尾道 信長を呪い殺す“調伏”が行われた「西国寺」 西国一の大寺。今、徳島大学の学者グループで、この寺の「古文書」が解読されている。その中で、織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた、とあるとのこと。 パワハラ信長は、部下から将軍としての能力に疑問を持たれ、また、覇権を競う他の武将からも、将軍にふさわしくないと考えられていたのだろうか。
鎌倉 護良親王の偉勲をたたえる「鎌倉宮」 (別称:大塔宮) 祭神:護良親王(後醍醐天皇の第一皇子) 明治天皇は、哀しい最期をとげた護良親王(武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王)の功の偉勲をたたえるべく、神社造営の勅令を発し、東光寺跡に1869年7月創建された。
厚木 その昔、草競馬の催された「長谷寺」 飯山の隠し鐘(小鮎地区) 飯山の観音様の釣り鐘は、昔、霊験あらたかなお坊さんが造ったもので、板東でいちばんありがたい鐘であるといわれています。この鐘の音を開く者は、みな心を洗われる気がします。病人もこれを聞いて一生懸命信心すれば、病はたちどころによくなりました。
鎌倉 極楽寺駅から成就院へのみち 現在のように完全舗装されたのは1961年度。それ以前は砂煙り濠々として、バイクや徒歩で往く際は目つぶしを食い、凸凹で危険きわまりなかった。 大正十年に自動車が通るようになったというから、実に六十五年間も未舗装であって、いわゆる。道路予定地。だったというわけである。今は50ccのバイクでもスルスルと登ってしまい、何の苦労もない。
尾道 処刑された盗賊の首を祀った「海福寺」 「三ツ首様」は処刑された盗賊の首をまつったもの。1828年の頃、尾道地方に想兵衛・亀蔵・利助という三人の盗賊がいたが、一風変わった連中で常に貧者に施しをしていた。 同じような伝説に、鼠小僧の義賊伝説があるが、鼠小僧は、江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯で、賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになったと伝わる。現在の定説は、「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」となっている。
厚木 元は真言宗の乗碩寺だった曹洞宗「松石寺」 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならへて」-(家康)
福山 鞆 潮待ちの港だった「鞆港」 鞆の浦は、『万葉集』の大友旅人の歌にも詠まれた、全国でも最古の長い歴史を持つ港町で、鎌倉・室町にも江戸時代にも大いに栄えた大都市でした。靹の浦の「鞆」とは、弓を引ぐときに手首に巻いた丸い革製の防具のことで、半円形に巻き込んだ海岸の地形が、鞆に似ていることから名づけられたといわれまます。江戸中期頃まで、船の航行能力はさほど高くなく、潮の干満を利用しながら沿岸近くを航行するのが一般的でした。そのため、瀬戸内海のほぼ中央に位置する靹の浦は、干満による強い潮流を応用した航法における「潮待ちの港」として、最も重要な港町でした。
鎌倉 鎌倉七切通の一つ「化粧坂」 鎌倉市扇ガ谷・山ノ内・梶原・佐助鎌倉から藤沢や武蔵方面へも通じる重要な切通道で、中世のやぐら群などがあり、1333年(元弘3年)の鎌倉攻めの際には鎌倉方の防御の拠点となりました。 この仮粧坂は鎌倉七切通の一つで、今も昔の面影を残し、国の史跡になっています。
尾道 戦国武将の加藤清正を祀る「妙宣寺」 幕末の風雲急を告げる1867年の末、芸州藩は片岡大記を大隊長とする一個大隊を派兵し、この寺を本陣として尾道を鎮め東の福山藩に備えた。この寺は尾道地方に数少ない幕末維新の史跡である。
鎌倉 日蓮の鎌倉での布教の中心の跡「安国論寺」 長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。 日蓮が鎌倉に来て初めて道場とした岩穴を御法窟といい、『立正安国論』もここで書いたといいます。昔は「日蓮窟」と呼んでいました。
福山 鞆 神功皇后の妹が祭主として奉任「淀媛神社」 神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊しました。帰路携帯していた「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として奉任させました。その神社が沼名前神社(渡守神社)の起源です。数年後に淀姫命は鞆の浦を去りましたが、後世その特を偲び氏神として奉斎し、鞆の浦湾の入口の丘の上に鎮座する護り神として現在に至ります。
