ちょっとじゃまなことが頭の働きに良い!

 ちょっと手間のかかることが、頭の働きに良い、とのこと。ちょっとした親切心がある人は、周りに気を使っており、何かしらの“お手伝いをが出来ること”に気がつきやすいのでしょう。
 四国遍路で「お接待」というおもてなしがあります。遍路をしている人達に、飲食などの、何かしらの提供を無償で行うものです。通りがかりの巡礼している人達に気を使うことで、頭の働きにきっと貢献しているのでしょう。
 “親切にする”ということは、相手から言われる前に、こちらから気を使って、なにかできることがないか、頭を無意識に使っています。これが頭には良いのでしょう。
 確かに親切な人は、人間的に頭がよい人ですね!

座間 家康と関係の深い寺「宗仲寺」

 宗仲寺は家康と関係の深い寺である。この寺の開基は内藤清成で、家康の側近として活躍した人であり、開山源栄上人も若いころから家康と親交があった上人である。
 家康は鷹狩りを好み平塚に中原御殿、府中に府中御殿を建て、しばしば鷹狩りを催したといわれる。座間宿村は、中原御殿へ四里(約16km)府中御殿へ六里(約24km)という位置にあり、鷹狩りの道筋にあたっていたため、三回この宗仲寺にたちよって源栄と談話したことが、いくつかの史料の中に残されている。

リフレ-ミングで心は変わる!

 行き詰まったとき、どのようにして乗り切るか。
 自分を責めても、困難を乗り切ることには何の効果もありません。
 こんなとき、自然の中で育った人達は、現在の状況を詳しく観察するクセがついています。その状況を見た上で、打つ手があるのか、それとも、諦めるか、決めていきます。
 そのような習慣が身についていると、諦める結果になっても、立ち直ることが出来るようです。
 うまくいかないときは、とにかく洩れなく現状把握を徹底することのようです!

尾道 石造の神亀が手水舎に「艮神社」

 石造の神亀(しんき)

 少し変わった手水鉢を見ることができます。ー般的な手水鉢は、龍の口から水を吐くものが多いのですが、ここでは長寿にあやかり、亀のロから水が出ています。
 神亀には耳があり、繊細に掘りがされています。亀の口から水が出ています。「亀は万年」と言われて縁起が良く、亀の長寿にあやかったものなのでしょうか。
 『古事記』は、九州の神武天皇が[ヤマト建国]を目論み瀬戸内海を東に進んでいたとき、海の彼方から、釣り竿を抱え、亀に乗った男がやってきて、水先案内人を買ってでた、と記しています。

なかなかチャンスがやってこない!

 チャンスは、何かしら行動をしているときに、何かしらの状況の変化が起き、その変化にうまく対応できたとき、チャンスをものにした、ということなのでしょう。
 ただし、チャンスをものにしたと、気がついていない人達もいるようです。
 経験し、学習し、何かしら狙っている人達は、チャンスをものにしたと、気づくのですが、いつも現状の変化を見過ごすことなく、常に変化に対応している人達は、その対応で成功していたとしても、それほどチャンスをものにしたとは思っていないようです。それが日常ですから。
 ただし、数年たって、あとから気がつくのでしょうが!

鎌倉 この谷戸あたりが腰越の中心部だった「東漸寺」

 山門をくぐると正面に本堂があります。この寺は、龍口寺を守るために千葉県中山の法華経寺(ほっけきょうじ)から差し向けられたといわれる日東(にっとう)が1352年(正平7年)に開いたと伝えられます。本堂には、日蓮上人像と釈迦如来像がまつられています。「腰越駅」近くの諏訪神社は、もとはこの寺の境内にあったそうです。寺の裏山には、エフェドリンという咳止めの薬を作り、日本薬学の基礎を築いた長井長義(ながいながよし)博士夫妻の墓がありましたが、現在は墓は移され、墓地に記念碑が立っています。この寺の近くには妙典寺、勧行寺、本成寺、本龍寺があり、輪番八ヵ寺のうち五寺が集まっています。昔は、この谷戸あたりが腰越の中心部だったそうです。

「日本にも原人はいた」は捏造だった!

 情報化社会になって、デマ(デマゴギーの略:政治的効果をねらって,意図的に流される虚偽の情報。悪宣伝。根拠・確証のないうわさ話。)が増えています。
 そのなかには、悪意をもたないまま流した情報が、結果としては悪意に満ちていた、という情報も増えているのでしょう。
 最近は、SNSでいかがわしい情報がたくさん流れています。流した本人は、それほどいかがわしいとは思っていないようですが。
 むかしの商業の町の中には、「法律は最低限のマナーだ。商人としてのマナーは、もっと上のレベルでなければならない」とされていました。SNSには、まだマナーといったものが出来てきていないようです。その結果、精神的にダメージを受ける人も少なからずいるのでは、と気になります!

