尾道 神聖な感じを受ける神社「艮神社」 艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。 同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
厚木 安達藤九郎盛長が勧請した「八幡神社」 八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。 建築年代ぽ残された棟札(むなふだ)から元禄3年(1690)とみられます。 朱塗りを基調として、彫刻や組物などは極彩色としています。
鎌倉 持仏堂があった所に「白旗神社(法華堂)」 白旗神社のある所は、源頼朝の館のあった大倉御所の北隅で、持仏堂があった所。頼朝の死後は、法華堂と呼ばれ、ここに葬むられていました。源頼朝の持仏堂であったことから鎌倉幕府の保護も厚く鶴岡八幡宮と並ぶ崇敬を集めた。 江戸時代末までは寺院として法華堂があった。明治維新に白旗神社と改められた。
尾道 飲み屋街の入口にある「八阪神社」 この付近は、「新街」と呼ばれる飲み屋街。横道に入り込むと「迷路」です。しかし、どこかで広い道に出ますので、まあ、なんとかなります。しかし、酔っ払っているとどうなるかな? 志賀直哉が尾道に住んでいた頃は、この界隈を遊び回っていたのかな? 尾道の花街の人通りの激しい店先で、酒臭い乞食坊主が寝ているので迷惑この上ない。その人が俳人の種田山頭火であったとか。
鎌倉 平政子(北条政子)が創建した「白旗神社」 白旗社については社伝によると正治二年(1200)白旗大明神の勅号を賜って、平政子(北条政子、北条政子という名は近世以降になってそう呼ぶようになったようです。1218年以降1225年までは、朝廷や寺社には吾妻鑑に記載されている「平政子」を名乗っていたと考えられる。)が創建、また源頼家の造立ともいう。 現在の祭神:源頼朝と源実朝 「天正修営目論見図」には本宮の西側に白旗社があり、明治十九年柳営社(源実朝)と合せて現在地に鎮祭した。
尾道 盗賊三人の首を祀っている「海福寺」 1320年(1328年とも)遊行二祖上人の弟子、他阿上人の開基。本尊は阿弥陀如来。 入母屋造、瓦葺で、中央後方の部屋が仏間になっている。一番の特徴は、幅の広い縁側(広縁・ひろえん)の上に、ー枚ものの板をとりつけた鏡天井を設け、虹梁(こうりょう・緩やかな弧をえがいた梁)と桁でその天井を支えている点である。全体的に非常に簡素な造リだが、江戸時代の時宗本堂の遺構としては全国的にみても貴重である。
鎌倉 隠れキリシタンに門戸を開いた「光照寺」 1282年 鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行(おそらく尼を引き連れ、乞食同然の姿)は鎌倉につながる関所を守る武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街道筋に一夜の野宿をした、その野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺で、一遍上人法難霊場となっている。
鎌倉 佐竹氏代々の居住地にある「大宝寺」 室町時代の1399年(応永6年)佐竹義盛が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けたといいます。それがこの大宝寺の前身で、その後、廃寺になっていたものを、1444年(文安元年)、本覚寺を開いた日出(にっしゅつ)が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺に改めたと伝えられています。 本堂には、本尊の三宝本尊と四菩薩像、その前に日蓮上人像、左側に開山日出と新羅三郎義光の像、右側に出世大黒天と鬼子母神像などがまつられています。
尾道 かたい門は「持光寺」 持光寺の石の門(延命門) 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高き2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。
鎌倉 孟宗竹林の竹の庭「報国寺」 1334年(建武元年)、足利尊氏の祖父蒙蒔が開いたといわれていますが、宅問(たくま)上杉氏の祖とされる重兼が建てたという説もあります。 開山は、仏乗(ぶつじょう)禅師ともいう天岸慧広(てんがんえこう)です。中国に渡り修行を積んだ高僧で、五山文学の代表の一人に数えられています。 報国寺は、足利氏と上杉氏の菩提寺として栄え、5kmほど先の衣張(きぬばり)山まで境内に含むような大きなお寺でした。足利持氏の子義久が永享の乱で自殺したのはこの寺です。
厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して正福寺となった。 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。 律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