福山 岬の岩頭に建つ観音堂「阿武兎観音」 岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、その美しさから安藤広重(歌川広重)の浮世絵や志賀直哉の「暗夜行路」などにも紹介されており、今も瀬戸内の自然と調和した見事な景色をつくり出しています。現在、観音堂は国の重要有形文化財に指定され、安産・子育ての観音様として信仰を集めています。
厚木 日本三体地蔵尊の一体「子合地蔵尊」 『子合地蔵牌山来記』によると、この地蔵尊は、八幡太郎義家の六男・森冠者義隆に縁のあるものといいます。保元・平治の乱の折、義隆は妻子をおいて相模国毛利荘荻野郷に落ちてきました。義隆の死後その終焉の地に参ろうとこの地にやってきたのは、義隆の遺児の僧・浄慶でした。浄慶は、子合に住まっていた義隆の郎党・毛利のもとを訪ねました。主計は、義隆追善のため上京、河内国(大阪府)壷井にて義隆縁の地蔵尊をいただき、郷里・荻野郷子合に戻り、浮慶に託して、義隆公三十三回忌の法要を営みました。その折に建立したのが、子合地蔵尊です。
福山 鞆 朝鮮通信使の常宿としても利用「正法寺」 1598(慶長3)年に創建された臨済宗の「正法寺」。京都の東福寺派・守意を開祖とした400年の長い歴史を持つお寺で、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用された名刹です。 境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されていますが、実はもうひとつ、隠された十六羅漢があるのです。それが、奥座敷にある十六羅漢の屏風絵です。この水墨画は、鞆の絵師・門田勝人さんの筆によるもの。ふたつの十六羅漢、ぜひ鑑賞したいものです。また、お寺の鬼門の北方には、毘沙門天も安置されています。
鎌倉 蛇に化けた若狭局を祀る「蛇苫止堂」 若狭局を祀る社 源頼朝が1199年に死ぬと、1202年、子の頼家が18歳の若さで将軍となった。しかし、経験と統率力に乏しかったため、御家人の信望を得られず、幕府の基礎を危うくするかに思われた。そこで頼家の母(頼朝の妻)北条政子は、将軍がすべてを決済する従来の方針を改め、有力御家人13人による合議体制を採用し、政子の父時政がその中心となって活動した。 すると、それに不満な源頼家は、比企能員と共に北条征伐を計画する。 北条時政は、比企能員を自宅に招いて暗殺、比企ヶ谷の比企一族は、北条義時らに攻められ滅ぼされた。また、源頼家を伊豆の修善寺に幽閉した。 蛇苦止明神は妙本寺の守護神となっています。
海老名 江戸時代初期に創建されたか「龍昌院」 この辺りの伝説[彦六ダブ] 昔、下今泉の鶴松に彦六という働き者で親孝行の若者が住んでいました。年の暮れのある日、彦六は正月用の門松を切りに、鳩川沿いの松林へ出かけました その日は、買ったばかりの新しいナタを持って行き、手ごろで形のいい松を探して歩きました。なかなか適当なものが見つかりません。ふと、ふりかえると、さっき見たはずのあたりに素晴らしく形のいい松が立っているではありませんか。
尾道 ゆかりのある作家たち「文学記念室」 庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されています。 1912年~1928年かけて増改築され現在の形となっています。 福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開。 2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録されました。
鎌倉 日蓮にぼたもちを供養した「法源寺」 日蓮の孫弟子である日行が1318年(文保2年)に開いたと伝えられ、本尊は三宝本尊で日上人像とともにまつられています。 法源寺は、ぼたもち寺ともいわれ、桟敷尼(さじきに)が龍ノ口の法難の日蓮にぼたもちを供養したといわれます。大町の常栄寺にも同じ話がありますが、桟敷尼の実家が腰越だったといわれます。
鎌倉 日上人修行の「血の池」がある「妙隆寺」 山門を入ると、正面の本堂の右手には「血の池」と呼ばれる日上人修行の池があります。その奥には、日親石像を安置する日親堂があります。 日親が21歳のとき、「仏の教えを広めるためには、苦しみに負けないように修行しなければならない」と考え、百日間境内の池で水を浴びてお経を唱えました。それから、毎日自分の爪を1本ずっ抜き、出てきた血で墨をすり十界の曼荼羅をかいたそうです。そして、熱い湯の中に手を入れ、その湯がさめるまでお経を唱えたそうです。曼荼羅とは仏の世界や教えをわかりやすく図に示したものです。
尾道 長い入り江であった頃の伝説「磯の辨天神社」 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。【伝説 ひなじの仇討ち】】 尾道の港が千石船の出入りでたいそうにぎわっていたころ、町にはたくさんの遊女がおりました。遊女は疲れた旅人や船乗りたちを慰めるためにいたのです。多くの遊女は、貧しい親を助けるために働いていました。そのなかに、芸事にすぐれ小太刀をも習った「ひなじ」とういう遊女がいました。……