尾道 本堂内に「泣き龍天井」がある「西郷寺」

 本堂(国重文)は清楚で風格のある美しい姿。
 700年の風雪を経た今も、清楚で風格のある美しい姿。

 建築家・安藤忠雄さんがこの「本堂の屋根の傾斜がいい」と言われたとか。

 堂内に「泣き龍天井」があり、手を打つと乾いた音(ビーンーのような)が帰ってきます。小学生の頃、子供会を本堂で行ったことがあります。

相模原 江戸時代には寺子屋も開かれていた「常福寺」

 1300年頃、鎌倉時代末期に建立。 開山は鎌倉建長寺の35代管長、本覚了堂禅師、開基は菅原長員。
1316正和5年、文章博士などを務めた菅原長員が、その祖父菅原長貞の供養のため、鎌倉建長寺より本覚了堂禅師を招き開山した。
 その後、一時衰微したものを信濃の国出身の玉叟珍(1563年没)が中興したと伝えられている。 開山以来代々知識人として知られた菅原氏と縁が深く、1584年の北条氏直の版物状や、鎌倉仏師として知られる後藤四郎兵衛藤原義貴の作による地蔵菩薩立像などが残されている。
 江戸時代には寺子屋も開かれ、後には「新戸学校」も開かれるなど、当地の学問の中核地であったようです。

鎌倉 地震や津波で海辺から移された「円応寺」

 山号を新居山(しんきょさん)といい、十王堂(じゅうおうどう)とも呼ばれています。
「地獄の十王たち」

 地底をゆるがす大音声で断罪を下し、「いいえ、それは違います」と一言でも蚊細く抗弁しようものなら獄卒に目くばせし、間髪を入れず浄破璃の鏡の覆いを取りのけさせる。……と。
    親を足蹴にかけた。
    人妻の寝室に入り、邪な快楽を分け合った。
    隣の犬が吠えて八釜敷(やかまし)いとて毒殺。
    盗み。嘘言。偽り。虚栄。ハッタリ。怠惰。無慈悲。不まじめ。数知れず。

 かくて亡者は勝ち誇る牛頭馬頭(ごづめづ)の鬼に引きすえられ、口をこじ開けられ、大きな専用道具でギリギリグイッと舌をひん抜かれ、ギゃアと叫んで悶絶する。
 円応寺では正面の帳(とばり)の陰に一きわ巨大な間魔大王がすわっている。他の九王は一段低い左右に居流れ、普通の仏教寺院と違う、異様な圧迫感を漂わす。
 このエンマ様は伝運慶作。彼が死に、冥途を旅して閤魔大王の前まで来たところ生きているとき、天才仏師としての手腕と業績が顕著であると認められ、突如生き返った。そのときの大王の様子を刻んだものと伝えられるが、本当かどうか。
 エンマは梵語ヤマの漢音訳であって、瑛魔、炎魔、夜魔などとも音写されるし閣魔天とか死王とかいうこともある。

尾道 墓地に猿の座像「福善寺」

 守護大名山名宗全側近太田垣光景の子孫、但馬国城主太田垣因幡守の孫斐守が出家、名を行栄法印といい1573年尾道を訪れ、当時この地方には浄土真宗がまだ広まっておらず、行栄は近郊の住民に医業を施して生業(なりわい)とし、その傍(かたわ)ら久保町に道場を開き念仏布教を行っていた。

 行栄の子念西の時代になってやっと真宗の教線が開かれ、尾道での総道場を開くことを許され、土堂町寺小路(尾道市土堂二丁目の村上医院西側の石畳の小路)に一宇を建立して福善寺と称した。 寛永七年(1630)、第三世行尊の代になってこの福善寺を現在地(尾道市長江一丁目)の丹花(たんか)の丘陵に移した。本願寺直参末寺「一家衆」に加えられ旧九条関白家の菩提所格寺院となった。

厚木 日蓮上人配流のとき逗留した「妙伝寺」

 妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
 日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。

 日蓮上人配流に際して、無量光寺開祖一遍上人は、当所觀音堂に来て日蓮上人と謁見、以来無量光寺と当寺とで音信を取り合っていたと伝えられています。また、小田原北条家からも寺領を安堵され、江戸期には幕府より寺領7石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領していましたが、不受不施派の取り締まりにより廃寺となりかけたところを、茨城県加倉井妙徳寺の住僧日遥が当寺23世となり中興したといいます。

