厚木 樹齢八百年以上の楠木「子安神社」

 祭神木花咲耶姫命は古来から子宝・安産の命として崇められ、人々の信仰も厚く、天正十九年(1591)には神領壱石の御朱印を賜りました。
 境内には御神木の楠木がありますが、樹齢八百年以上の古木と言われ、見るからに子安神社の歴史を物語っています。

 火の中で無事出産したことから木花之佐久夜毘売が火をコントロールする神として富士山の神とされ、家庭円満、安産、子安、水徳の神としてのご利益へと結びつき、さらに、三皇子の誕生を祝って酒造りが行われたことで酒造の神ともされています。

鎌倉 1283年、正式な僧が100人いた「円覚寺仏殿」

【伝説】
 寺名・寺地は、はじめ北条時宗と蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)によりえらばれたが、工事を起すと地中から石櫃が現れ、中に円覚経が納められていたため、それにちなんで円覚寺と名づけるいたったという。山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。白鷺池・国師来朝の際、八幡の神霊が白鷺に化身、国師を導いてこの池に降りたったのを記念して名づけられたという。

尾道 浄土寺山の八合目あたりの巨岩に「不動岩」

 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。
 真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。

 この不動明王の彫りはみごと。花闘岩を彫ったとは思えないくらいレリーフのやわらかさが際立)つ芸術作品です。
 ここにも尾道の石工の技が存分に発揮された文化が残っています。尾道で最大の磨崖仏です。

福山 鞆 日蓮宗への改宗を拒否、浄土真宗「明圓寺」

 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。

 ここは室町末期の石山合戦(1570~1580年)で、住職が毛利軍と共に織田信長と戦ったといわれるお寺。福山藩との結びつきも強く、下部が袴(はかま)型の正式な鐘楼には藩から寄進された梵鐘も残っている。

鎌倉 花散歩、心おだやかに「長谷寺」

寺の花だよりには、
 春の桜・藤・躑躅(つつじ)・牡丹・山吹・海棠(かいどう)。
 夏の紫陽花(あじさい)・花菖蒲・百日紅(さるすべり)・凌霄花(のうぜんかずら)・木槿(むくげ)。
 秋の萩・桔梗・彼岸花・石蕗(つわぶき)・秋明菊・紅葉。
 冬の臘梅(ろうばい)・水仙・万作・椿・木瓜(ぼけ)・福寿草・梅。
 など、数々列記されています。

厚木 二十七番札所だった「聖眼寺」

 聖眼寺(しょうげんじ)は上三田の才戸橋南側の県道から、山の根の長い参道を入った奥に観音堂が建立されています。昔は観音堂の左手に本堂と庫裡がありましたが、今は存在しません。
 江戸時代には相模三十三観音霊場の二十七番札所として観音信仰で栄えていた寺院です。寺は三田寺と呼ばれ、参道入口の門塔に「當国二十七番三田寺」と彫り込まれています。

尾道 天邪鬼が用水鉢の下に「浄泉寺」

 あるものは座り、あるものは横臥、また寝そべり、その肩から背にかけ天水の一角を支え、その面貌の変化に富んだ面白さ、四肢の動き、まさに石の町を代表する作品であろうが、惜しいことに同寺が明治二十二年、火災にあったさい、火にまかれ原型を損じ、さらに子どもの悪戯か、腕の一部が欠けるなど痛みが激しい。(「郷土の石ぶみ」より)
 何事にも逆らって、仁王さんや四天王に踏みつけられるのが天の邪鬼。本堂の雨水を受ける水槽にまで天の邪鬼が押さえられている意匠が面白い。尾道石工のアイデアは実に豊かだった。

鎌倉 祇園社神霊を疫病流行時に勧請「八雲神社」

 元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
 境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。

福山 鞆 「日東第一形勝」と賞賛「福善寺対潮楼」

 対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に造られた福禅寺の客殿。
 座敷から一望できる仙酔島や弁天島が浮かぶ鞆の浦の眺めは素晴らしく、江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場となっていました。
 正徳元年(1711)、朝鮮通信使の李邦彦がここを訪問した際、対潮楼から見た景色を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)」と賞賛しました。
 幕末に坂本絵龍馬の海援隊が運用する「いろは丸」(160トン)と紀州藩の軍艦「明光丸」(880トン)が衝突する日本初の蒸気船海難事故「いろは丸事件」の際、坂本龍馬(武器商人か?)ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行なった場所にもなっています(本来は「いろは丸」側に非があったものの、坂本龍馬は紀州藩側の、本来積んではいないと思われる積載物の損害賠償を求めています)。

