外面がよく見えてても中身ブスなら!

 地位が上がれば、収入・名誉も上昇、尊敬されるという世の中。この方式を打ち破っていたのが徳川家康。
 収入の多い10万石以上は外様大名、幕府の重要な地位には就くことが出来なかった。老中になれる大名は、数万石の譜代大名。
 また、名誉は「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるように、江戸時代の武士は、下の者でも名誉をめちゃくちゃ大事に考えており、その反対に恥をひどく嫌いました。
 上位のものに、権力・財力・名誉が集中することの危うさを、完全に避けるシステムを作り上げることで、安定して時代を造り上げたのでしょう。
 独裁国家を否定することで、平和な社会をつくりあげることに成功したのでしょうね!

鎌倉 龍口寺輪番八ヶ寺の一つ「東漸寺」

 東漸寺(とうぜんじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は大本山法華経寺。小西法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
 1325年(正中2年)、後に龍口寺となる地の護持のため法華経寺から派遣された日東を開山に建立された。その後44世住職日英が、本堂、庫裡を再建復興し、現在の伽藍が整備された。

夢がいいのは実現を先送りできること!

 「夢を保つことはいいこと」なのですが、年齢に応じた夢の持ち方もあるようです。
 また、地位・財力・名誉だけの夢は、周囲に大きな危険も起こしてしまうこともあります(ロシアのプーチンさんがその典型なのでしょうね)。
 小さな夢を積み重ねている内に、いつのまにか大きな結果を残すこともあるのでしょう。その本人は、大きな夢を実現したとは思ってないかも知れないですね!

尾道 よく「見よう・言おう・聞こう」三猿の教え「大山寺」

 「見ざる、言わざる、聞かざる」の真逆、「見てご猿、言うてご猿、聞いてご猿」で、世の中の正しいことを「よく見よう」「よく言おう」「よく聞こう」という願い。

 江戸時代から尾道は、実質的には豪商が町を治めていた。この風土がこの猿達を生んだのでしょうか。

クヨクヨしそうになったらさっさと寝る!

 なかなか決められないとき、まず。寝てしまいましょう。寝てる間に、頭の中で情報を整理しているようで、朝アイデアが浮かんでいることがあります。
 寝ている間に考えるクセがつくと、気持ちがずいぶん楽になります。そのためには、昼間にその問題に関係しそうな状況の把握を、できるだか洩れなく把握していると、朝にアイデアが浮かんできているようです。
 考え込んだら、まず寝てしまいましょう!

鎌倉 開基は足利尊氏か「長寿禅寺」

 建長寺から小袋坂を下って、明月院踏切へさしかかる途中の左側の小高い石段の上が長寿寺である。亀ケ谷坂はこのお寺の脇へ下りてくる。
 石段を昇ると山門前にはこの坂の象徴亀公をふまえた石塔がある。なるほど、亀は万年というから、それで長寿寺か。昔の人は智慧がある。
 開山は古先印元。開基は足利尊氏といわれる。
 開山は古先印元(こせんいんげん)禅師。創建は1323年から1336年頃。開基は足利尊氏。
 足利尊氏が自邸の跡地に創建、尊氏没後に子の足利基氏が堂宇をととのえたという。

通人は冬にウナギを賞味する!

 通人は「冬にウナギ」を食べるそうです。脂の具合がちょうど良いのだそうです。
 ウナギは健康に良いのだそうですが、値段が値段だけに、なかなか食べることが出来ないですね。
 ウナギの完全養殖は、商業ベースではまだ出来ていないのですが、研究段階では2010年水産総合研究センターで成功しています。なんとか商業化に成功してほしいですね。

福山 鞆 明治八年に官命によって社名が「沼名前神社」

 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。
 さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも(弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。

そんなにあれこれ本を読むのは?

 「雑読」は、多面的な考え方を手に入れる方法の一つです。考え方が狭くなると、いろいろな考え方の人と接することが出来ません。国家も一つの考え方になってしまうと、危険な国家と見られてしまいがちです。
 「雑読」は、曖昧さ(はっきりしないこと)を許容します。多様な知識を手に入れた曖昧さは、接する人達に心温めることになるのでしょう。いろいろな人達を、そのまま受け入れることが出来るからでしょうね!

厚木 1891年に建てられた「岸邸」初春にはおひな様が!

 岸家住宅は、広大な屋敷の入リロに薬医門を構え、主屋の他に土蔵3棟があります。建築年代は、「本宅上棟式祝儀受納帳」や棟札などから、主屋が明治24年(1891)、薬医門が明治19年(1886)と考えられます。
 主屋は二階屋で、二階は寄棟造瓦葺、一階は銅板葺(一部鉄板葺)です。基本的な間取りは一階が土間を持つ六間取り、二階は10畳2室、12.5畳1室で、客座敷にはそれぞれ床の間・違い棚・書院が設けられており、ナカノマと呼ばれる部屋には、客用の正式な玄関である式台の変形した玄関がついています。
 使用されている木材の質や仕上げは上質で、3尺幅の神代杉や楠木一枚板の戸が見られ、また、市松模様の赤色ガラスや欄間の彫刻や細工をど随所に凝った意匠が見られます。
 「文化財散策ガイドあつぎ」(厚木市教育委員会発行)より

アメリカ本土攻撃をするための気球爆弾!

 中国が上げた情報収集用の気球を、米国が打ち落としたニュースがあり、改めて太平洋戦争の時、日本が上げた「気球爆弾」があったことを思い出しました。
 今回の中国共産党の言い訳は、なにか情けなく聞こえました。この言い訳を聞いたとき、中国という国ではなく、「中国共産党」が言い訳していると考えなくてはいけないのでしょうね。同じように、ロシアについても、ロシアという国でとらえるのではなく、「プーチンとその支持者」だけ、と考えなくてはならないのでしょうね!

