鎌倉 七堂伽藍の大寺だった「海蔵寺」

 海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺です。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
 本堂は龍護殿(りゅうごでん)とも呼ばれ、関東大震災で倒壊した後、1925年(大正14年)に再建されました。
 本堂には、中央に開山である心昭空外坐像その前にタイから伝わったといわれる銅造釈迦如来(しゃかにょらい)像、右の方に厨子(ずし)に入った十一面観音菩薩(かんのんぼさつ)立像(りゅうぞう)などがまつられ、堂内の襖(ふすま)には竜や牡丹(ぼたん)とか唐獅子(からじし)などが描かれています。

尾道 古寺巡りコース「持光寺 → 光明寺へ」

 「古寺巡礼コース」になっています。少し遠回りになりますが、も少し上を回って行くこともできます。
 尾道の山裾巡りは、坂や石段が多いのですが、景色の変化と住まいの変化(生活感)が感じられ、楽しむことが出来ます。
 また、石垣が多いので、どんな石積をしているのか、注意してみることもできます(そんな人はあまりいないですけど)。

厚木 古くは「赤城明神社」といいった「依知神社」

 上依知の相模川にかかる昭和橋のたもとにある依知神社の境内に、県の名木100選に選ばれている大きな2本のイチョウがあります。
 樹齢ほぼ500年という古木にもかかわらず、樹勢が盛んで、太い方は目通り3m、細い方が1.8m、高さ25.1mほどもあり、木の幹には乳状下垂が見られます。
 神社の由緒によると、鎌倉幕府の2代征夷大将軍に任ぜられた源頼家が、神社の建物を再建し、その記念として境内に植えたものであると伝えられています。
 現在は、国道129号線によって社殿とイチョウが左右に分断されていますが、元は一体の神社の境内にありました。

福山 鞆 神功皇后が海路安全を祈る「沼名前神社」

 現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものである。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしている。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神である。
 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。

鎌倉 疫病蔓延で退治した蜘蛛を祀る「八雲神社」

 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。
 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。
 もとは焼蜘蛛(やくも)神社だったとか。

尾道 裏山に岩に刻まれた仏像群が「済法寺」

 旧市街から見ると、ちょっと離れた西側にあります。
 境内に入っただけでは気がつかないのですが、裏山にある“岩に刻まれた仏像群(磨崖仏)”は見もの、特別な世界観を作り出しています。
 墓地がある斜面には、数多くの仏像か岩に刻み込まれています。ただし、お墓があるところより上は道がありません。双眼鏡などで見ることをおすすめします。(このあたりは花崗岩が風化した大きめの砂粒が斜面にあり、枯れ葉も多く、かなり滑りやすいのです。このような道のない斜面を歩きなれた人以外は、登らない方がよいでしょう。)

鎌倉 縁結び観音も祀る「佐助稲荷神社」

 祭神は、宇迦御魂神(うがのみたま)のほかに、大己貴神(大国主命の別称)、佐田彦命、大宮主命、事代主命の四神。
 お稲荷さんのご祭神は須佐之男神と神大市姫(かむおおいちひめ)の子供の女神・宇迦之御霊神(うがのみたまのかみ)で、食糧を司り、とくに稲の豊穣を護るのである。だから、古来より米を生産する農家だけでなく、米を主食とする日本人の尊崇を集めてきた。

厚木 秀吉の小田原攻めの際、兵火に「法界寺」

 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
(北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。)
 その後、近世初期、僧党誉の中興もあり壮大な寺容を誇り、六斎市(門前市)も栄えた。本堂の裏には、厚木を中心に多くの梵鐘や仏像を製作した鋳物師、木村一族のお墓がある。

尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」

 昔の船着場です。

 このあたりは大潮だと3mを越える干満のさがあります。人力で荷揚げするため、船と岸の段差を少なくするために階段状になっています。
 このような船着場があると、津波で動力が失われクレーンなどの荷揚げ装置が動かなくなったときでも、人力で荷揚げができますね。
 秋の大潮近くに台風が来ると、このあたりの道路は、下水道を逆流した海水で覆われるそうです。

鎌倉 神仏分離で名を改めた「小動神社」

 小動神社は、明治以前は八王子宮と呼ばれていて、明治の神仏分離政策によって、「建御名方命」を奉ることになり、以来、地元の氏神として町民たちに親しまれている。境内の奥には展望台と、かたわらには海防のため、幕末に砲台が構えられた跡があり、腰越砲台として知られる。
 小動神社の例祭は、かつて江ノ島から小動神社まで神輿をかついだまま海の中を渡るというものであったとか。

福山 鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」

 医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
 坂道や階段を上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺 医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
 高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。
 医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こ鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。
 文政9年(1826年)に、鞆に寄港したオランダの医師のシーボルトも、植物観察のために医王寺を訪れており、この景観を楽しんだでしょう。

鎌倉 源頼朝の娘、大姫、哀しい話が「岩舟地蔵」

 岩船地蔵堂(海蔵寺)の地蔵尊。奥に石造地蔵尊を安置している。頼朝・政子の娘・大姫の守本尊と伝えられています。
 分かれ道の角に海蔵寺が管理する岩船地蔵(いわふねじそう)があります。地蔵の床下には、さらに約130cmの船形の背をもっ石の地蔵があり、「岩船」の呼び名はここからついたといわれています。
 鎌倉時代は、地蔵信仰が開花したとも言われている。もともと奈良時代に中国から伝えられた自動信号だったが鎌倉にその信仰が伝わると名高い人が競って優れた地蔵を製作するようになり庶民に浸透していったのです。

