神は堕落した人間を見て!

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 自然環境の危機の話し合いがされています。しかし、歴史は繰り返すといいます。旧約聖書の「ノアの箱舟」が再び起きてしまうのでしょうか。また、第6絶滅期とも言われ出しました。火星も、むかしは生物が繁栄しており、そして絶滅したのでしょうか? 諸行無常なのですね!

愛川町 かって五十余の院・坊があった「八菅神社」

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 かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
 八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
 また、703年、修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、忽然として「池中に八本の菅が生えたことから八菅山の名が起こり、709年には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたという。
 しかし、明治の神仏分離令により光勝寺は廃され七社権現は八菅神社と改称、今日にいたっている。

“イギリスの飼い犬”のように動いたのが龍馬!

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 武器商人は、権力者同士を争わせることがビジネスの基本です。表だっては権力者に忠誠をよそいながら、自分の意志が通じる同胞を、敵対関係の権力者に取り入らせ、双方に武器を買わせ、戦わせ、武器を消耗させ、武器の販売高を上げていくことが基本です。その過程で、どちらが勝つかを早く見通し、最終場面で強力な武器を売りつけ、そのおかげで勝利できたと、勝利者に思わせることが、その後の商売につながっていきます!

厚木 駒込の吉祥寺の末寺「龍鳳寺」

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 祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸(東京都)駒込の吉祥寺の末寺です。
 大州安充禅師(本寺二世)により享禄三年(1,530)開創じされました。開基となったのは地頭床左近太夫で、境内に墓があります。
 床左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。

「鎖国」という用語が教科書から消えた!

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 明治維新の原因は何だったのでしょうか? 西国の外様大名の多くは、密貿易で多くの利益を得、藩の財政を支えていたのでしょう。それが、開国によりその利益の多くを「徳川家にもっていかれるのではないか」と不安になった、それを阻止するため、朝廷という権威を使って明治維新を行ったのでしょうか? 規模の大きな戦いはどんなものでも、その原因はお金とつながっている事実をわきまえた上で、権力争いを見る必要があるのでしょう!

鎌倉 もとは真言宗能蔵寺だった「来迎寺」

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 1194年、源頼朝が鎌倉幕府の礎石となった三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまり。
 当時、能蔵寺の名前は、この付近の地名として使われていた。頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名した。
 本尊には義明の守護仏とされる阿弥陀三尊立像のほか、子育て観音と親しまれる聖観音が祀られている。墓地の奥には義明の墓や、平家方の畠山軍に17歳の若さで殺された多々良三郎重春の墓と伝えられる五輪塔もある。

1ヵ所だけからでは陰のところは見えない!

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 一般的には、知識が増えていくと、固定観念ができ、どんどん視野が狭くなっていきます。いまは専門家が尊重される傾向があるので、自分が蓄積してきた知識の延長で学んでいきます。その結果、ますます視野が狭くなります。一方的な見方が強くなります。人間以外は、感覚で情報を得て、先入観無しで、その情報を中心に判断するため、現状については人間より正確に判断しているのでしょう!

尾道 村上水軍の信仰を集めた「光明寺」

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 834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、1336年に浄土宗に改宗されました。室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました。
 またこの寺には尾道ゆかりの第12代横綱・陣幕久五郎の墓があり、彼を顕彰した手形付きの記念碑があります。

「あなたなら大丈夫」とプラスの方向で!

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 「悩んでいるとき」、「落ち込んでいるとき」などは、まず聞き役に徹することでしょうか。そして、一段落してから「○○さんなら大丈夫ですよ」と声をかけるのでしょう。「ああせよ」、「こうせよ」というのは、良いことはないのでしょう。これは、子どもに対しても同じなのでしょう。アドバイスは必要なことでしょうが、押しつけは良いことはないのでしょう!

鎌倉 今宮神社ともいう「新宮神社」

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 祭神は後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇。
 「承久の乱」(1212年)の朝廷側の人物たちで、幕府は勝利をおさめ、後鳥羽帝を隠岐へ、順徳帝を佐渡に配流し、両帝ともその地で歿した。また、土御門帝はみずから土佐、のちに阿波へおもむいた。
 その争いに勝つには勝ったものの、幕府は後鳥羽帝の怨霊をおそれ(実際にさまざまな怪異が生じたという)、1247年(宝治元年)四月に当社を創建した。そのときか、のちのことか不詳ながら、順徳帝を合祀、土御門帝は明治以降の合祀である。

育児はこころで生きる人間を育てること!

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 いまは、「言葉だけで生きてる」といった印象を受けます。しかし、「こころ」は「感覚」が育ててくれるようです。人間以外の動物は、言葉では生活していません(合図程度のものはありますが)。言葉は、過去や将来についても考えることができます。その反面、言葉は、”いま現在”を感覚から得る力が弱ってしまいます。「手加減」という言葉があります。手加減することは、言葉からは学べません。感覚の情報があるから「加減」ということがわかるのです。こころは感覚の情報を得られないと、育つことはできないのでしょう!