鎌倉 人に慣れた狸が住みついたとか「延命寺」

 鎌倉時代の執権北条時頼(ほうじょうときより)の夫人が建てたと伝えられています。開山は専蓮社昌誉能公(せんれんしゃしょうよのうこう)で、浄土宗の高僧の一人です。公開されていませんが、阿弥陀如来(あみだにょらい)で、本堂の正面にまつられ、右側に観音像(かんのんぞう)や阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)、左側に地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)が安置されています。こここにまつられている地蔵像は「身代(みがわ)り地蔵」といい、時頼夫人が日頃信仰していたと伝えられる仏様です。

人に会うときの挨拶をまずきちんとする!

 最近、クルマを運転する人が、横断する人に対してやさしくなってきたように感じます。地域差もあるのでしょうが、横断歩道で渡ろうとしている人がいると、止まる車が増えています。横断する人は、会釈をして急ぎ気味で渡る人が多いようです。
 このような現象は、運転する人も、横断する人も、なにかしら気持ちが軽くなるようです。
 これも挨拶のようなもので、「おはようございます」とか「こんにちは」のように、世の中に定着するとよいのですが、忙しくて、情報過多で、なかなかそこまで気が回らない人もいますから、やはり、注意も必要ですね!

尾道 力石をかついだ和七の像「御袖天満宮」

 映画ファンなら必ず訪れるのが御袖天満宮(みそでてんまんぐう)。大林映画「転校生」の舞台となった石段があるからじゃ。
 上から転げ落ちて、男女が入れ替わってしもうた、あの石段じゃ。
 石段は五十五段あるんじゃが、あれほど立派な石段はなかなかお目にかかれん。
 すべて花崗岩(かこうがん)で造られとるんじゃが、一段の長さは5mほどあってな、すべて一本石でひとつも継ぎ目がないんじゃ。
 あまりよう出来過ぎたので上から二段目だけは継いであるがの。
 その石段から下ったわきに、力石をかついだ和七(わひち)の像が立っとる。
 力石とはな、力自慢たちが力を競うために作られたもんで、持ち上げた人の名前が彫り込まれとるんじゃ。
 尾道には、力石(ちからいし)がぎょうさんある。

知識を理解し、自分なりに使えて!

 知識を生きて使うには、どうしたらよいのでしょう。
 知識を使う場合、その多くは本などから仕入れた知識を、それが該当する場面で使います。
 しかし、知識の原点は、何かしらの経験がをもとにして造られています。その経験まで学んでいたら、多くの知識は手に入りません。その結果、楽をしてか、経験なしの知識をどんどん貯めてしまいます。
 昨今のOA化・情報革新の時代では、もとになる経験などしている暇はありません。急激な情報革新のため、人間の脳内分泌物も、まだ情報化社会に適した分泌(情報に対する免疫)もまだ出来ていません。それが原因かどうかわかりませんが、異常な犯罪が増えてきていますね!

厚木 頼朝と深い関係の伊東一族子孫の菩提寺「清源院」

 1050年天台宗の桓瞬和尚が開山と伝わる古刹。一時は荒れてたこのお寺を再建したのは、曹洞宗の天巽和尚。伊豆の伊東一族の子孫と伝えられている、伊東九郎三郎政世は源清院を菩提寺とし、源清院本堂裏には、政世をはじめとする伊東一族の宝筐印塔が並んでいる。
 伊東氏は、藤原氏南家・藤原為憲の流れをくむ工藤氏の一族で、古く平安時代の末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡の伊東荘(現在の伊東市)の地を本拠としていた豪族であった。
 平清盛が政権を握っていた頃の伊東氏の当主は伊東祐親で、平治の乱で敗れた源義朝の嫡男・頼朝が伊豆蛭ガ小島に流されていたのを監視する役目も負っていた。
 この祐親が上洛して大番役に就いていた間に、頼朝と祐親の三女・八重姫が通じて千鶴という男の子を生むという事件が起きた。京から伊豆に戻った祐親は清盛の怒りを恐れ、その子を殺したうえに頼朝も討とうとしたが、次男の祐清が頼朝に急を知らせて北条時政の屋敷に逃がした。これで助かった頼朝は時政の娘の政子と結ばれ、時政の援助を得て治承4年(1180)に源氏再興の挙兵をした。

旬のモノを意識的に食べる!

 「旬(味のよい食べ頃の時期)」を大切にしたいものです。1950年代の後半に三種の神器といわれた家電の中に冷蔵庫がありました。この冷蔵庫が普及する前までは、旬のものを大切にしてきました。ということは、日本人のからだは、この旬のものを食べてきた結果でつくられたものでしょう。
 旬のものと地産地消が、日本人のからだづくりの原点にあるのでしょう。
 新コロナが世界中に蔓延し、物流が滞って、改めて「地産地消」の大切さに気がつきました。「旬のもの」の大切さにも、改めて気づく必要があるのでしょう!