鎌倉 鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「化粧坂」

 この仮粧坂は鎌倉七切通の一つで、今も昔の面影を残し、国の史跡になっています。
 この坂の名の起こりについては、平家の大将の首をここで化粧して首実検したことからその名が付いたとか、また、この坂のあたりに町家があって化粧した女達がいたからとか、木がよく生(お)い繋(しげ)っていたので木生えとか、気勢(気生・形勢)と呼ばれたことからきているともいわれます。
 この険しい坂道は、藤沢から武蔵(むさし)方面に通ずる重要な道で、新田義貞(にったよしさだ)が1333年(元弘3年)5月、鎌倉攻めのとき、この仮粧坂に軍の主力を向けたので、激戦地になりました。

「おしゃべり」と「会話」のちがい!

 NET社会になると。「知ったかぶりになりやすい」のでしょうか?
 多くの人に見られるので、返って慎重になるのでしょうか?
 それとも、人それぞれなのでしょうか?
 情報の発信は、状況によって変わる人と、そうでもない人がいます。知識のみで自分を造り上げた人と、実際に自分の身をもって経験したことを基本にしている人とでは、やはり違いが出るのでしょうね!

尾道 山門は「ええもん」と呼ばれる「福善寺

 福善寺寺域全体が中世山城「丹花(たんか)城」跡に立てられています。
 守護大名山名宗全側近太田垣光景の子孫、但馬国城主太田垣因幡守の孫斐守が出家、名を行栄法印といい1573年尾道を訪れ、当時この地方には浄土真宗がまだ広まっておらず、行栄は近郊の住民に医業を施して生業(なりわい)とし、その傍(かたわ)ら久保町に道場を開き念仏布教を行っていた。
 『ええもんは福善寺』と尾道の名物でもある入口の豪壮な山門は、龍の彫り物など木組み一式が京都の名工によって制作された。本堂は欅の紫宸殿造で人を圧倒します。
 尾道では「ええもん」=「良いもの}という意味です。

全員一致は本来はあり得ないこと!

 日本は「根回し」文化の国です。根回しには談合もあります。『日本書紀』の時代から談合の国です。 A建設、B建設、C建設などさまざまな企業が談合で出てきます。
 そういった取捨選択、あるいは格付において絶妙に配慮が行き届いて、忖度しているといった具合です。
 だから、『日本書紀』は日本の忖度文化の原型ではないかと思います。いわゆる独裁的な王権があったのではなく、連合王権のような国として成立してきました。
 「根回し」には悪い面もありましが、良い面もあります。それは独裁者が出てこないことです。日本の独裁者と言える人物は織田信長ぐらいでしょう。
 根回しの段階で、部下の意見を取り込むことができます。また、部下を上司の意見に近づけることも出来ます。
 独裁国家にならないためには、効率に問題はあるのでしょうが、「根回し文化」もあって良いのでは、と思いますが!

相模原 西南 2012年4月出火、その後再建「下溝八幡宮」

 2012年4月4日午後0時55分ごろ出火、木造平屋建ての本殿-約200平方メートルが全焼し、隣接する小屋の一部約10平方メートルが燃えた。けが-人はなかった。江戸時代に作られ、市の指定有形文化財に指定されている「木造不動明王-座像」は、別の社に保管されており無事でした。

バブルの頃「一卵性母娘」という現象が!

 「親が子離れが出来ない」これも核家族の影響なのでしょうか?
 子どもは、接する大人の数が少ないため、親を頼るようになり、親も気を使う人達が少ないため、子共中心になるのでしょうか?
 やはり人づきあいが面倒なのでしょうが、親も子も多くの人達とそれなりの接触をし、社会というものの中での暮らし方を、身につけなくてはいけないのでしょう。
 もう一度、人類の生き残り作戦として、社会というもののなかで、どのように暮らし方を身につけるか、考えて行かなければならないのでしょうね。SDGsは温暖化対策だけではないのでしょうから!

福山 鞆の浦 鞆湾の全景が見える「医王寺」

 「医王寺」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
 医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。晴れた日の早朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝日に出会うこともできます。

ひとつのイデオロギーで人間を支配したい人!

 雑学に取り組んでいると、「まずは否定しない」ということが身につきます。
 しかし、自分が興味があることだけに取り組んでいると、年齢を重ねていくほど、他の考え方を受け入れることが出来なくなってしまいます。ロシアのプーチン大統領もそうなのでしょうね。 こうなるとやっかいです。場合によっては救いようがありません。何かありますか?

鎌倉 材木座町内の五つの神社を一緒に「五所神社」

 この神社は、1908年(明治41年)に町内にあった三島(みしま)・八雲(やくも)・諏訪(すわ)・金比羅(こんぴら)・見女八坂(みるまやさか)の五つの神社を一緒にしてまつったものです。祭神は大山祇神(おおやまづみのかみ)・素戔嗚尊(すさのうのみこと)・建御名方命(たけみながたのみこと)・崇徳院霊(すとくいんのみたま)・天照大神(あまてらすおおみかみ)で、毎年6月の第2日曜には盛大な祭りが行われています。境内の神輿庫には、神輿が安置されていて、「寛永十九年」(1642年)の棟札(むねふだ)がかかっています。例祭では、五所神社を出発した神輿は、昔から伝わる「天王謡(てんのううた)」を唄いながら材木座の町内を練り歩いた後、材木座海岸で海に入ります。