福山 鞆の浦 鞆湾の全景が一望の「医王寺」

 医王寺は、平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられるお寺です。
 坂道や階段を上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺 医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
 高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。
 医王寺の足下の街道沿いには、江の浦・「焚場」の集落が道沿いに細.長く広がり、その向こ鞆港が大きく弧を描いています。さらに、港の北に広がる鞆の町並みの向こうには、仙酔島が望まれます。
 文政9年(1826年)に、鞆に寄港したオランダの医師のシーボルトも、植物観察のために医王寺を訪れており、この景観を楽しんだでしょう。

鎌倉 源頼朝の娘、大姫、哀しい話が「岩舟地蔵」

 岩船地蔵堂(海蔵寺)の地蔵尊。奥に石造地蔵尊を安置している。頼朝・政子の娘・大姫の守本尊と伝えられています。
 分かれ道の角に海蔵寺が管理する岩船地蔵(いわふねじそう)があります。地蔵の床下には、さらに約130cmの船形の背をもっ石の地蔵があり、「岩船」の呼び名はここからついたといわれています。
 鎌倉時代は、地蔵信仰が開花したとも言われている。もともと奈良時代に中国から伝えられた自動信号だったが鎌倉にその信仰が伝わると名高い人が競って優れた地蔵を製作するようになり庶民に浸透していったのです。

尾道 浄土寺山鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ

 浄土寺山の鎖場です。一番鎖、二番鎖、三番鎖と、山頂に向かって三ヶ所の鎖場があります。
 この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
 真言宗の開祖空海は、「自分が学ぶ上代の俗典は、俗事のことばかりであり、人の一生が終わってしまえば何の役に立つものではない。
 この際、俗典の勉学はやめて、真実の教えの源を尋ねることに越したことはない」と、山岳修行者になられて、吉野の金峯山、四国は石鎚山、阿波国の大滝嶽、土佐国の室戸崎などで山岳修行に励まれました。
 室戸崎では、ついに虚空蔵菩薩の化身である明星が身中に飛び込んで一体となるという神秘体験を得て、虚空蔵求聞持法を成就したという。

鎌倉 神の霊水が岩の間から湧き出ている「銭洗弁天」

 源頼朝(みなもとのよりとも)は、幕府をこの鎌倉の地に開いてから、日夜神や仏に祈って、人々の命を救おうとしていました。巳(み)の年の1185年(文治元年)巳(み)の月の巳の日の夜中、夢にひとりの老人が現われ、
「お前は人々のために何年も心配してきた。自分はお前のその真心に感心した。天下が安らかに、そして、人々が豊かに暮らせるように、大切なことを教えてやろう。ここから西北の方に一つの谷があり、きれいな泉が岩の間から湧き出ている。これは福の神が神仏に供えているという不思議な泉である。今、これをお前に授けるから、今後この水を汲んで絶えず用い、神仏を供養せよ。そうすると、人々が自然に信仰心を起こし、悪い者達はいつしかいなくなる。そして、お前の命令もよく行き渡り、天下は平和に栄えるであろう。自分はこのかくれ里の主の宇賀福神である。」
と言って姿を消しました。

厚木 徳川家康は当寺を訪れた際の後に改称「松石寺」

 弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
 寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。 「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならべて」-(家康)
 当初は真言宗で、華厳山乗磧寺と号していた。その後林徳院と改号したこともあった。1475年宗派を曹洞宗に改宗し、寺号も旧に復した。1591年に華厳山松石寺と改めた。
 このお寺の裏山(華厳山)には四国八十八ヵ所を模した石仏群がある。この造立に当たり、江戸、武州各郡、駿州まで寄進を集め、また、近くに七沢石を産し、七沢、煤ヶ谷に多くの石工がいたためつくることができた。しかし、現在(1972年)では風雨、地震なのにより倒壊、損壊したものが多く、その順序もよく判らない。

尾道 日限(ひぎり)地蔵尊「大山寺」

 心願成就の日限(ひぎり)地蔵尊として日を限って日参し、一心にお願いすれば願い事がかなえられます。特に受験シーズンになると合格祈願のため大勢のお参りがあります。

 鎌倉にある安養院にも石造地蔵菩薩の像が安置されていて、「日限地蔵」の別名で信仰されている地蔵様があり、こちらでは「定めた日数内に願い事をかなえてくれる」とされています。

福山 子授け・安産.航海安全祈願の「阿武兎観音」

★おっぱいがいっぱい

 階段を上りきると、観音堂に到着。外側の欄干へと顔を出してみると、瀬戸内の海が間近に眺められます。その際、ちょっとひやり、床板が傾いているのでご注意を!
 一方、観音堂の中を眺めると、そこには、壁一面に、奉納された“おっぱい絵馬”が飾られています。安産や子宝を願う女性たちの想いには、胸を打たれますね。

鎌倉  もとは鶴岡八幡宮寺だった「鶴岡八幡宮」

 源頼朝が現在の場所に移し、武家政権を守る神社として大事にされ、寺院としての性格を持っていました。若宮・本宮・丸山稲荷は国重文です。

 1191年3月4日、小町大路あたりで発生した火事で全焼、そこで頼朝は、一段高いところに本宮を、下に下宮の二段構えの境内を構築した。当たりのには鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心にしました。
 その後も、たびたび火災や地震、津波で被害を受けてきたが、そのたびに再建の努力がされてきました。