尾道 浄土寺山鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ

 浄土寺山の鎖場です。一番鎖、二番鎖、三番鎖と、山頂に向かって三ヶ所の鎖場があります。
 この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
 真言宗の開祖空海は、「自分が学ぶ上代の俗典は、俗事のことばかりであり、人の一生が終わってしまえば何の役に立つものではない。
 この際、俗典の勉学はやめて、真実の教えの源を尋ねることに越したことはない」と、山岳修行者になられて、吉野の金峯山、四国は石鎚山、阿波国の大滝嶽、土佐国の室戸崎などで山岳修行に励まれました。
 室戸崎では、ついに虚空蔵菩薩の化身である明星が身中に飛び込んで一体となるという神秘体験を得て、虚空蔵求聞持法を成就したという。

鎌倉 神の霊水が岩の間から湧き出ている「銭洗弁天」

 源頼朝(みなもとのよりとも)は、幕府をこの鎌倉の地に開いてから、日夜神や仏に祈って、人々の命を救おうとしていました。巳(み)の年の1185年(文治元年)巳(み)の月の巳の日の夜中、夢にひとりの老人が現われ、
「お前は人々のために何年も心配してきた。自分はお前のその真心に感心した。天下が安らかに、そして、人々が豊かに暮らせるように、大切なことを教えてやろう。ここから西北の方に一つの谷があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。これは福の神が神仏に供えているという不思議な泉である。今、これをお前に授けるから、今後この水を汲んで絶えず用い、神仏を供養せよ。そうすると、人々が自然に信仰心を起こし、悪い者達はいつしかいなくなる。そして、お前の命令もよく行き渡り、天下は平和に栄えるであろう。自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である。」
と言って姿を消しました。

厚木 徳川家康は当寺を訪れた際の後に改称「松石寺」

 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならべて」-(家康)
 当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。
 このお寺の裏山(華厳山)には四国八十八ヵ所を模した石仏群がある。この造立に当たり、江戸、武州各郡、駿州まで寄進を集め、また、近くに七沢石を産し、七沢、煤ヶ谷に多くの石工がいたためつくることができた。しかし、現在(1972年)では風雨、地震なのにより倒壊、損壊したものが多く、その順序もよく判らない。

尾道 日限(ひぎり)地蔵尊「大山寺」

 心願成就の日限(ひぎり)地蔵尊として日を限って日参し、一心にお願いすれば願い事がかなえられます。特に受験シーズンになると合格祈願のため大勢のお参りがあります。

 鎌倉にある安養院にも石造地蔵菩薩の像が安置されていて、「日限地蔵」の別名で信仰されている地蔵様があり、こちらでは「定めた日数内に願い事をかなえてくれる」とされています。

福山 子授け・安産.航海安全祈願の「阿武兎観音」

★おっぱいがいっぱい

 階段を上りきると、観音堂に到着。外側の欄干へと顔を出してみると、瀬戸内の海が間近に眺められます。その際、ちょっとひやり、床板が傾いているのでご注意を!
 一方、観音堂の中を眺めると、そこには、壁一面に、奉納された“おっぱい絵馬”が飾られています。安産や子宝を願う女性たちの想いには、胸を打たれますね。

鎌倉  もとは鶴岡八幡宮寺だった「鶴岡八幡宮」

 源頼朝が現在の場所に移し、武家政権を守る神社として大事にされ、寺院としての性格を持っていました。若宮・本宮・丸山稲荷は国重文です。

 1191年3月4日、小町大路あたりで発生した火事で全焼、そこで頼朝は、一段高いところに本宮を、下に下宮の二段構えの境内を構築した。当たりのには鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心にしました。
 その後も、たびたび火災や地震、津波で被害を受けてきたが、そのたびに再建の努力がされてきました。

尾道 お茶子娘の供養かんざし燈籠「八阪神社」

 この神社のお祭りで、勇壮な喧嘩神輿の三体廻しが、渡し場、中央桟橋前、浄土寺下の三ケ所で行われていました。昔は非常に激しく、御輿を海に投げ込んでいる場面がありましたが、いまはどうなっているのでしょうか?
 この付近は、「新街」と呼ばれる飲み屋街。横道に入り込むと「迷路」です。しかし、どこかで広い道に出ますので、まあ、なんとかなります。しかし、酔っ払っているとどうなるかな?
 志賀直哉が尾道に住んでいた頃は、この界隈を遊び回っていたのかな?
 尾道の花街の人通りの激しい店先で、酒臭い乞食坊主が寝ているので迷惑この上ない。その人が俳人の種田山頭火であったとか。

厚木 かっては石神社と呼ばれた「荻野神社」

句碑 「大空は 蓋ふたも實ももなし ほととぎす」
 「蟹殿洞々(かにどのとうとう)」作
 荻野の俳人・蟹殿洞々は、明和4年(1767)に上荻野村に生まれた。俳人の五柏園丈水に師事したが、丈水の没後は嶋立麾系の俳人たちと親交を結んだ人です。
 荻野神社の社殿の西側約5mのところにあり、樹齢約600年推定され、高さ約30mもある大木です。古くから御神木として扱われ、多くの天災に遭遇しながらも生き続けています。