相模原南区西部 旧磯部村の鎮守「八幡宮」

 磯部八幡宮はもともと源氏の氏神であるとされ、境内には三社神、金刀比羅神社、山神宮、疱瘡神、稲荷社などが点在しているほか、御神像の仏弥陀が奉斉されている。
 神社の創建時期は明らかでないが、1358年以前にはすでに旧磯部村の鎮守としてこの地で民衆の信仰を集めていたと見られている。
 この社を開いたのは鎌倉から来訪した山伏祐圓で、別当は小田原玉瀧坊觸下の佛像院磯幡山神宮寺。1478年、太田道灌勢により陥落するまで磯部地内には城(城主長尾景春)があった。

尾道 市立美術館から千光寺間にある「鼓岩」

 鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。
 右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。
 ここには【民話 鼓岩とお姫様】のお話があります。

鎌倉 季節の花木や野草が咲き乱れる「収玄寺」

 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。

厚木 旧名妙見宮(天之御中主神)を祀った「鐘鋳神社」

 御祭神:日本根古皇続弥照命(やまとねこすめらつぎいやてるみこと)
 旧名:妙見宮(天之御中主神)。北斗七星を神格化して祭ったもの。

 風土記稿によれば1629年 村民難波富右衛門が本国下総(千葉県)の原社を勧請したという。また地名の中金井について「古は金鋳と書し、上中下に分け唱へしなり、此所は鋳工銅銕を鋳し地にて、今も地中より銕屑でると云」 としている。 鋳物師が活動してゐた記録があり、当社の「鐘鋳」の社名はこれに因んでいる。ご神体は銅製の男神立像。

福山 鞆 たくさんのお地蔵様が「正法寺」

 1598(慶長3)年に創建された臨済宗の「正法寺」。京都の東福寺派・守意を開祖とした400年の長い歴史を持つお寺で、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用された名刹です。
 境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されていますが、実はもうひとつ、隠された十六羅漢があるのです。それが、奥座敷にある十六羅漢の屏風絵です。この水墨画は、鞆の絵師・門田勝人さんの筆によるもの。ふたつの十六羅漢、ぜひ鑑賞したいものです。また、お寺の鬼門の北方には、毘沙門天も安置されています。

尾道 幕末、芸州藩が派兵し、この寺を本陣に「妙宣寺」

 後醍醐天皇の第三王子でありながら出家した大覚大僧正が正平年中(1346~)全国を旅し布教の途次、鞆から本郷に出て尾道入りし、番所からこの谷を下られ、同所で説法され滞在されたとか。このあと長江一丁目妙宣寺の建立を発願され、同寺は1354年に完成している。本尊は法華宝塔釈迦牟尼仏である。寺記によると、1615~1623年の頃、寺運が衰えたが、1708年本堂を再興し、次いで1782年現在の本堂を再建した。

 幕末の風雲急を告げる1867年の末、芸州藩は片岡大記を大隊長とする一個大隊を派兵し、この寺を本陣として尾道を鎮め東の福山藩に備えた。この寺は尾道地方に数少ない幕末維新の史跡である。 

鎌倉 水戸光圀が7日間ほど逗留「英勝寺」

 奥に入ると仏殿が南に向き、その前は関東大震災後に、小町に移されていた山門の再建が行われています。楼上(ろうじょう)にあった十六羅漢(らかん)像は収蔵庫や鎌倉国宝館に保存されています。
 仏殿の屋根は裳階(もこし)という下屋根をつけて2重になっており、軒下の「かえる股(また)」には十二支の彫刻があります。仏殿には徳川家光(いえみつ)寄進の阿弥陀三尊(あみださんぞん)像を中心に善導(ぜんどう)・法然(ほうねん)大師の木像が安置されています。

厚木 カッパの雨乞いの伝説「白山神社」

 飯山観音の裏に白山(はくさん)という山があります。その頂上に大きな楠が立っていて、そのかたわらに小さな池があります。白山池といって、不思議な言い伝えがあります。

 むかしむかしのことです。白山の麓に住むお百姓さん達は、毎年夏の日照りに苦しんでいました。
 ある夏の日のことでした。一人のお百姓が白山池で釣りをしていました。たくさん釣れたので帰ろうとしましたが、あれ?びくの中に魚は一匹もいません。「どうしたことだ」と辺りを見回すと、魚を口にくわえたカッパがいました。カッパは、お百姓に気付くと、ザンブと池に飛び込みました。怒ったお百姓は、池の水を干し上げてしまいました。………

尾道 斜張橋で初の最大支間200m超え「尾道大橋」

1968年(昭和43年)3月に尾道大橋有料道路として開通。
2013年(平成25年)3月31日に料金徴収期間満了し無料開放された。
 本州本土と向島の間にある幅約200mの尾道水道を結んでいる。
  ・全   長   : 386m
  ・最大支間長   : 215m
  ・海面からの主塔高: 約76m
  ・海面からの路面高:  34m
  ・形   式   :3径間連続鋼箱桁放射形斜張橋
 尾道大橋は,我が国で建設される斜張橋では初めて最大支間が200mを超え,本格的斜張橋の先駆けとして、綿密な検討をし架けられました。

座間 欽明天皇(539年即位)の御代に創祀「鈴鹿明神社」

 欽明天皇二十八年(567)に、国中が天候不順で五穀が実らず人々が困窮していた。欽明天皇がト部伊吉若日子に天災の原因を占わせると、賀茂の神々の祟りだと分かった。そこで賀茂県主家が四月吉日を選んで馬に鈴をかけ、人は猪頭をつけて駆競をすると天候は回復して五穀は実り、人々も平穏を取り戻したという。このときから、水を司る竜神として、恵みの雨を降らし、また水害をもたらす雷神が注目されました。
 雷神は人びとを恐怖のどん底に突き落とす崇り神の象徴となったのですが、逆に、雷が落ちなければ豊作は望めないという信仰がありました。
 最近、科学的にも雷は稲の実りを良くすると言われています。

