鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

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祭神菅原道真公。
 菅原道真は、日本の学者の元祖の中の一人で、一流の政治家として活躍し右大臣にまでなった。33才の時には文部省次官クラスの地位と文章博士の位を得た。父祖以来の私塾である「藤原廊下(東大と京大を一緒にしたようなもの)」を引き継ぎ、そこの学長になった。
 57才の時、突如として右大臣の職を引き下ろされ、九州の太宰府へ追いやられた。その2年後に死んだのですが、死後のもてはやされぶりは異常です。すぐに元の官位に復し、90年後には正一位・左大臣、その半年もたたない内に太政大臣が送られました。


尾道を代表する観光の寺「千光寺」

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 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。


鎌倉 新田義貞が戦勝を祈願した「小動神社」

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 小動(こゆるぎ)の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。
 縁起によれば、源頼朝に伊豆配流(はいる)の時代から仕えた佐々木盛綱(もりつな)が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請(かんじょう)したものと伝えられています。元弘三年(1333)五月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。


福山 鞆 シーボルトも訪れた「医王寺」

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 医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
「医王寺」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。晴れた日の皐朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝日に出会うこともできます。

鎌倉 通称“銭洗い弁天”の「銭洗弁天宇賀福神社」

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 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の夢枕に、一人の老人が現われた。「西北の方向に仙境があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。そこは清浄な地で、福の神が住でおり、その水を使っている。その水は神の霊水である。この水を使って神仏を祀(まつ)れば、国内は平穏に治まる。われこそは隠れ里の主の宇賀神(うががみ)である」といい、やがて消えてしまった。
 翌朝、頼朝が西北のほうへ行ってみたところ、たしかに泉があった。頼朝はさっそくそこに宇賀神を祀った。すると国は平穏になったという。
 北条時頼が当社に参詣のおり、この水で銭を洗い、福銭としたそうです。その話から、銭を洗うと二倍にふえるという、いい話が誕生したらしい。


尾道 旅人の喉を潤してきた”延命井”の「正念寺」

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 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。
また、今も境内に滾々と湧く「延命水」は尾道随一の名水です。
「おどり念仏」を今に伝える当山は、まさに時宗の町寺というべき存在と言えるでしょう。
尾道市には奇跡的にも未だ六カ寺の時宗寺院が存在しております。

鎌倉 関東大震災の津波がここまで来た「延命寺」

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 下馬一交差点の近くにある浄土宗寺院。山号は帰命山。もと安養院末。開山は専蓮社昌誉能公。寺史は不明。北条時頼室の念持仏と伝える身代地蔵(裸地蔵)が有名で、江戸へ出開帳したこともある。なお、赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持したと伝え、義士の画像もあつたというが、いまはない。
 運慶作と伝えられる「木造地蔵菩薩立像」は、夫人の身代わりとなったことで夫人の守護仏とされている。裸形彫刻で普段は袈裟を纏っている。
 1923年の関東大震災では、滑川を遡上した津波がこの辺りまで来たという。


鎌倉 北条は一族が最後を遂げた「東勝寺跡」

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 東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府の三代執権・北条泰時が創建した寺院。1333年5月22日、新田義貞鎌倉攻めの時、新田軍が、若宮大路まで迫ってきた事を知った北条は一族郎党870名余りとここに立て篭もり、火をかけて最後を遂げた。鎌倉幕府滅亡の地。
 寺はその後、直に再興され、室町時代には関東十刹の第三位に列する名刹となりましたが、戦国時代には廃絶しました。


尾道 中世時宗寺院の遺構が残る「常称寺」

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 鎌倉時代の後期の正応年間(1288~1293年)に、時宗二祖真教上人によって創建されたと伝わる古刹である。神奈川県藤沢市清浄光寺を本山とする。 1340年に足利尊氏が七堂伽藍を建立するも、本堂だけを残して焼失、その後再建と焼亡を重ね現在に至る。
 現存の本堂は、室町中期の建築で、外観を和洋、内部構成を禅宗様とし、内陣・外陣と脇陣を一体空間とするなど、中世時宗の特徴をよく表している。南北朝時代の作、重要文化財「紙本白描遊行上人絵伝」が伝わるなど、多くの寺宝が現在に伝わっている。中世時宗寺院は全国的に遺存例が少なく、そのなかでも室町時代の遺構が3棟も残っている例は希少。