福山鞆 「こがらっさん」と親しまれる「小烏神社」 小烏神社は、地元の人たちから「こがらっさん」の愛称で親しまれている神社。福島正則が鞆の浦の城下町を整備した際に、鍛冶工をこの地域に集めて鍛冶屋町を造りました。その中心にあるのが小烏神社です。創建の年代はよくわかっていませんが、室町時代の後期に、鍛冶を生業とする人たちが、氏神様として祀ったのが起源ではないかといわれています。
鎌倉 夢窓国師が瑞泉院を建立、その後「瑞泉寺」 開山は夢窓国師(疎石)で、1327年(嘉暦2年)二階堂道蘊がこの地に瑞泉院を建てました。この後、南北朝の時代に最初の鎌倉公方となった足利基氏は夢窓国師に帰依して瑞泉寺と改め、1350年(貞和6年)に亡くなると、瑞泉寺に葬られました。以後鎌倉公方代々の菩提として栄え、関東十刹に名をつらねました。 発掘調査により復元された初期禅宗庭園は、日本庭園の源流の一つで、国名勝です。
尾道 むかしは入江だった「磯の辨天神社」 磯の辨天神社尾道市久保一丁目 標高:7.6mウォーキング地図へ 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。
鎌倉 四季花が絶えない美しい庭「光則寺」 1274年の創建。開基は北条氏の家臣・宿谷光則(やどやみつのり)、開山日朗上人。 開基の宿谷光則は、日蓮が佐渡に流罪になったとき、ともに捕らえられた日蓮の高弟日朗を幽閉し監視する任についたが、日朗は自らの不運を嘆くことなく、弟子の案ずる姿に心打たれた光則は、後に日蓮宗に帰依し、屋敷を寺にしたといわれる。 1650年建立の本堂の中には非公開ではあるが、日蓮、日朗の坐像が安置され、境内の後山には日朗が幽閉されたという土牢跡が残っている。
尾道 応神天皇が海から上がった「亀山八幡神社」 応神天皇が即位22年(西暦291年)に淡路・播磨・小豆島を経て、尾道の当地に巡幸されたといわれている。海辺に玉子に似たひかり輝く石を御覧になり、亀の形をした小さな丘で休息。当地の里人はこの地に祠を建てて聖地として崇敬したとされている。 神社としての創建は貞観年間(859年~877年)と伝わる。当地は京都から宇佐八幡に勅使を派遣する際のご参詣及び宿泊の地となり、当地を亀山八幡宮として祀ったという。 境内には一対の灯篭「軍配灯篭」や手水の水盤の牡丹の彫刻が見事とされている。
鎌倉 北条氏の氏寺であった「浄光明寺」 北条氏六代執権・北条長時が1251年に創建して、浄土(諸行本願義)、真言、華厳、律の四宗兼学の寺として、開山に真阿(真聖国師)を迎えた。真聖国師は法然からつづく善導大師本願の弟子であったので、創建当時は浄土宗の寺でした。 1335年、一時足利尊氏がこの寺に引き篭り、後醍醐天皇に対し挙兵する決意を固めたという。尊氏、直義兄弟の帰依は厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進などが行われたことを書いた古文書が残っています。
生口島 島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願「向上寺」 1400年 生口守平の開基、臨済宗仏通寺派 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建されたのに始まり、向上庵と号した。一旦衰退したが、江戸時代に入り1609年 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた。 向上寺は町の北鬼門の鎮護として存立し御本尊聖観世音菩薩は、今日まで町 の災障を防除し、古来島の災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺。 臨済宗 仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和 尚(1323~1409年)を迎えて開きました。
鎌倉 祇園天王社と呼ばれていた「八雲神社」 鎌倉最古の厄除開運の神社。平安末期に疫病が流行。その時に、源義光が京都祇園社の祭神をここへ勧請したのが始まり 古くは祇園天王社・祇園社と称したが、明治維新に八雲神社に改称された。 1080年頃に大発生した黒蜘蛛が疫病を蔓延させたが、当時「蜘蛛は益虫」とされていたため駆除ができなかった。 そこに中央より新羅三郎義光(八幡太郎吉家の弟)が、「朝見た蜘蛛は逃がせ、夜見た蜘蛛は殺せ」というスローガンをかかげ、多くの蜘蛛を焼き殺し駆除に成功した。その後、蜘蛛のたたりを恐れ神社が建てられた。当初「焼蜘蛛神社」では気持ちが悪いため、間もなく「祇園天王社」と改められ、その後、「八雲神社」になった。
尾道 のんびりとした船旅「駅前桟橋」 島々に行く船が出ています。 前の島(向島(むかいしま))への渡しの乗り場が、一番東に独立してあります。 「尾道~因島~生口島」方面、「尾道~百島~常石」方面の船が出ています。 他に、春から秋までですが、「尾道~鞆の浦」への船が、土日に運航しています。 戦国時代から江戸時代の初め、尾道は歴史の上で逼塞(ひっそく)していたのですが、時代が平穏になって西回り航路が開かれ、北前船が入ってくるようになると商業のまち尾道はまた活気を取り戻します。ただし、尾道の自前の船があちこちに出掛けたのではなく、 寄港する北前船を利用することで繁栄したようです。