厚木 平家の落ち武者が祀った「春日神社」

 温水(ぬるみず)の鎮守社は春日神社です。その鍵取りは、同村の旧家・奥田家が代々世襲しています。春日神社は藤原家の守護神です。源平の戦に敗れた平家の落ち武者がこの地に土着して、春日社を祀ったと伝えられていますが、その理由は分かりません。
 温水村の枝郷の一つに浅間山(せんげんやま)がありますが、この部落の鎮守は浅間(せんげん)神社で、富士浅間神社の分社ですが、この部落では、コノシロという魚を食べることを禁じています。それは、昔この部落の先祖が戦に敗れ、守城を取られたことに由来しているようです。
 戦後、疎開児童の家から謝礼にコノシロを送られたときも、その家では捨ててしまったそうです。

鎌倉 江ノ島電鉄設置で移した「諏訪神社」

 鎌倉市御成町にある諏訪神社は諏訪氏の屋敷内にあった守護神が移されたも。祭神は建御名方神(たけみのかたのかみ)。
 信濃国一宮の諏訪社大祝職である諏訪盛重は承久の乱(1221年)の後に北条泰時に被官し、1236年に泰時の邸宅が新造されると、尾藤景綱と共にその敷地内の北条屋敷横に屋敷を構え、諏訪池の東側に諏訪神社を祀ったとされる。
 現在の鎌倉市役所横、市立御成小学校付近は諏訪一族の屋敷跡と伝える場所で、この諏訪神社も諏訪一族の守護神として邸内に祀られていたという。もともとは御成小学校内にあったが、江ノ島電鉄の開通に伴い現在地に移した。御成の人々はもともと小町の蛭子神社の氏子であったが、鉄道線路による分断もあり、1950年頃から諏訪神社の氏子となった。

尾道 鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ

 ここからの景色が、尾道一かも。

 景色を眺めながら時間を過ごすと、無心のなることが出来ます。「しまなみ海道」の本土側の最初の橋から、西側は三原市の南部が見えます。秋から冬にかけて、夕日が沈む景色は最高です。ただし、暗くなる前に下りること。真っ暗な山道になってしまいますから。 

相模原 相模川支流んから本流へ 「三段の滝」

“ 昭和8年(1933)に造られた鳩川分水路(現、鳩川隧道分水路)は段丘上からの放流の勢いを緩衝するための段差が三段あることから「三段の滝」と呼ばれ、その後、昭和63年(1988)には、その上流に「新三段の滝」が完成しました。この付近は「相模川散策路」の一部として整備され、展望台から見る相模川を望む眺めは風光明媚なスポットとなっています。
 また、この新三段の滝辺りから相模川散策路を歩いてみますと、西側に相模川、その奥に大山、丹沢連峰の雄大な絶景が目に入ります。四季を通じて、季節の様々な移り変わりの表情を見せてくれる、とても良いところです。”

厚木 弘法大師の伝説、荻野川「秋葉神社」

 祭神は、火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)で伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の子供。

 ここにも三尺坊というお天狗様が現れ、
 「われこそは秋葉大権現なり、全市全町の火災を防ぎ盗難を除く、われを念ずる者は火の災いをのがれしめ、願いのある者はその願いを成就せしめ、各家無病息災ならしめん……」
 との声を残して消えたのでしょうか?

 三尺坊の十三の誓願の中でも三大誓願に、
1、失火と延焼と一切火難を逃がす
2、病苦と災難と一切の苦患を救う
3、生業と心願と一切の満足を与う
とあるので、他にも対応できるのでしょう。

鎌倉 明治時代まで縁切り寺として連綿と寺法を維持「東慶寺」

 東慶寺は、山号を松岡山(しょうこうさん)という臨済宗の寺です。1285年(弘安8年)、北条時宗(ほうじょうときむね)の夫人の覚山志道尼(かくさんしどうに)を開山として、時宗の子貞時(さだとき)が建てたといわれていますが、源頼朝の叔母の美濃局(みののつぼね)が創建し、山尼が禅宗に改めたともいわれています。
 覚山尼は、時宗が仏門に入ったとき、一緒に尼となって東慶寺に入り、禅の修行に励みました。有名な「縁切寺法(えんきりてらほう)」をつくったといわれていますが、これが確立されたのは江戸時代だといわれます。
 江戸時代、鎌倉では鶴岡八幡宮・円覚寺につぐ寺領を持ち、建長寺よりも多くなりました。