厚木 高遠藩の石工達が出稼ぎで石仏を「広沢寺」

 清川村の煤ヶ谷から厚木の七沢、および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があったが、石を切出して細工する石工がいなかったために手付かずのままでした。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちでした。
 高遠は長野県伊那市の高遠町のことで、鎌倉時代の頃から石材業が発達して農民の多くが石工となって働いていた。
 高遠の地は田畑が少なかっただめに農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかった。
 高遠藩はその対策として、元禄の初め頃にいろいろな職人になることを奨励したのであった。

鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」

 鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
 「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。

2022年3月新しい展望台が「千光寺山 山頂」

 2022年3月 新しい展望台がオープンしました。愛称は、「頂上」を意味する「PEAK(ピーク)」だそうです。展望デッキの長さ63m、東-南-西側の尾道水道や旧市街大パノラマで楽しむことができます。
 ロープウェイの山頂駅と接続したエレベータが設置されているので、ベビーカーや車いすの人も安心してご利用いただけます。
 設計は、建築設計事務所「AS」です。

福山 鞆の大仏とも、阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」

 木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏) 光背までの高さ約4m 。元禄16年(1703)に作られた丈六の大仏。
 造像を発願した中興・雲洞上人は、多くの人々を救いたいと願っていたところ、現に阿弥陀さまが現れ、その姿をもとに仏師に願いこの像を作ったといいます。

 「お釈迦になる」という言葉があります。なぜお釈迦になったらいけないのか。これは、仏師の人が阿弥陀さんや観音さんなど、他の仏さんの注文を受けてこしらえたはずなのに、お釈迦さんができてしまった。これでは商売にならない。だから「お釈迦になった」といわれるようになったとか。

鎌倉 明治維新、南朝の復活か「日野俊基朝臣の墓」

 俊基の墓は国指定の史跡となっており、1887年(明治20年)に俊基の霊を祀る葛原岡神社が建てられています。
 日野俊基は文書(もんじょ)博士で、出世したので、学問の神様としての信仰も集めています。
 南朝の忠臣としてその功ならず、元弘二年(1332)悲憤の最後を偲んで、別格官幣社に昇格ずる運動があったが、実現しなかった。戦後単立法人となった。
 現在は由比ガ浜地区の鎮守として信仰されています。鳥居の左手に社務所と神輿庫(みこしこ)があります。

尾道 もとは祇園社、祭は今も祇園祭「八阪神社」

色町の中の神域

 尾道市久保二丁目、八坂神社(やさかじんじゃ)は歓楽街囲まれた場所にあり、このあたりは、かつて海の中に突き出しており、「築島」と呼ばれたようです。もとは西久保、常称寺境内にあり、明治元年の神仏分離令により、厳島神社に合祀され、翌二年に現在の場所に移りました。その為、鳥居には「八坂神社」と「厳島神社」の額がかかっています。周阴に遊郭が多かった時期には、この神社に遊女のお参りが絶えなかったそうです。

厚木 梅樹に明星が降臨したという「妙伝寺」

 妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
 日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。

鎌倉 新田義貞が鎌倉攻め本陣跡に建てた「九品寺」

 創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
 鎌倉では唯一の義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。
 1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
 北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。

尾道 天保の大飢饉の慈善事業で本堂を建築「慈観寺」

 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた=柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた=柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。
 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。

鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝わる「英勝寺」

 ここは、もと扇ヶ谷(おおぎがやつ)上杉家の家老のような役目だった太田道灌(おおたどうかん)の屋敷のあったところといわれています。そばにある「太田道灌邸旧蹟(きゅうせき)」の史跡案内の石碑には、太田道潅やお勝の局(つぼね)についての説明が刻まれています。
 この寺を建てた英勝院は太田道潅の4代の孫太田康資(やすすけ)の娘で、徳川家康(とくがわいえやす)の側に仕えてお勝(かつ)の局(つぼね)と呼ばれていました。家康の信頼厚く、後に水戸家初代の徳川頼房(よりふさ)の養母となった人です。家康が亡くなると、尼(あま)となり英勝院と呼ばれました。やがて祖先ゆかりの地を3代将軍家光からいただき、1636年(寛延3年)に英勝寺を完成させました。

福山 昔の商人の姿が残る「鞆の津の商家」

 かつてこのあたりは道の傾斜があまりにも急で、荷車の難所でした。誰かが手を貸して後ろから押さないと坂を上れなかったため、荷車をあと押しするアルバイトがあったそうです。
 現在では、敷地の角の辺りで道の部分を1m近く掘り下げて、傾斜をなだらかにしていす。 よく見ると、建物の石造りの基礎の下にコンクリートの壁が造られていて、まるで建物を持ち上げたように改造がされています。