| 現厚木神社(厚木市厚木町)は、古くは牛頭(ごず)天王社といい、同神社の由緒書(ゆいしょ)には、今から八百年程前の円融天皇の時、天延年中藤原伊尹公により、厚木村字天王免に同社が勧請されたと言います。 この場所はかっての厚木町役場があった所でしたが、さらにそれ以前は旧幕時代の烏山藩の陣屋が建っていました。 震災の被害は厚木町と相川村が最も大きかったのです。 震災の1年後の大正13年9月に建てられた碑の正面には「あゝ九月一日」と彫られています。 |
カテゴリーアーカイブ: からだの散歩
海老名 有鹿神社の別当寺であった「総持院」
尾道 日比崎の竜王山 「石仏群」
鎌倉 明治の神仏分離で静かな寺に「寶善院」
海老名 奈良・平安の昔、相模国を守護「有鹿神社」
尾道 五百羅漢もある「天寧寺」
福山 鞆 見事な石造物が「阿弥陀寺」
鎌倉 かまどの神・火の神の荒神さまを祀る「巽神社」
相模原南区 前田家が鷹狩りによく来た「長松寺」
尾道 生口島 ここはイタリア?「耕三寺 未来心の丘」
境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。
鎌倉 明治の王政復古で祀られた「日野俊基朝臣の墓」
厚木 学問・音楽・除災・至福の「大釜大弁財天尊」
尾道 もともとは海徳寺の鎮守だった「勇徳稲荷神社」
軒が低く打ち水が涼気を誘う後地小路をくぐりぬけるとまねくが如く道路にセリだした松の木の根元にギョッとするほど鮮やかな朱塗の鳥居が待ち受ける。もともと正一位勇徳稲荷神社は海徳寺の鎮守であったが、大正十五年に同寺が火災にあい、このため寺は、東久保町の山手に引っ越したが、神社だけは独立し、そのころの名ごりをとどめ「抱二天」の仏様がまつられている。
鎮座はこれまたいつのころかわからないが鏡台に文久二年(一八六二)と書きこんであるところからこれよりさかのばるものとみられ、間口三間ほどの拝殿はそう古くはないが玄関は昭和年代に入り、近くの御嶽教社をとりこわし移し、また鳥居も元市民病院横にあった稲荷様のものといわれる。
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