尾道 江戸時代の豪商橋本家の「爽籟軒庭園」

 橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。

 また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。

 こうした江戸時代の茶園文化を伝える爽籟軒庭園は、尾道を代表する庭園として知られ、年間を通じて茶会が行われ、毎年、10月第2土曜日は夜間特別公開として、尾道灯りまつりにあわせ、優雅な姿を公開しています。また、今年はしまのわ大茶会として、10月19日に爽籟軒でも茶会が行われます。
(尾道市東京事務所便り 平成26年9月号より)

相模原西部 庚申信仰の“青面金剛”が!「勝源寺」

 勝坂の金沢山勝源寺は、曹洞宗愛甲郡小野竜鳳寺末で開山は笑山充間(寛永五年没)、開基は村民伊右衛門(寛永10年没)である。ここの青面金剛は明治時代に養蚕祈願の庚申さまとして賑わったお寺です。
  厚木にある龍鳳寺の末寺で山号を金澤山(こんたくさん)といい、御本尊は千手観音(千の慈手・慈眼をそなえて、あまねく衆生を済度(さいど)するという変化観音。普通は、合掌手を除き四十手、掌中に各一眼を持ち、一手ごとに二十五有を救うといい、頭上に二七面または十一面がある。)です。本堂の一角には、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が祀られていて、六本庚申、千体庚申などと呼ばれていました。

鎌倉 浄土、真言、華厳、律の兼学の寺「浄光明寺」

 北条時頼と長時により創建され、「浄光明寺敷地絵図」に示されるような中世の状況を残しています。鎌倉歌壇の成立を物語る冷泉為相(れいぜんためすけ)の墓があります。
  冷泉為相(1263~1328年)は異母兄弟の二条為氏と播磨細川荘の相続争いで、訴訟で鎌倉に来ていた。(「十六夜日記」の作者 阿仏尼は冷泉為相の母。京都から16日間歩いて鎌倉に来たとのこと)
 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。

尾道 聖観音に祈願して海難をのがれた「善勝寺」

 開基は、遠く天平の世、諸国に建立された頃と伝えられている。古くは禅宗で善性寺といい、1573~1591年尾道権現山城(千光寺山城)主杉原民部太夫元垣の菩提所となった。杉原氏の没落後は寺運も衰えたが、1596~1614年の頃、性意が中興して真言宗にかわり善勝寺と改名した。
 本尊は聖観世音菩薩(市重文)。これは一名「萩の観音」とも呼ばれている。現在の本尊は1694年住職隆慶・その弟子頼音のときに、当地の小物小屋浄甫が再建したものを1980年に修復したものである。1664年6月正遍建立の持仏堂がある。

福山 「鞆の大仏」とも阿彌陀如来坐像も「阿弥陀寺」

 1748(延享5)年に、宇和島藩の接待によって朝鮮通信使の宿が「阿弥陀寺」に移ったとき、眺めが悪いためか通信使一行は抗議して船に帰ったといいます。
 通常、朝鮮通信使のための迎賓館として使用されていたのは、福禅寺の客殿で1711(正徳元)年、この客殿からの眺望を「日東第一形勝(対馬から江戸までの間で一番美しい景勝地という意味)」と称賛、従事官の李邦彦はその書を残しています。
 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開されました。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいました。

鎌倉 稲荷明神像もある「本成寺」

“ 本成寺(ほんじょうじ)は、神奈川県鎌倉市腰越にある日蓮宗の寺院。旧本山は小町本覚寺、潮師法縁。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。
延慶2年(1309年)、淡路阿闍梨日賢が建立した。

 門を入った正面に本堂があり、右側に墓地、左側に庫裏(くり)があります。日蓮(にちれん)の弟子日賢(にっけん)が1309年(延慶2年) に開いたと伝えられています。本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)(祖師(そし))という「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお題目が書かれた塔と釈迦如来(しゃかにょらい)、多宝如来(たほうにょらい)で、日蓮上人像とともにまつられています。また、岩の上のキッネにまたがった稲荷明神像(いなりみょうじんぞう)もありますが、これは「教(経)-稲荷」と呼ばれ、左手に宝珠(ほうじゅ)を持つ江戸時代のものです。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)”

福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」

 海岸山千手院福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されています。座敷からの海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残しています。
 朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
 江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。

尾道 海雲塔とも呼ばれる「天寧寺 三重塔」

「五重塔から三重塔へ」という珍しい塔
 ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
 本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上か
ら心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
 (「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)

相模原西部 一遍が草庵を設けたのが始まり「無量光寺」

 1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
 鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
 戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。