鎌倉 白旗神社から法華堂跡、大江広元の墓へ!

 途中の法華堂跡は、三浦市一族が宝治合戦(1247年)で、自害、討ち死にしたところ。毛利氏や島津氏は三浦氏に加わり、多くが死んだ。
 一族の最後の場面では、「自害した人の顔を削いで、誰の死体か分からなくしよう」という提案もあったとか(そうはしなかったが)。
 当時の武士の、過激な生き様がしのばれますね。
 また、「頼朝の墓」まで登った後、大江広元の墓に行く別のルートもあります。山道を昇って行くことができます。道が濡れている場合は危険ですので、注意してください。

傷つくことを恐れている人!

 こだわりやすい人は、ガンになりやすい印象があるとのこと。
 仕事に携わっている時代は、どうしても視野が狭くなります。深くはなるのですが、広くはなりません。そして、狭いままリタイヤすると、そこから外れている分野については、まったく興味が湧いてきません。その結果、こだわりがますます強くなっていきやすいですね。
 自然に接している人は、何故かいろいろと興味を持ちやすいようです。自然は多彩ですからね。特に日本では!

尾道 不動岩~奥の院「不動岩の上は絶景」

 不動岩から奥の院に至る道です。途中に聖観音、子宝観音があります。
・聖観音……観音菩薩は聖観音が基本の姿ですが、6世紀頃の中国で密教の教義により様々な変化観音が生まれました。法華経の中の「観世音菩薩普門品第ニ十五(観音経)では、聖観音を含めた六観音が六道輪廻(世の中のあらゆる生命は六種類の世界に生まれ変わりを繰り返すという教え)  の思想に基づいて六道に迷って苦しむ衆生を救うと説いています。
  日本では、真言宗が六観音として聖観音(地獄道)・十一面観音(修羅道)・千手観音(餓鬼道)・馬頭観音(畜生道)・如意輪観音(人道)・准胝観音(天道)を定め、天台宗は准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音としていました。

自分に失望すると、とにかく非難する!

 「知識」を覚えることは大事ですが、それは「智慧」とは言えないようです。
 「智慧」に至るには、その場の状況を洩れなく把握した上で、関係しそうな知識を寄せ集め、それらを組み合わせ、場合によっては、自分で考え出したものと組み合わせ、実行できるようにした状態までもって行かないと、智慧にはならないのでしょう。大変ですね!

福山 最古の長い歴史を持つ港町「鞆の浦」

 鞆の浦は、『万葉集』の大友旅人(おおとものたびと)の歌にも詠まれた、全国でも最古の長い歴史を持つ港町で、鎌倉・室町にも江戸時代にも大いに栄えた大都市でした。
 靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。良い港の条件は、水深がある程度大きく、荒天時の波風を避けられる湾や島陰などがあること、そして川がないことで、川が海に流れ込むと、その土砂が堆積して港が埋まってしまうので、川がない方がよいのです。山が迫る海辺が好適地となります。鞆の浦はそうした良港の条件をすべて備えているのです。

卵がコレステロール値を上げるは間違い!

 健康志向が高くなってきているため、どんどん健康食品が増えてきています。どうするか、どれを選ぶか迷いますね。
 病気の治療方法はどんどん進歩したほうが良いのですが、アレルギーの増加を見ていると、日常はむかしながらの食生活のほうが良いような気もします。
 いまテレワークが増えているので、運動不足解消のため「家庭菜園」で野菜を栽培したらどうでしょう。
 そこで、からだに良い肥料を使い、無農薬野菜をつくり、収穫した野菜を水で洗い、料理する、といった食生活はどうでしょうか。
 地中細菌はある程度残っているかも知れませんが、ヒトの体はそのような環境の中で進化したのでしょうから、大丈夫でしょう!

鎌倉 八幡太郎義家をこの地で産む「甘縄神明宮」

 俗に甘縄神明と呼ぶ。祭神天照大御神・配祀倉稲魂命・伊邪那美命・武饗槌命・菅原道真。例祭九月十四日。元村社、長谷区の氏神社。社伝では天平年中の勧請という。
 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』によると、和銅三年(710)八月行基の草創。染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建て、のち源頼義が相模守となって下向した時、平直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家をこの地で産んだと伝える。直方は時忠の婿であった。
 背後の山は神輿尼岳といい、『萬葉集』に見える。このあたり大庭御厨の一部であったので神明宮の奉斎があったらのであろう。『吾妻鏡』に記載の見える古社で、源頼朝・政子らの参拝・奉幣があり、安達盛長が守護に当り、社前に住みその子孫は歴代ここを住居とした。