寿永二(1183)年、平家福原都落ちの際、病死した重盛の二男・資盛は、一族より離れこの地を訪ね、亡き父の菩提を弔うため五、六日逗留した。平貞能、京より重盛公の遺髪を持参し、五輪塔を建立し盛大なる法会を営む。
建武二(1335)年、小松寺は盛大となり、草谷(くさのたに)一帯の山麓を占め、伽藍も盛大だった。
延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。
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欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。
伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。
欽明天皇二十八年(567)に、国中が天候不順で五穀が実らず人々が困窮していた。欽明天皇がト部伊吉若日子に天災の原因を占わせると、賀茂の神々の祟りだと分かった。そこで賀茂県主家が四月吉日を選んで馬に鈴をかけ、人は猪頭をつけて駆競をすると天候は回復して五穀は実り、人々も平穏を取り戻したという。このときから、水を司る竜神として、恵みの雨を降らし、また水害をもたらす雷神が注目されました。
雷神は人びとを恐怖のどん底に突き落とす崇り神の象徴となったのですが、逆に、雷が落ちなければ豊作は望めないという信仰がありました。
最近、科学的にも雷は稲の実りを良くすると言われています。
1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
「浄土宗」は、誰でも悟りに至ることができる教えで、自分の力だけでは無理でも、阿弥陀仏の力を借り、阿弥陀仏が私たちのために用意いただいた極楽で修行するなら、私たちでも悟れるであろう、という教えです。
では、その阿弥陀仏とはどのような仏かと申しますと、私たちのような修行に堪え得ない普通の者を救おうとして修行を積まれ、仏となられた方です。
多くの仏の中で、特に阿弥陀仏に依るのは、まさに阿弥陀仏が私たちのような凡夫を救おうとされているからといえます。阿弥陀仏は、どこにいる人にも届く救いの光明を常に発し続けておられます、と。
ここは第十四代仲哀天皇の時代に始まりましたが、ちなみに初代の天皇は神武(じんむ)天皇が即位したんが紀元前660年。 この神武天皇が即位した年を「神武天皇即位紀元」とした「皇紀(こうき)」という年号が戦前まで使われていました。
西暦2020年は皇紀2680年となり、日本という国は2680年の歴史があるということで、これは世界で一番長く続いている国ということです。
現在の沼名前神社は、明治に渡守神社(わたすじんじゃ)・鞆祇園宮(ともぎおんぐう)を合祀し、『延喜式』神名帳の記載にならって「沼名前神社」と改称したものです。神社側では、渡守神社が『延喜式』神名帳所載の式内社で、同社が現在に至るとしています。現在の祭神二柱(大綿津見命・須佐之男命)は、それまでの各社の祭神です。
開山は行基(668~749)と伝えられ、本尊は薬師如来です。源義経(1159~1189)が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があります。
元暦2年(1185年)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。
石段を上ると、「龍護山」という額が掲げられた山門があり、柱には「義経腰越状旧跡満福寺、と書かれた看板があります。山門をくぐると、正面に本堂、左横に盧婁があります。
「新編相模国風土記稿」では、山号は海老山万蔵寺とされています。
本尊は、木造虚空蔵菩薩坐像で脇侍として不動明王像と毘沙門天像が安置されています。本尊は、作風から室町時代末期から桃山時代頃に造立され、元禄14年(1701)に江戸の仏師・石見によって修理された記録が残っています。不動明王像と毘沙門天像は、元禄14年(1701)に仏師・石見によって造立されたことがわかっています。
また、大山寺(伊勢原市大山)の鉄造不動明王を模して江戸時代に鋳造されたと考えられる銅製不動明王坐像があります。この不動明王坐像と同鋳造と推i定されるものが西善院(寒川町宮山)ほかにもあることから大山信仰によって流布されたものと考えられています。
この他、貞享5年(1688)に修理された記録が残る木造地蔵菩薩半珈像があり、作風から江戸初期に造立されたと考えられています。
弘口牛大徳が開山、藤原広政が開基となって天平勝宝6年(754)に創建されたと伝えられています。
(「自然と歴史のさんぽみち」(海老名市教育委員会発行)より転載)
天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
