2012年4月4日午後0時55分ごろ出火、木造平屋建ての本殿-約200平方メートルが全焼し、隣接する小屋の一部約10平方メートルが燃えた。けが-人はなかった。江戸時代に作られ、市の指定有形文化財に指定されている「木造不動明王-座像」は、別の社に保管されており無事でした。
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福山 鞆の浦 鞆湾の全景が見える「医王寺」
「医王寺」は他の社寺から少し離れた山手に位置しています。医王寺までの坂道は少なからず急で遠いのですが、境内からの眺望はその苦労に十分値するものです。
医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こう側に鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。晴れた日の早朝にここを訪れれば、その景色を茜に染める朝日に出会うこともできます。
鎌倉 材木座町内の五つの神社を一緒に「五所神社」
この神社は、1908年(明治41年)に町内にあった三島(みしま)・八雲(やくも)・諏訪(すわ)・金比羅(こんぴら)・見女八坂(みるまやさか)の五つの神社を一緒にしてまつったものです。祭神は大山祇神(おおやまづみのかみ)・素戔嗚尊(すさのうのみこと)・建御名方命(たけみながたのみこと)・崇徳院霊(すとくいんのみたま)・天照大神(あまてらすおおみかみ)で、毎年6月の第2日曜には盛大な祭りが行われています。境内の神輿庫には、神輿が安置されていて、「寛永十九年」(1642年)の棟札(むねふだ)がかかっています。例祭では、五所神社を出発した神輿は、昔から伝わる「天王謡(てんのううた)」を唄いながら材木座の町内を練り歩いた後、材木座海岸で海に入ります。
厚木 親鸞が布教の折りに滞在した草庵に「弘徳寺」
弘徳寺の袈裟掛けの松
飯山の千頭(せんず)に浄土真宗の弘徳寺があります。この寺に、開祖・親鸞上人が植えたと言われる松があります。松を植えるとき、親鸞が「我が信ずる本願は諸行にあらず、一向専念の宗義なれば二心並立にあらずして一心なり。この法諸仏の本意に叶うならば、二葉を捨てて一葉(ひとは)たれ」と言ったところ、一葉になったとされています。ふつうの松の葉は二本ですが、この松の葉は不思議なことに一本だったので、「一葉の松」ともよばれました。親鸞が植えた後に、覚如上人(かくにょしょうにん)が袈裟を掛けたので「袈裟掛けの松」とも言います。
この松は昭和三十五年に枯れたので、切り倒しました。今は本堂の前に根元の木口だけが残っています。またこの寺には、親鷺の子・善鸞(ぜんらん)の墓というのがあります。
尾道 瀬戸田 ここは日本か?「未来心の丘」
未来心の丘。
境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。
鎌倉 深山幽谷の山寺といった風情がある「浄智寺」
北条時頼の子(三男)宗政の死後、その夫人が1281年に建立した。開基は、夫人や一族のはからいで亡父宗政とその子師時(第十代執権)となっています。
開山については複雑で、日本僧の南海宏海が招かれたが、大任だとして辞退、師である宋僧の大休正念を購じ、入仏供養を行い、亡くなっていた宋僧で高名の兀庵普寧(ごつあんふねい)を開山としました。
1356年の火災で創建時の伽藍は消失、1386年には既に復興していたため、足利義満が定めた鎌倉五山のうち四位に入りました。
また、関東大震災で諸堂は潰滅し、現在は山門や仏殿が点在しているだけになった。そのためか、深山幽谷の山寺といった風情があります。
尾道 隠れた名所か「浄土寺山頂上」
瑠璃山という別名を持つ山。山麓を瑠璃地区とも云っていた。
尾道三山で最も高い浄土寺山(瑠璃山)の山頂展望台からの眺めは天下一品。歴史的な雰囲気を残す尾道旧市街地はもちろん、南には瀬戸内海の島々、北には尾道の別の姿を見ることができます。
特に瀬戸内の島々の遠望が良いです。ここまで登ってくる観光客はまづいません。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
浄土寺山は”尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。冬の時期、条件が良ければ四国山脈まで一望できます。
尾道 職人の精神が石段に「御袖天満宮」
5mもの1本石が54段(ただし、現在は一番上の段が割れてしまいました。)。
花崗岩には割れやすい「(割れ)目」があり、石工は、その石の目を見分け、その目に沿って数カ所少し掘り、小さなくさびをそこに入れ、順番に金槌(玄能)で叩いていき、石を割ります。
上から二段目だけ、二本継ぎが1段あります。「完璧は災いの元」という職人の哲学でしょうか。それとも、「完璧なものは神様しか造れない」ということでしょうか。
日光東照宮や姫路城にもこのような職人気質が残っています。
大林宣彦監督の映画「転校生」の撮影場所(男の子と女の子が入れ替わる場面)
愛川 八菅の七社権現とも呼ばれる「八菅神社」
八菅山の中腹にあり、別名八菅の七社権現とも呼ばれ、日本武尊、国常立尊、伊邪那岐命、金山毘古命、誉田別命、大己貴命、伊邪那美命の七神が祭神として祭られている。
明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地で、大山阿夫利神社、日向薬師とともに関東での山岳修験の道場であり、修験道三派のうち聖護院流である。
かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
福山 鞆 初代藩主水野勝成がこの地区を開発「妙蓮寺」
慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられています。実相院日玖は元気で充実した年頃に日常のつきあいを断ち、法宣寺十四世恵性院日親の弟子となり、修行し、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよんだ。
