尾道 猿づくしの気配「山脇神社」 祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。 興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配です。
鎌倉 今宮神社ともいう「新宮神社」 境外末社で、今宮神社ともいう。むかしは、「魔境にて、天狗ここに住むという」と旧書に記される。当時は八幡宮の境内からだいぶ離れ、深い森林の中であったのでしょう。 祭神は後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇。「承久の乱」(1212年)の朝廷側の人物たちで、幕府は勝利をおさめ、後鳥羽帝を隠岐へ、順徳帝を佐渡に配流し、両帝ともその地で歿した。また、土御門帝はみずから土佐、のちに阿波へおもむいた。
尾道 浄土寺山鎖場下から(登山道経由)不動岩へ 鎖場の入り口の神社の前を過ぎ、狭い橋を渡り右に登ると、道は急になり、そのころから左右に点在する石の三十三槻音が稚拙ではあるが、ふと足をとどめさせ、単調な山道にうるおいをもたせひと息つかせる。 明治初期につくられ、境内にあつたものを、昭和四十五年の春観音にさいし頂上の峯の薬師まで適当な間隔においたもので浄土寺の新所を「観音こみち」と名付けてはと。「郷土の石ぶみ」(1973年 山陽日日新聞刊)より
鎌倉 海風がここちよい「小動神社」 小動の地名は、風もないのに揺れる美しい松の木「こゆるぎの松」がこの岬の上にあったことに由来しているという。別の由来では、この岬の鼻に枝を差し出した松があり、つねに海風に揺れていたため「小揺ぎの松」といい、それが地名になったともいう。
尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」 外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。 土居咲吾は長尾幸作と云い、開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父から洋学の優れていることを聞かされており、21才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学を、さらに25才、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。
尾道 墓地に猿の座像「福善寺」 守護大名山名宗全側近太田垣光景の子孫、但馬国城主太田垣因幡守の孫斐守が出家、名を行栄法印といい1573年尾道を訪れ久保町に道場を開き布教に勤めた。1630年現在地丹花の丘陵に寺を移し、本願寺直参末寺「一家衆」に加えられ旧九条関白家の菩提所格寺院となった。猿の座像 — 高さ65cmばかりの桃をかかえた日本猿の座像。剽軽な顔、肩から腰に流れる美しい線、軽妙なタツチ、石の街ではならの逸品。
尾道 童歌で“かたい門は持光寺”の「持光寺」 持光寺の石の門 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高き2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。(「郷土の石ぶみ」 明治31年5月10日創刊 山陽日日新聞社 より)
鎌倉 心おだやかに花散歩「長谷寺」 鎌倉時代以前からある古寺。736年の創建、開山は徳道(奈良長谷寺の開祖でもある)。坂東33ヵ所観音霊場の四番札所であり、本尊の十一面観音は高さ9.18mある。 寺の縁起によると、霊夢を得た徳道上人が721年に大和(奈良県)の初瀬で1本の楠から2体の像を造り、1体を奈良の長谷寺に、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと祈り海に流しました。 その16年後、三浦半島の長井の浜の漂着したものを現在の地に移し、長谷寺は創建されました。 むかしは、奈良初瀬の長谷寺に対して新長谷寺とよばれていいました。奈良の長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、この長谷寺とは宗派としてのつながりはありません。
鎌倉 本尊阿弥陀如来は運慶作?「教恩寺」 中座山大聖院教恩寺と号す。開山は知阿、開基北条氏康。もと材木座光明寺境内にあって、宝海山と号したともいう。本尊の木造阿弥陀如来并両脇侍菩薩立像は鎌倉時代前期の作品で、鎌倉市指定文化財。 本堂に安置されている本尊の阿弥陀如来は、運慶が刻んだものと伝えられていますが明らかではありません。
尾道随一の名水が湧く「正念寺」 時宗 来迎山引接院 正念寺 縁起 創建 天正二年(1574年) 開山 遊行三十一代 遊行上人 総本山 神奈川県藤沢市 遊行寺 時宗の開祖一遍上人の跡を継いだ歴代の上人は「遊行上人」と呼ばれ、全国を回って念仏の教えをひろめたので、各地に「時衆」と呼ばれる念仏集団生まれ、その遊場がつくられました。当山は第三十一代遊行上人によって闘かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発擢したといいます。