なお、境内には、宮城道雄(「春の海」(箏と尺八)の作曲家・箏曲家)の先祖墓がある。
宮城道雄は、鞆の浦の情景を奏でる旋律[春の海]を作曲しました。この曲は、正月の定番メロディーとして知られる琴の名曲です。宮城道雄は盲目だったのですが、瀬戸内の情景をイメージし、1929(昭和4)年、35歳の時にこの曲を作りました。
目の見えない宮城道雄は、「私の夢は声や音ばかりだ」と言っていました。彼の夢は、映像として訴えてくるものがないかわりに、ストーリーのある音の連なりだったようです。
入母屋造、瓦葺で、中央後方の部屋が仏間になっている。一番の特徴は、幅の広い縁側(広縁・ひろえん)の上に、ー枚ものの板をとりつけた鏡天井を設け、虹梁(こうりょう・緩やかな弧をえがいた梁)と桁でその天井を支えている点である。全体的に非常に簡素な造リだが、江戸時代の時宗本堂の遺構としては全国的にみても貴重である。
本堂の西側にある「三ツ首様」は処刑された盗賊の首をまつったもの。1828年の頃、尾道地方に想兵衛・亀蔵・利助という三人の盗賊がいたが、一風変わった連中で常に貧者に施しをしていた。
三人が捕らえられ処刑された夜、この寺の住職勘応の夢枕に三人の霊が現れて、「我々三人の首を埋葬供養されたら、首より上の病を癒すであろう」と告げたので、住職は三人の首を請い受けて本堂の横に埋葬し、三人の戒名を刻んでねんごろに供養した。それから霊験まことにあらたかであるので「三ツ首様」はお香の煙が絶えない。
海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺である。この寺は、1253年に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが1333年5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。
1394年4月、足利氏満の命により上杉氏定が再建し、源翁(げんのう)禅師を開山に招いて菩提寺とした。
創建の頃、毎夜近くの山麓から悲しげな赤子の声が聞こえ、声を頼りにその場所に行くと、古い墓石があり、その下から鳴き声が聞こえるようで、しかも、まわりには金色の光がもれ、芳香が漂っていた。墓石に袈裟をかけ、読経すると鳴き声はやんだ。翌日、その墓所を掘ると、薬師如来の頭部があらわれた。
この頭部を、新しく造立した薬師如来像の胎内におさめ本尊とした。61年ごとに胎内像をを公開しています。
夏の満月の夜、このあたりに来てみるのも一興かも。
持光寺の石の門(延命門)
「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高さ2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。
付近の古老のはなしでは、門の上に柱をたてるためのものであろう穴が数個あったと聞かされ、梯子を借りて屋根まで登つたが、薄くセメントがはられ穴の確認はできなかつたが、おそらく天寧寺などで見られるように鐘楼門にする計画であったのが石の基礎だけ出来あがったところで挫折したのであろう。
海岸山千手院福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されています。座敷からの海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残しています。
朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。
江戸時代には、1811年まで12回、朝鮮通信使が日本を訪れている。その中心のメンバーは外交担当の役人や武官だが、さまざまな随行員も含めると、毎回なんと約400人もいた。
彼らは、対馬や壱岐から瀬戸内海を通って大坂・京に入り、名古屋を経由して東海道を行進して江戸に到達した。
今年(2025年)3月末で、135年の歴史を閉じることになりました。
【概要】 尾道駅前広場の東端付近から少し東に行くと、向島の小歌島(おかじま)とを結ぶ航路があります。3つある航路の中で最も運賃が安い渡船でもあります。尾道側桟橋入口の赤く塗られたゲートが特徴です。
【運賃】 ・旅客運賃:大人60円,小児30円
・自転車(手荷物扱い) +10円
※大人のサイクリスト1人 → 旅客運賃60円+自転車代10円=70円
【支払い方法・場所】
・歩行者、自転車の方の支払いは向島側桟橋入口にある料金所で行います。
・原付・バイク・自動車の方は船上で集金係りの人が集めます。
【ダイヤ】・月曜日~土曜日:6:30~20:00 運航(約10分間隔)
・日曜日:終日運航休止
になっているようです。(変更されますので、注意!)