尾道 浄土寺山の鎖場から不動岩へ

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 この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
 写真は 2013年~2014年の落石工事前です。
 鎖場が1番から3番あり、1番が一番長く、3番は“腕の力”だけで登る箇所もあります。
 ほぼ斜面を真っ直ぐ登りますので、かなり急斜面を登ることになります。
 各鎖場は、横に迂回もできますが、山道として整備されてはいません。

ポリフェノールの含有量はザクロ!

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 ポリフェノールは、活性酸素を除去し、血行をよくして血圧を下げ、心筋梗塞を防ぐという。他にもいろいろと効果があるのでしょう。でも、現在は、情報がころころと変更されるので、漢方のように50年とか100年とかの、人体実験で確かめていく必要があるのでしょう。ただ、個々の人体は、進化の過程で育った環境に順応しているため、人によって、その効果は違ってくるのでしょう!

鎌倉 日限地蔵に願いを「安養院」

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 もと浄土宗名越派の本町山。その後京都知恩院の末寺となったが、浄土宗の本寺末寺制度の解体によって、現在は神奈川教区に属している。大町所在。祇園山長楽寺安養院と号す。開山は願行房国憲静、開基は北条政子。嘉禄元年(1215)三月、夫源頼朝の菩提を弔うために夫人政子が佐々目ケ谷に建立した長楽寺という律宗のこの寺が前身と伝える。鎌倉時代末期に浄土宗善導寺の跡(現在地)に移って安養院と号したという。名越派の本山として浄土宗となったのもこの頃からからしれない。もっとも、開山の願行上人は兼学の人なので、開創当時からその母体はあっただろうが……。

品とは何か?「恥を知っていること」!

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 古くからの商業の町の商業高校で、商業法務を学ぶとき、「法律は最低のマナーだ」と教わりました。当時でも、世間はそうではないこともあったのでしょう。ビジネス中心の都会のいまは、「法律が最高のマナー」となっています。また、むかしの商売人の町では、「豪商」の仲間に入るには、お寺を1つ持たなければ(スポンサーにならなければ)なりませんでした。当時のお寺は、学びの場であり、病院であり、福祉の場であり、精神的な救いの場でした。弱者に対する社会的な救済の責任を果たさなければ、一人前の商人として扱われなかったのですね!

座間市 家康と関係の深い寺「宗仲寺」

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 宗仲寺は家康と関係の深い寺である。この寺の開基は内藤清成で、家康の側近として活躍した人であり、開山源栄上人も若いころから家康と親交があった上人である。
 家康は鷹狩りを好み平塚に中原御殿、府中に府中御殿を建て、しばしば鷹狩りを催したといわれる。座間宿村は、中原御殿へ四里(約16km)府中御殿へ六里(約24km)という位置にあり、鷹狩りの道筋にあたっていたため、三回この宗仲寺にたちよって源栄と談話したことが、いくつかの史料の中に残されている。

今日は息子さんはお休みですか?

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 子どものときに、「手加減」という感覚を身につけてほしいものです。現代は、安全志向ばかりのため、悪いことをやるときには、「このへんで止めておこう」という、手加減するという感覚がわかっていないようです。そのためか、過激な犯罪が発生しています。「ここまで止めておこう」という感覚を、身につける機会を失っているようです!

鎌倉 将軍御成の門があったという「妙法寺」

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 旧本山は大本山本圀寺(六条門流)。通師・堀ノ内法縁。
 建長5年(1253年)に日蓮が安房より移り住んだ松葉ヶ谷草庵跡に開かれたとされ、現在も境内奥の山腹に「御小庵趾」の碑がある。ただし、ごく近隣の安国論寺、長勝寺も、それぞれ松葉ヶ谷草庵跡を称しており、すべて開山は日蓮、創建は草庵が置かれた建長5年としている。
実質的な開山は日蓮より数えて第5世となる楞厳法親王妙法房日叡(りょうごんほうしんのうみょうほうぼうにちえい)で、延文2年(1357年)のことである。

口は、食べるだけでなく、話す役割も!

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 “口”は話すという役割があるのですが、ネット社会では”指”が変わりをしています。ただ、音声認識が進歩してきたので、また”口”がその役割を取り戻そうとしています。日本語は同音異義の言葉が多いので、誤変換で「口は禍のもと」にならなければよいのですが。面と向かって話すのであれば、表情やその動作で、正しい解釈ができるのですが!

福山 鞆 かって加藤清正を祀るお堂があった「法宣寺」

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 1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後光厳天皇の信任も厚かった大覚大僧正がこの地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。