鎌倉 北条一族の霊を弔う「宝戒寺」

 

 このあたりは、鎌倉時代の執権であった、北条一族の中でも「得宗家(とくそうけ)」と呼ばれる北条氏本家の屋敷があったところといわれくいます。
 1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めにより、北条氏は滅んでしまいました。その後、1335年(建武2年)に北条高時をはじめとする北条一門の霊をなぐさめるため、後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの地に寺を建て、宝戒寺名付けました。

尾道 京からお連れした仁王さん「西国寺山門」

 寺の山門に怒った顔をして立っている仁王像は、ふつうペアをなしており、一方は口を大きく開き(それを「阿(あ)」形(ぎょう)といい)、もう一方は口をへの字に結んでいる(それを「吽(うん)」形(ぎょう)という)。
 仁王は金剛力士とも呼ばれ、仏法を守護し邪悪をしりぞけるために寺の入口に立っています。一体の仁王像もありますが、ペアの仁王像では一方は「阿」形、もう一方は「吽」形の姿で表現されます。山門に安置される仁王像は、向かって右に「阿」形、左に「吽」形というのが一般的です。

座間 山王大権現から改称した「日枝大神」

 当社の創建は、元亀年間(1570~1573)と伝えられています。
 創建者は織田信長に敗れた美濃国(岐阜県)の齋藤龍興(道三の孫)の遺臣四名で、この地を開拓し祭神を四ツ谷の氏神として祀ったと伝えられています。
 宝暦十三年(1763)に火災にあい、七十八年後の天保十二年(1841)に再建、棟札に「山王大権現」と記され、手水石や諏訪社の祠の奉納年号から見ると、社域もこのころから整えられてきたようです。

鎌倉 望みが絶たれた徳川忠長を供養「薬王寺」

 昔は梅嶺山夜光寺とい真言宗の寺でしが、1293年(永仁元年)日朗の高弟だった日像が開山となって日蓮宗に改められたと伝えられています。また、梅立寺とか梅嶺寺とかの名も伝わっていますが、江戸時代の初めごろ日達によって薬王寺と改められ再興されました。その後、徳川忠長が1633年(寛永10年)高崎で自刃しましたので、妻の松孝院殿(織田信長の次男信雄の娘)は、夫の霊を供養するためにこの寺に墓を建立し、多額のお金と広大な土地を寄進しました。こうしたこともあって、一時は3,000坪ほどの境内に五重塔やいろいろな建物が造られるほどの大きな寺になりましたが1720年(享保5年)にすべてが焼失してしまいました。

尾道 紫田勝家の弟?が再興した「法然寺」

 

 法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め、今から八百年余り昔)、その徳を慕われた後白川法皇のの皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。
 上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。

鎌倉 北条時宗公産湯の井「甘縄神明宮」

 「足達盛長邸址」の石碑のそばにある石の鳥居は特色ある神明鳥居です。石段の下に小さな井戸があり、「北条時宗公産湯(うぶゆ)の井」という札が立っています。時宗は松下禅尼の孫で、足達氏の邸で生まれています。
 江戸時代には甘縄院というお寺がそばにありましたが、明治になるとなくなりました。9月14日は例祭で、神輿や山車が出てあたりは賑わいます。
 急な石段を上ると甘縄神明神社の拝殿と、その奥に本殿があります。

尾道 西国寺伽藍配置で最南端部に造営?「熊野神社」

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西国寺山南先端部にある水尾町にある神社です。
 日本最古の伽藍様式の大阪四天王寺の伽藍配置でも最南端部に造営されているのが熊野権現です。 むかしの西国寺を想像した時、この配置にも何らかの意味があるのでしょうか。
 古く江戸時代から続く水祭りが復活したようです。旧水尾町(現久保)に伝わる夏祭りで、水細工人形を陳列し、水尾町の豊かな水源を慶ぶ熊野権現神社の祭祀です。からくり人形をで水細工の場面がつくられ、人形の手の先から水が噴水のように吹き出します。

鎌倉 空海が修行した霊跡「成就院」

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 平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師さま空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。
 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年~1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。
 本尊は縁結び不動明王として信仰されていますが、最近は恋愛成就の寺院として、また、学業成就、安産、身代わりのお守りが用意されている。

尾道 捨身往生の歴史がある「信行寺」

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 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜( 阿彌陀如来が法蔵比丘と称した修行時代に、一切の衆生を救うために立てた四八の誓願。無量寿経に説く、四十八の大願)念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。

厚木 血から生まれた剣の神を祀る「春日神社」

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1415年勧請、1706年再興。
祭神:武甕槌命(たけみかずちのみこと)
相殿:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)
 祭神の武甕槌命は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)の首を斬り落としたときに、流れ出した血から生まれた剣の神とされています。

鎌倉 吾妻鏡にも載っている「岩窟不動尊(窟不動)」

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 不動明王像は、仏像の中にはたいへん恐ろしい顔をしています。右手に剣を持ち、左手に羂索(けんさく)(縄)を持っています。その剣で煩悩(ぼんのう)を断ち切り、羂索で煩悩を縛り、人々を救う、ということです。
 不動明王は19の特徴を備えているとされていますが、その顔は他の仏像の顔と違って、左右が対称なっていません。右目は全開しているのに、左目は細く閉じています(ただし両眼を全開したものもあります)、右目では天を見、左目では地を見ているとされています。