福山藩主・水野勝成殊勝に願い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を賜る。
福島正則の改易に伴い、水野勝成が1619(元和5)年、備後10万石の領主となって入府。福山と命名して福山城を築いて以来、芦田川河口のデルタを開拓、治水工事とともに城下町として整備した。
勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。
鎌倉 鎌倉では珍しい五重塔「龍口寺」
龍口寺の五重の塔は明治四十三年(1910)竣工、棒造り銅板葺き、神奈川県で唯一の木造本式五重塔である。初層の上部には彫刻師、永田伊助の手になる日蓮大聖人御一代記が奉納されている。
五重の塔は、この世と、また、私たち人間を形づくっている五つの要素である
「地」、「水」、「火」「風」、「空」の五大を意味する。
尾道 柔術不遷流の開祖不遷がいた「済法寺」
旧市街から見ると、ちょっと離れた西側にあります。
境内に入っただけでは気がつかないのですが、裏山にある“岩に刻まれた仏像群(磨崖仏)”は見もの、特別な世界観を作り出しています。
墓地がある斜面には、数多くの仏像か岩に刻み込まれています。ただし、お墓があるところより上は道がありません。双眼鏡などで見ることをおすすめします。(このあたりは花崗岩が風化した大きめの砂粒が斜面にあり、枯れ葉も多く、かなり滑りやすいのです。このような道のない斜面を歩きなれた人以外は、登らない方がよいでしょう。)
厚木 親鸞聖人が御巡錫の場「弘徳寺」
寺の縁起によれば、親鸞が東国布教の折りに滞在した旧跡で、親鸞の嫡男・善鸞がここに草庵を結び心光院と号したのが始まりと伝わる。
開山・開基は、親鸞の直弟子の信楽ぎょう房。信楽房は平将門の子孫で、俗名を相馬太郎義清といった。
建暦・元仁期に親鸞が常陸国稲田に布教の折りに門弟となり、その後当山を任せられた。
墓地に善鸞の墓と伝わる小高い土塚がある。
明治初期の廃仏毀釈で寺院の荒廃を憂い、当山世話人島崎利助という人が明治10年に自費を投じて墓石を建立した。また、供養塔と思われる「信楽塔」も建立されている。
『新編相模風土記稿』によれば、かってこの地には地蔵堂があり、親鸞が錫をとどめた旧跡と云われる。
鎌倉 比企能本夫妻の像が「妙本寺祖師堂」
妙本寺の祖師堂の建立は、その棟札から1838年と推定されている。
桁行 (正面約18.7m) 五間、梁間 (奥行約19.7m) 六間、瓦葺き入母屋造り。
日蓮、日朗、日輪が祀られている。
現在の建物は、天保年間(1830~1843年)に、第四十七世日教によって再建されたと伝えられている。
尾道 昔の船着き場が「福本渡船 ⇔ 駅前海岸」
昔の船着き場があります。クレーンなどなかった時代の港の風景です。
このあたりは干満差(干潮時と満潮時の海面の高さの差)が4m程度あります。そのため、舟から荷揚げをするとき、船と船着場に渡す板の角度を平らにするため、船着場が階段状になっています。
いまはクレーンなどがあり、このような船着場はなくなってしまいました。しかし、大災害で動力が使えなくなったとき、役に立つかも知れませんね。
海老名 大型の一間社流造「有鹿神社」
市内でも大型の一間社流造の建築です。内部は前後2室に分かれ、前室は正面扉口のほかに両側面にも一本引きの建具を入れることや、向拝の造りなど特徴がある珍しい造りです。また、肘木は鋭い錆を持つ絵様肘木で、社殿に独特の印象を与えています。
建立年代は、虹梁の絵様等の意匠から18世紀中頃と考えられています。
大住郡坪之内村の絵師近藤如水(藤原隆秀)が描いたものです。
如水が諸国遍歴から坪之内村に帰ってきた後の嘉永2年(1849)頃の作と考えられています。
鎌倉 源氏と鎌倉のつながりのできた「元鶴岡八幡宮」
元八幡は、相模守(さがみのかみ)であった源頼義(みなもとのよりよし)が京都の石清水(いわしみず)八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(えき)(1051~1062年)で、奥州(今の東北)の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡(ゆいごうつるがおか)のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
後三年の役(えき)のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。
尾道 生口島 奈良・平安時代を参考「耕三寺」三段部分
大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。
座間 鈴鹿郷神社の神輿が海上を渡御し漂着「鈴鹿明神社」
欽明天皇(539年即位)の御代に創祀せられたという。
伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。
みこしがこの地に着いたとき、梨の木坂に住む龍神(座間にもともといた神)はみこしの中の宝物を欲しがり、七日七晩暴れました。これに対して流れついた鈴鹿の神は宝物を与えてしずめ、ここに落ち着くことにしました。
福山 古くからの航路、航海安全を祈願「阿武兎観音」
磐台寺観音堂(臨済宗)
1570~73年(元亀年間)に、毛利輝元によって再建された観音堂で、国の重要文化財に指定されています。急峻な岩肌に、青々と飛沫をぶつける瀬戸内の海。その荒々しい自然の中にあって、この異国情緒漂う朱塗りの観音堂が、妙に調和して見えるから不思議です。
その美しさは古くから名高く、安藤広重の浮世絵や、志賀直哉の小説「暗夜行路」の中でも取り上げられているほど。一度は訪れてみたい名所です。