福山 鞆 箏曲家宮城道雄の先祖墓がある「南禅坊」

 天正年間(1573~1591年)に創建したと伝えられる。
  元々、福禅寺下にあったが、江戸中期(正徳年間・1711~1715年頃)に現在地に移転する。 寺院調査の中で、「梵鐘一件記録」が発見され、鐘の供出を巡る経過を詳しく記した史料として貴重である。かって、その鐘があった鐘楼門(山門)は現存する。
  なお、境内には、宮城道雄(「春の海」(箏と尺八)の作曲家・箏曲家)の先祖墓がある。 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

鎌倉 もとは諏訪氏の屋敷内にあった守護神「諏訪神社」

 現在市役所の駐車場になっているところに諏訪池があり、その池の東のほとりに諏訪神社がまつられていました。その周囲は諏訪の森と呼ばれるほど樹木が繋っていましたが、今は市庁舎側の歩道にわずかに大木が残るだけです。
 諏訪神社は現在、商工会議所西側の御成トンネル右手前に移され、社殿も鳥居も再建されています。この神社は、誠訪盛澄(すわもりずみ)・盛重(もりしげ)の邸内の守護神としてまつられたものということです。
 現在諏訪神社がおかれている場所には、以前簡易裁判所がありましたが、現在は由比ガ浜に移されています。

尾道 瀬戸田 “往生要集”を体感「耕三寺千仏洞地獄峡」

 千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。

 1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。

 洞内は「往生要集」を体感するための空間とされ、石仏が約一千体あるという。

愛川 半僧坊大権現を祭る「勝楽寺 半僧坊」

 開山は天文13年(1544)能庵宗為禅師といわれています。毎年4月17日の春まつりには、近郷近在の新花嫁さんが挙式の当日の晴れ姿でお参りする習わしがあるので「美女祭り」として賑やかです。地元では平山の勝楽寺というより、田代の半僧坊という呼称が一般的です。
 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。
 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。
 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。
 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。

尾道 技芸が上達する「お経の塚」がある「海龍寺」

 このお堂は、阿弥陀如来を、ご本尊とする阿弥陀堂であります。当山では、位牌堂と呼ばれています。江戸期より死者の為に家の仏壇にお位牌をまつると共に、この位牌堂にもお位牌を作り、まつる習わしが、現在も続いています。ご本尊、阿弥陀如来様は、柔道家西郷四郎(姿三四郎のモデル)が晩年期、祈っていた念持仏です。
 大きな岩が境内の奥(東)の方にあります。
 裏山は浄土寺山(瑠璃山)という山で、登山道を登るルートの他に、海龍寺の裏手からは3つの鎖場を経て歩きで登るルートもあります。
 2019年2月19日午前2時10分頃、この寺で火事があり、地蔵堂など2棟が焼けました。仏像を盗んだ後、放火したとのことです。

鎌倉 火の災いを除く「秋葉大権現」

 秋葉山大権現というのは、本山は静岡県の松の方の秋葉神社(あきばじんじゃ)で、火事を防ぐ夫伏(ひぶ)せや水難除(よ)けの神として、江戸時代には各地に秋葉講中(あきばこうちゅう)という信者の団体がつくられ、代参(だいさん)という代表者の本山詣で(ほんざんもうで)が盛んに行われました。光明寺やその信者を火災や水難から守るため、1714年(正徳4年) に神社を秋葉山から光明寺裏山へ移してまつりました。材木座や小坪(こつぼ)をはじめ各地に秋葉講(あきばこう)が作られ、火災と海上安全を祈願する人々が訪れ、社殿も立派だったそうです。
 思ったより境内は広いですね。昔はもっと建物があったのでしょうね。

厚木 神仏分離で寺院から神社に「智音神社」

 鎌倉時代の初期、源平合戦の中の屋島の戦で、平家方の舟に立った扇を射落して一躍有名になった那須余一宗高は、その戦功により、下野国那須の総領を幕府から与えられました。戦の数ヵ月後、鎌倉に引上げた幕府の御家人の中に余一もいました、この御家人が大磯の遊女屋に遊んだころ、余一は眼病にかかっていました。
 愛甲郡厚木の里の天王森境内に祭られてあった薬師如来が、眼病に効くことを聞いた余一は大磯から馬を飛ばして薬師様の堂宇に参詣し、祈願すること数日、その祈願満願の日、眼病は完全に治りました。このため余一は、眼病平癒のお礼に当時の厚木村の中に真言の寺、摂光山智音寺を建立したと言われます。

尾道 大火のため焼亡、1928年に移転「海徳寺」

 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。

鎌倉 目の神様として親しまれている「御霊神社」

 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。桓武天皇の子孫平良兼の孫、村岡五郎忠通という人の子に為通・景成・景村・景通・影正の五人がいて、五家に分かれたといわれます。忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。

福山 鞆 昔は一帯の山麓を占め大伽藍だった「小松寺」

 寿永二(1183)年、平家福原都落ちの際、病死した重盛の二男・資盛は、一族より離れこの地を訪ね、亡き父の菩提を弔うため五、六日逗留した。平貞能、京より重盛公の遺髪を持参し、五輪塔を建立し盛大なる法会を営む。
 建武二(1335)年、小松寺は盛大となり、草谷(くさのたに)一帯の山麓を占め、伽藍も盛大だった。
 延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。