福山 万葉集にも歌われた「昔の鞆の港」

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 室町幕府最後の将軍、足利義昭は毛利輝元を頼って、1576年に鞆に移りました。長期滞在となり鞆幕府とも呼ばれました。足利義昭がまだ鞆に滞在中である1582年6月2日に、明智光秀による本能寺の変で、織田信長忠が討たれました。
 その2年前には、織田信長を裏切った武将の荒木村重は、隣の港町尾道に滞在しており(1578年10月、突如、信長に対して反旗を翻し籠城したが、その後脱出し、1580年には尾道に滞在)、また、尾道の西国寺には、長宗我部が織田信長を呪った祈祷文と思われる文書が残っているとか。鞆の港は瀬戸内海の中央にあり、瀬戸内海に面した中国、四国、北九州の情報も多かったのでしょう。また、尾道の浄土寺には、伝書鳩を使った通信の技術もあったようです。
そういえば、江戸時代に大阪の米相場の情報を、伝書鳩を使って入手していた尾道の浄土寺の言い伝えでは、「源氏は伝書鳩を使うことができたが、平家は出来なかった」とか。戦争ではローマ時代から使われていた(中国でも使われていた)伝書鳩という通信手段が、日本の歴史の中に出てこないことは不思議ですね!

鎌倉 桓武平氏の先祖を祀っている「八坂神社」

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 八坂大神ともいう。祭神は須佐の素戔嗚尊(すさのおのみこと)、桓武天皇、葛原親王、高望王。つまり、桓武平氏の先祖を祀っています。(北条政子は平政子と称し、平家の一族です。)
 素戔嗚尊(すさのおのみこと)は「古事記」では、伊邪那岐(いざなぎ)命のみの子とされていますが、「日本書紀」では、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の間に生まれたとされています。
天照大神の弟。その凶暴さによって地上また高天原を追放され、根の堅州国、或いは根の国の主神となり、その途次、出雲国にて、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治、稲田姫と結婚して宮(神のいる御殿)を営みました。
また子とともに新羅に渡り、日本に植林法を伝えたという別伝もあります(「日本書紀」一書)。暴風神・農業神・英雄神など多面的な神とされています。

尾道 中世時宗の特徴をよく表している「常称寺」

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 鎌倉時代の後期の正応年間(1288~1293年)に、時宗二祖真教上人によって創建されたと伝わる古刹である。神奈川県藤沢市清浄光寺を本山とする。
 1340年に足利尊氏が七堂伽藍を建立するも、本堂だけを残して焼失、その後再建と焼亡を重ね現在に至る。 現存の本堂は、室町中期の建築で、外観を和洋、内部構成を禅宗様とし、内陣・外陣と脇陣を一体空間とするなど、中世時宗の特徴をよく表している。 南北朝時代の作、重要文化財「紙本白描遊行上人絵伝」が伝わるなど、多くの寺宝が現在に伝わっている。
 中世時宗寺院は全国的に遺存例が少なく、そのなかでも室町時代の遺構が3棟も残っている例は希少。

厚木 火を司る火之迦具土大神を祀る「秋葉神社」

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 秋葉神社は、火伏の神として全国に400社ほどあり、総本宮は静岡県にある秋葉山本宮秋葉神社です。祭神は火を司る火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)でです。明治までは秋葉大権現といわれる仏教寺院で、秋葉山三尺坊が信仰を集めていました。
 秋葉三尺坊大権現が火伏の神として全国的になるのは徳川綱吉の頃からで、秋葉山三尺坊が火伏に霊験あらたかとして宣伝されてからです。秋葉講が組織され、とくに火事の多い江戸では多くの秋葉講が結成されて、町の各所に秋葉山常夜燈が設置され、家々の軒下には秋葉大権現のお札が張られるようになりました。大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになって全国各地に広がっていきました。

鎌倉 鎌倉時代に広る熊野信仰「熊野神社」

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 創建年代は不詳ですが、応永年間(1395~1427年)及び永正年間(1504~1520)に社殿を再建したと伝えられ、隣接する浄妙寺が1188年密教寺院として創建していることから、1188年頃には創建されたものと推定できる。
 祭神は天宇頭女神(あめのうづめのかみ)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)です。

尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」

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 1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。  鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。

鎌倉 古色蒼然たる気配の寺「杉本寺」

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 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。
 光明皇后は夢の中で「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前と行基に命じて、財宝を寄付して734年の春、この寺を開いたと伝えられています。

相模原南区 石仏たちが集まる「長松寺」

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 鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
 1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
 1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。

尾道 俗に一宮さんといわれる「吉備津彦神社」

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 寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。
 第十一代垂仁天皇の時代のこと、朝鮮半島の百済からやってきた温羅(うら)なる鬼神が吉備(美作・備前・備中・備後、現在の岡山県と広島県東部)にたどり着き、住みついた。温羅は瀬戸内海を航行する船に海賊行為を行い、婦女を掠奪するなど、乱暴狼藉をくり広げていた。
人びとは恐れおののき、都に訴え出てきたので、朝廷は吉備津彦を遣わし、温羅を成敗したという。