鎌倉 鶴岡八幡宮への参道「若宮大路」 鶴岡八幡宮の参道の「若宮大路」は、頼朝が妻政子の安産を祈願して1182年3月に整備したという。頼朝と政子のあいだには長女がいましたが、嗣子の誕生を祈り、堂々たる大路を海から鶴岡八幡宮へむけて、神をまねく通り道若宮大路を造ったのでしょう。 1182年(寿永元年)8月12日、幼名万寿、二代将軍源頼家が生まれています。 「段葛」とは江戸時代からの名称で、往時は置道(路)とか置石とか作道とよばれていました。
厚木 明治初年、町内の神社を合紀した「厚木神社」 現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょ)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。 承徳年中この地が、水害に合い現在の地に移されました。江戸時代に、毎年6月5日から12日まで大祭を行い、神輿(みこし)を相模川に入れ、水中渡御(とぎょ)の行事をおこなっていました。
鎌倉 室町時代、佐竹義盛が建てた「大宝寺」 室町時代の1399年(応永6年)佐竹義盛(よしもり)が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けたといいます。それがこの大宝寺の前身で、その後、廃寺になっていたものを、1444年(文安元年)、本覚寺(ほんかくじ)を開いた日出(にっしゅつ)が再興し、多福寺の名を山号に残し、大宝寺に改めたと伝えられています。 本堂には、本尊の三宝本尊と四菩薩像、その前に日蓮上人像、左側に開山日出と新羅三郎義光の像、右側に出世大黒天と鬼子母神像などがまつられています。
尾道 巨大なカラス天狗が住む「金剛院」 西國寺の仁王門をくぐり、西國寺本堂に通じる石段を登って行くと、ちょうど中間当たりの右手に金剛院があります。 金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っている。 永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物があります。
鎌倉 奥の岩屋に不動明王が「岩窟不動尊」 ここの堂守の僧が勝長寿院に参詣した帰り、路上で急死、84歳の命を落としたと「吾妻鏡」の1188年10月10日の記事にあるから、お堂がそのころにはあったようです。 今では個人宅にある社のようで、お茶屋(不動茶屋)なのかと思えます。お茶屋の奥にお堂があり、不動明王が祀られています。 窟堂(いわやどう)(岩窟不堂(がんくつふどう))は1184年(文治4年)からあり、今も奥の岩屋に不動明王がまつられています。窟小路(いわやこうじ)の道の名はこれによります。
鎌倉 元寇に対応した北条時宗を葬る「仏日庵」 北条時宗は公安9年(1284)に死去したのだが、その菩提はこの円覚寺の仏日庵に葬られた。 その後北条貞時の時代になり、円覚寺は朝廷から太政官符を与えられ、官寺の寺格を得ることになる。貞時の死に際しては法堂が完成し、法要が営まれた。建武・暦応年間(1333~1342)に描かれた「円覚寺境内絵図」には、総門から山門、仏殿などが中国の宋にならって一直線に並び、その隆盛を今に伝えている。(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著より)
厚木 武田信玄に焼かれたことがある「妻田薬師院」 妻田薬師は、もともと古義真言宗の白根山東光寺遍照院という別当寺が管理する仏堂で、古くから近隣の人々の厚い信仰を受けていました。薬師堂(市指定有形文化財) この薬師堂は、薬師如来を安置するための仏堂で、「新編相模巨t記稿」には、永禄12年(1569)、三増(愛川町)で武田信玄と北条氏との戦いがあり、その前に武田信玄によって焼かれたと記されています。 「文化財散策ガイドあつぎ」(厚木市教育委員会発行)より
鎌倉 徳川・蒲生家ゆかりの寺「薬王寺」 この地にはもとは真言宗梅嶺山夜光寺があったとされているが、日像が由比ガ浜でお経を百日間読誦する修行を行った際、寺が荒廃しているのを見て真言宗の住職と数日間宗教論争した末日蓮宗に改宗したと言われている。徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺であった、と。
厚木 奈良時代後期の創設「七沢観音寺」 観音寺は奈良時代後期、元正天皇の頃の創設と伝えられています。 元正天皇の時代、着物の着方を右前に統一する衣服令が出されています。衣服令は、遣唐使が唐から授けられた朝服を持ち帰り、717年正月10日に、その朝服を着て参内したのですが、それが右前でした。その直後、百姓の衣服は右前にするようにとの衣服令が出されたのです。参考までに、元正天皇は独身を通した女帝です。
尾道 地元でも見知らぬ石仏の山「竜王山」 尾道には竜王山と名がつけられた山が5つあります。この日比崎中学校の上にある竜王山は、地元の人にもあまり知られていないようです。「蔵王権現」を中心とした修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。急な石段で、しかも、その幅が狭く、枯れ葉などがあると滑りやすく注意が必要な場所ですが、石仏をひとつひとつゆっくりと見たいものです。