲び氏神として奉斎し、鞆の浦湾の入口の丘の上に鎮座する護り神として現在に至ります。
 現在の社殿は大正3年に建立。平成13年に修復。

椎間板への負担が大きいのは座り姿勢!

 座り仕事は、人間の体の設計上は必ずしも楽ではないようです。数年前、事務仕事でも立ったままで行う、とゆう報道がありました。また、立ち仕事用の机も販売され始めました。
 健康年齢を長く維持するには、やはり立ったまま仕事をしたほうがよいのでしょうか。
 歩く場合も、太ももで足を前に出すより、腸腰筋を使い足を前に出したほうが、疲れても歩くことができますね。
 体の使い方は、結構難しいですね!

鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

 日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)

 1104年の創建。荏柄天神社は鶴岡八幡宮が再造営されるさい、旧社殿の用材をもらい受けて建造されることが通例。現在の本殿も関東大震災で被災した鶴岡八幡宮の若宮を移築されたもの。
 菅原道真は、日本の学者の元祖の中の一人で、一流の政治家として活躍し右大臣にまでなった。33才の時には文部省次官クラスの地位と文章博士の位を得た。
 しかし、57才の時、突如として右大臣の職を引き下ろされ、九州の太宰府へ追いやられた。その2年後に死んだのですが、死後のもてはやされぶりは異常です。すぐに元の官位に復し、90年後には正一位・左大臣、その半年もたたない内に太政大臣が送られました。