厚木 ヘビになった弁天様「浮島弁天社」

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浮島弁天社の由来
 明治初年のこと松下荻野山中藩士の企画により永い間水害をもたらした弁天様のある浮島を取り除く 爆破が無じ成功したがその直後不思議や弁天様の化身が現れた早速上依知村中が協力して当社を建立し弁財天を祀り 村の平安を祈念したのである。


鎌倉 災難から日蓮を救った白い猿「長勝寺」

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 この地は、日蓮にかかわりのある本圀寺(ほんこくじ)の旧地といわれています。この地の領主石井長勝が日蓮に帰依し、日蓮が伊豆に流され、そこから許されて鎌倉に戻ったとき、自分の邸内に小庵を建て日蓮に寄進したのが、本圀寺のはじまりといわれています。本圀寺が室町時代の初期に京都に移って、この地が廃寺になったのを日静が復興し、山号と寺号をもとの開基である石井長勝の名にちなんで、石井山(せきせいざん)長勝寺と名付けられたと伝えています。


尾道 夜空を焦がす花火「住吉神社」

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 1740年、尾道の町奉行に着任し広島藩の平山角左衛門《名誉市民》は、翌年の1741年に住吉浜を築造し尾道発展の基礎を築いた。その際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。
毎年旧暦の6月28日前後(7月の終わり頃)の土曜日、平山奉行の功績を称えると同時に、商売の繁盛と海上交通の安全を願ってをおのみち住吉花火まつりが行われます。

鎌倉 一番古い神社だった「甘縄神明宮」

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 俗に甘縄神明と呼ぶ。祭神天照大御神・配祀倉稲魂命・伊邪那美命・武饗槌命・菅原道真。例祭九月十四日。元村社、長谷区の氏神社。社伝では天平年中の勧請という。
 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』によると、和銅三年(710)八月行基の草創。染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建て、のち源頼義が相模守となって下向した時、平直方の女を娶り、当社に祈って八幡太郎義家をこの地で産んだと伝える。直方は時忠の婿であった。


尾道 町の北鬼門の鎮護として存立「向上寺」

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 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。
 向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。


厚木 霊水の湧き出る白山池がある「白山神社」

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 昔より雨乞に霊験著しい池があり、 この池は、干ばつの時でも、池の水が涸れることがなく、 それ故、人はこれを霊地と唱え、ここに古い石像、石碑が残存しています。
 むかし、行基和尚がこの地に来て、この山に登り、 この池を見た時、霊水の湧き出る清浄な霊地であることを発見して、 この山を霊地と定め、楠木をもって霊御形を彫刻し、加賀国白山妙理大権現(石川県石川郡に鎮座)を勧請したとあります。


鎌倉 「北条義時法華堂跡、大江広元の墓」

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法華堂跡
 1247年6月5日、三浦対北条・安達の宝治の乱のおり、三浦泰村は館を攻められ、一族を率いて、この法華堂に立て篭もった。北条時頼の兵に攻められ、終に泰村、光村以下の三浦一族と此れに加担した島津、毛利を含めて500人が、この法華堂で自害した。


鎌倉 宮内省よりの下賜金で造営「葛原岡神社」

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 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 明治天皇は日野俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、1884年勅旨をもって従三位を追贈され、1887年に最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われた。


尾道 子どもたちを追い回す神事「吉備津彦神社」

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 寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。
 神輿と獅子頭を先頭にベタ・ソバ・ショーキーの三鬼神が市内を練り歩き、子どもたちを追い回す神事。「ベタ」「ソバ」が持っている「祝棒」で突かれると子宝に恵まれ、「ショーキー」が持っている「ささら」で叩かれると頭が良くなるとされ、子供達は「ベッチャー、ベッチャー」とはやし立てる。江戸時代に流行した疫病退散祈願から始まった西日本有数の奇祭。


尾道 山王さんのお使いは猿「山脇神社」

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 興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配なのですが、先述の如く、この祭神が猿を従使とする特色を持ったことからきた庶民の機知の反映でもあるのでしょう。


鎌倉 松葉ヶ谷霊跡「安国論寺」とも言う

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 長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。
 開山は日蓮とするが、弟子の日朗が1260年に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。
 日蓮上人の鎌倉草庵の地。