ちょっと手間のかかることが、頭の働きに良い、とのこと。ちょっとした親切心がある人は、周りに気を使っており、何かしらの“お手伝いをが出来ること”に気がつきやすいのでしょう。
四国遍路で「お接待」というおもてなしがあります。遍路をしている人達に、飲食などの、何かしらの提供を無償で行うものです。通りがかりの巡礼している人達に気を使うことで、頭の働きにきっと貢献しているのでしょう。
“親切にする”ということは、相手から言われる前に、こちらから気を使って、なにかできることがないか、頭を無意識に使っています。これが頭には良いのでしょう。
確かに親切な人は、人間的に頭がよい人ですね!
2022年のアーカイブ
座間 家康と関係の深い寺「宗仲寺」
リフレ-ミングで心は変わる!
尾道 石造の神亀が手水舎に「艮神社」
なかなかチャンスがやってこない!
鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」
山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺(ほっけきょうじ)から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人像と釈迦如来像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。この寺の近くには妙典寺、勧行寺、本成寺、本龍寺があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。
「日本にも原人はいた」は捏造だった!
情報化社会になって、デマ(デマゴギーの略:政治的効果をねらって,意図的に流される虚偽の情報。悪宣伝。根拠・確証のないうわさ話。)が増えています。
そのなかには、悪意をもたないまま流した情報が、結果としては悪意に満ちていた、という情報も増えているのでしょう。
最近は、SNSでいかがわしい情報がたくさん流れています。流した本人は、それほどいかがわしいとは思っていないようですが。
むかしの商業の町の中には、「法律は最低限のマナーだ。商人としてのマナーは、もっと上のレベルでなければならない」とされていました。SNSには、まだマナーといったものが出来てきていないようです。その結果、精神的にダメージを受ける人も少なからずいるのでは、と気になります!
鎌倉 人に慣れた狸が住みついたとか「延命寺」
人に会うときの挨拶をまずきちんとする!
尾道 力石をかついだ和七の像「御袖天満宮」
映画ファンなら必ず訪れるのが御袖天満宮(みそでてんまんぐう)。大林映画「転校生」の舞台となった石段があるからじゃ。
上から転げ落ちて、男女が入れ替わってしもうた、あの石段じゃ。
石段は五十五段あるんじゃが、あれほど立派な石段はなかなかお目にかかれん。
すべて花崗岩(かこうがん)で造られとるんじゃが、一段の長さは5mほどあってな、すべて一本石でひとつも継ぎ目がないんじゃ。
あまりよう出来過ぎたので上から二段目だけは継いであるがの。
その石段から下ったわきに、力石をかついだ和七(わひち)の像が立っとる。
力石とはな、力自慢たちが力を競うために作られたもんで、持ち上げた人の名前が彫り込まれとるんじゃ。
尾道には、力石(ちからいし)がぎょうさんある。
知識を理解し、自分なりに使えて!
厚木 頼朝と深い関係の伊東一族子孫の菩提寺「清源院」
1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
伊東氏は、藤原氏南家・藤原為憲の流れをくむ工藤氏の一族で、古く平安時代の末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡の伊東荘(現在の伊東市)の地を本拠としていた豪族であった。
平清盛が政権を握っていた頃の伊東氏の当主は伊東祐親で、平治の乱で敗れた源義朝の嫡男・頼朝が伊豆蛭ガ小島に流されていたのを監視する役目も負っていた。
この祐親が上洛して大番役に就いていた間に、頼朝と祐親の三女・八重姫が通じて千鶴という男の子を生むという事件が起きた。京から伊豆に戻った祐親は清盛の怒りを恐れ、その子を殺したうえに頼朝も討とうとしたが、次男の祐清が頼朝に急を知らせて北条時政の屋敷に逃がした。これで助かった頼朝は時政の娘の政子と結ばれ、時政の援助を得て治承4年(1180)に源氏再興の挙兵をした。
旬のモノを意識的に食べる!
鎌倉 白旗神社から法華堂跡、大江広元の墓へ!
傷つくことを恐れている人!
尾道 不動岩~奥の院「不動岩の上は絶景」
不動岩から奥の院に至る道です。途中に聖観音、子宝観音があります。
・聖観音……観音菩薩は聖観音が基本の姿ですが、6世紀頃の中国で密教の教義により様々な変化観音が生まれました。法華経の中の「観世音菩薩普門品第ニ十五(観音経)では、聖観音を含めた六観音が六道輪廻(世の中のあらゆる生命は六種類の世界に生まれ変わりを繰り返すという教え) の思想に基づいて六道に迷って苦しむ衆生を救うと説いています。
日本では、真言宗が六観音として聖観音(地獄道)・十一面観音(修羅道)・千手観音(餓鬼道)・馬頭観音(畜生道)・如意輪観音(人道)・准胝観音(天道)を定め、天台宗は准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音としていました。
自分に失望すると、とにかく非難する!
福山 最古の長い歴史を持つ港町「鞆の浦」
卵がコレステロール値を上げるは間違い!
鎌倉 八幡太郎義家をこの地で産む「甘縄神明宮」
俗に甘縄神明と呼ぶ。祭神天照大御神・配祀倉稲魂命・伊邪那美命・武饗槌命・菅原道真。例祭九月十四日。元村社、長谷区の氏神社。社伝では天平年中の勧請という。 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』によると、和銅三年(710)八月行基の草創。染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建て、のち源頼義が相模守となって下向した時、平直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家をこの地で産んだと伝える。直方は時忠の婿であった。 背後の山は神輿尼岳といい、『萬葉集』に見える。このあたり大庭御厨の一部であったので神明宮の奉斎があったらのであろう。『吾妻鏡』に記載の見える古社で、源頼朝・政子らの参拝・奉幣があり、安達盛長が守護に当り、社前に住みその子孫は歴代ここを住居とした。 |