鎌倉 天狗の姿をした「半僧坊大権現」

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 後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」(むもんげんせんぜんじ)が開いた方広寺(静岡県浜松市)が半僧坊の本元と言われています。
 無文元選は、父の後醍醐天皇が崩御した翌年の1340年に建仁寺で出家、その後、元に渡り福州大覚寺で古梅正友に参禅し、各地を巡拝した。日本に帰国するとき嵐にあい、そのとき、今にも大波に飲み込まれそうな船中で禅師が観音経を唱えていると、鼻が高く眼光の鋭いひとりの異人が現れました。この異人が「わたしが禅師を無事、日本にお送りします」と、船頭や水夫を指揮して台風を見事乗り切り、博多の港へと導いて姿を消したのでした。
 その後、禅師が方広寺を開くと、その異人が再び姿を現し「弟子になりたい」と願いました。禅師は「あなたは、半ば僧のようなところがある」と言われて弟子になることを許し、そこから「半僧坊」と呼ばれ修行に励むことになりました。

厚木 六斎市(門前市)が栄えた「法界寺」

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 北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
 (北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。)
 その後、近世初期、僧党誉の中興もあり壮大な寺容を誇り、六斎市(門前市)も栄えた。

鎌倉 太田道灌の屋敷跡に「英勝寺」

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 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」[文献]『市史』社寺編、小丸俊雄『東光山英勝寺』より)

尾道を代表する景勝地「千光寺山頂」

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尾道を代表する景勝地。
【千光寺公園の歴史】
 1894年(明治27年)より、四国・阿波国生まれの三木半左衛門(尾道市名誉市民)により「共楽園(天寧寺三重塔付近)」の開発が始まりました。
 その後尾道市への寄贈などを経た上、開発は尾道市が引き継ぎ1905年(明治38年)に完成。名前も共楽園から千光寺公園に改められました。
 山頂から広がる千光寺山公園は、「日本さくら名所100選」に選ばれています。(ソメイヨシノ、しだれ桜)
 公園内には「文学のこみち」があり、山道に点在する自然石には尾道にゆかりのある作家の詩が刻まれています。

鎌倉 首つぎのぽたもち伝説の「常栄寺」

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 常栄寺は「ぼたもち寺」とも呼ばれて親しまれているが、なぜそう呼ばれるかといえば、文永8年(1271)9月12日の出来事にさかもぼる。幕府に捕らえられた日蓮が、片瀬の龍ノ口で処刑されるされそうになると、日蓮に帰依していた棧敷の尼が、ゴマのぼたもちを日蓮に捧げた。すると、形状に雷鳴がとどろき、稲妻がひらめき、刑吏の刀が折れ、日蓮は一命を取りとめたと伝えられている。

尾道 興趣千変万化、奇岩、奇勝の「千光寺」

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 寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としない。
 興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。
 唐から空海が帰国したの806年、これ以降、真言密教が日本に広められた。ということは、806年に創建されたは??ですね。
 また、高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされています。

鎌倉 昔、多宝寺があった跡に「妙傳寺」

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 道路拡張によって東京都文京区白山にあったお寺を1974年2月に移転。
 紀州徳川頼房の祈願所として創建、戦災によって本尊、寺宝、寺史などを消失している。
 ここにはかって室町時代まで、律宗の多宝寺があった。裏山には石の造形物があるが、道が整備されていないようです。
 旧本尊は妙見北辰菩薩、現在は日蓮坐像。妙見北辰菩薩は 1945年(昭和20年)の戦災で焼失してしまったとのことです。妙見北辰菩薩は、源頼朝や日蓮が崇拝し、日蓮宗の寺院によくみられます。

尾道 信長を呪ったか?「西国寺堂」

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 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 ある日、尾道に立ち寄られた行脚の中の行基はその夜、加茂明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと言い伝えられます。
西国寺は平安時代の院政期より朝廷との関わりが深く、官寺として大きな影響力を持っていたと考えられます。
 荘厳な姿を山の中腹にとどめる金堂は、国の重文に指定されています。この金堂に安置されている薬師如来座像は本山の秘仏であり、三十年に一度の開陳が行われています。春の桜の季節は、境内一面の桜を楽しむことができます。

鎌倉 [おんめさま]の名で親している「大巧寺」

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 「おんめさま」(おうめさま)の名で親しまれている安産祈願の寺。創建は1320年と伝えられています。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになった。
 境内にて 季節ごとに多くの種類の花々がさきます。

鞆の浦 江戸時代創建の客殿「福善寺対潮楼」

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 海岸山千手院福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されています。座敷からの海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残しています。
朝鮮通信使とは、李氏朝鮮が1404年から日本に派遣した外交使節で、豊臣秀吉による朝鮮侵攻のあと途絶えていたが、1607年から再開された。

鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」

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 明月院を、多くの人が訪れるのは初夏の頃……紫陽花の咲く時分です。
 あじさい寺。の別称があるほど有名なこの寺のことですから、数百株の見事な、丹精こめた植え込みが、石の総門から始まって、老い朽ちた山門をくぐりだらだら上りに左折して本堂前の庭へくるまで、びっしりと左右に並んで夢幻のように花を咲かせます。
 まことに幽玄、閑雅、静識の極致。

鎌倉 五つの神社が一つに「五所神社」

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 この神社は、1908年(明治41年)に町内にあった三島(みしま)・八雲(やくも)・諏訪(すわ)・金比羅(こんぴら)・見女八坂(みるまやさか)の五つの神社を一緒にしてまつったものです。祭神は大山祇神(おおやまづみのかみ)・素戔嗚尊(すさのうのみこと)・建御名方命(たけみながたのみこと)・崇徳院霊(すとくいんのみたま)・天照大神(あまてらすおおみかみ)で、毎年6月の第2日曜には盛大な祭りが行われています。

愛川 田代の半僧坊と呼ばれている「勝楽寺」

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 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。
 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。
 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。

厚木 地蔵様の伝説がある「広沢寺」

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 ある雪の積もった朝、七沢の豆腐屋が家の前を見ると、山に向かって誰かの足跡が付いていた。「こんなに朝早く来た人もいるもんだ」と足跡をたどって行くと、広沢寺奥の地蔵堂の所でとまっていた。主人は豆腐を置いて帰ってきた。
 その夜豆腐屋の夢の中に地蔵様が現れ「私は及川村のある寺におった地蔵だが、及川村は豆腐屋がなくこの七沢にやってきた。これからも頼む、そのかわりこの村に来る疫病を追い払ってやる」村の人々はこの地蔵様を豆腐地蔵と呼び、毎日毎日豆腐を上げお参りし、みんな長生きをしたそうな。

尾道 小説「暗夜行路」に着手した「志賀直哉旧居」

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 現代人の幸せの求め方は、不幸感がなくても「幸せ、幸せ」と簡単にいっているような気がする。なぜだろうかと疑問に感じていたが、志賀直哉の言葉に
「幸福というものは受けるべきもので、求めるべき性質のものではない」と。
 そうなのだ。幸せとは求めて得られるものではない。だが、人に与えることはできる。ここに大きなポイントがある。
「逃げない男の生き方」川北義則著(PHP文庫)より

鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

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 菅原道真公を祀る天神社。日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)
菅原道真の死後、京都に伝染病が蔓延、雷の被害続出などの異変(“道真のたたり”と考えられた)を押さえるためだったのでしょうか。いまでも雷が鳴ると「くわばら、くわばら」と言う地域があります。桑原は菅原道真の領地、そこには雷が落ちなかったため、雷様に「ここは桑原ですよ」と教え、雷を落とさないよう願ったためだそうです。

鎌倉 正式名は由比若宮の「元鶴岡八幡宮」

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 元八幡は、相模守であった源頼義(よりよし)が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。
 元八幡は、源氏と鎌倉のつながりのできた初めです。この神社は、由比ヶ浜の八幡宮とも呼ばれていたようです。由比ケ浜の湾が、このあたりまで入り込んでいたといわれる当時の地形からみて、神社は海に面した海岸近くに建てられたと思われます。

尾道 路地にひっそりと「辨天神社」

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「弁才天・辯才天」
 奈良時代に日本に入ってきてからは、川の流れの音からの連想で音楽の神、美音天(びおんてん)、妙音天(みょうおんてん)、また大弁才功徳天(だいべんざいくどくてん)などと呼ばれた。
 最初は知恵、名声、解脱(げだつ)を求める者に功徳ありとされた。やがて鎌倉時代になると、在来の水(海)の神である宗像三女神の一人市杵島比売命と習合し、純日本的な神様へとイメージチェンジした。

厚木 社殿の前の白山池に棲む白龍「白山神社」

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 白山神社は、飯山観音背後の白山(標高284メートル)の山頂付近の尾根道ある。
 社殿の前には、池(白山池)があって、古くから雨乞いの霊地とされてきた。
 飯山観音(長谷寺)を開いたとされる行基は、この山を登り、霊水が湧き出している池を発見し、加賀国白山妙理大権現を勧請したと伝えられている。
 そして、クスノキで彫られた十一面観音が祀られたという。
 この十一面観音が現在の飯山観音(長谷寺)の本尊といわれている。
 明治初年頃に火災に遭い、龍蔵神社に合祀されていたが、昭和55年に現在の社が再建されている。

鎌倉で初めて建てられた臨済宗のお寺「寿福寺」

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 鎌倉五山の寿福寺は鎌倉で初めて建てられた臨済宗のお寺で、頼朝が没した翌年の正治元年(1200)北条政子が栄西を招いて創建したお寺である。裏山には北条政子、源実朝の墓と言われる唐草やぐらがある。
 市内扇ケ谷の寿福寺背後の山。この山の各所に鎌倉石を切出した石切場があったことがら石切山と呼ばれた。鎌倉の山には他にも石切場が多いが、特に石切山の名が付けられているのはこの山だけ。