尾道 お茶子娘の供養かんざし燈籠「八阪神社」

 この神社のお祭りで、勇壮な喧嘩神輿の三体廻しが、渡し場、中央桟橋前、浄土寺下の三ケ所で行われていました。昔は非常に激しく、御輿を海に投げ込んでいる場面がありましたが、いまはどうなっているのでしょうか?
 この付近は、「新街」と呼ばれる飲み屋街。横道に入り込むと「迷路」です。しかし、どこかで広い道に出ますので、まあ、なんとかなります。しかし、酔っ払っているとどうなるかな?
 志賀直哉が尾道に住んでいた頃は、この界隈を遊び回っていたのかな?
 尾道の花街の人通りの激しい店先で、酒臭い乞食坊主が寝ているので迷惑この上ない。その人が俳人の種田山頭火であったとか。

厚木 かっては石神社と呼ばれた「荻野神社」

句碑 「大空は 蓋ふたも實ももなし ほととぎす」
 「蟹殿洞々(かにどのとうとう)」作
 荻野の俳人・蟹殿洞々は、明和4年(1767)に上荻野村に生まれた。俳人の五柏園丈水に師事したが、丈水の没後は嶋立麾系の俳人たちと親交を結んだ人です。
 荻野神社の社殿の西側約5mのところにあり、樹齢約600年推定され、高さ約30mもある大木です。古くから御神木として扱われ、多くの天災に遭遇しながらも生き続けています。

座間 悪疫流行を抑えたお礼に「座間神社」

 欽明天皇の時代は、国中が天候不順で五穀が実らず人々が困窮していました。欽明天皇がト部伊吉若日子に天災の原因を占わせると、賀茂の神々の祟りだと分かり、そこで賀茂県主家が四月吉日を選んで馬に鈴をかけ、人は猪頭をつけて駆競をすると天候は回復して五穀は実り、人々も平穏を取り戻したといいいます。
 また、仏教が日本に伝わったときでもあります。仏教はインドにうまれて中国や朝鮮半島から日本に伝わった。最初の仏教公伝は欽明天皇十三年(552)でした。

鎌倉 山門を潜ると石仏が並ぶ参道「光触寺」

 鶴岡八幡宮から金沢街道を東に進み、滑川の流れに沿って朝比奈峠方面へ。明石橋を過ぎて間もなく、十二所バス停から徒歩3分ほどのところにあるのが光触寺である。弘安2年(1279)に一遍上人によって開山されたお寺で、本尊は運慶作といわれる阿弥陀如来三尊象。国の重要文化財にも指定されている。この阿弥陀如来三尊象は頬が黒いの頬焼阿弥陀とも呼ばれている。その由来の描かれている『頬焼阿弥陀縁起絵巻』が光触寺の寺宝として残されている。

尾道 大きな反りの豪快な鳥居「亀山八幡神社」

 注目したのは、鳥居上部の笠木、島木が一本物の石から創られている事と、反りの大きさである。普通島木部分は柱間において直線であるが、この部分までが大きな反りが付けられている点である。創られた時代は、亀山八幡宮の鳥居が萬治二年(1659年)と支柱に彫り込まれている。八幡宮鳥居支柱に刻まれた文字を読むと、大工石屋与七郎、小工石屋助六、石屋中と有り棟梁与七郎、助六を中心に石工集団で創っている事が伺える。笠木島木が一本物の石で、巾約20尺5寸(6.15m)反りが大きく、豪快で力強く両翼を上げた迫力満点の鳥居で、横綱の不知火型の土俵入りをイメージして創られたのではないかと、推測したい。

鎌倉 [おんめさま]の名で親している「大巧寺」

 「おんめさま」(おうめさま)の名で親しまれている安産祈願の寺。
 創建は1320年と伝えられています。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになりました。

厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」

 最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
 鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。

鎌倉 桓武平氏の先祖を祀る「八坂神社」

 八坂大神ともいう。祭神は須佐の素戔嗚尊(すさのおのみこと)、桓武天皇、葛原親王、高望王。つまり、桓武平氏の先祖を祀っています。
 相馬師常がいまの巽神社付近に勧請したもので、かっては相馬天王と称しました。相馬師常は千葉常胤の二男で、頼朝挙兵に参加、平氏との一ノ谷の合戦にも参加、奥州合戦にも加わり、源氏の武将ととして名を高めた人です。
 銭洗弁天は当神社の境内末社であったが、1970年に独立しました。

尾道 三人の義賊、三つ首様をを祀る「海福寺」

【民話 海福寺の三つ首さま】

 江戸時代の終わりごろ、尾道は凶作が続き悪い病気もはやり、世の中は騒然としていました。おまけにどろぽうや追いはぎまでも出没して、人々の心は安まることがありませんでした。
 どろぼう一味の首領格と思われる者に、惣兵衛、亀蔵、利助というのがいました。この三人はどろぼうといっても、金持ちからお金や品物をうばい、貧しい人たちに恵んでいたのです。
ところがとうとうこの三人が捕えられました。
 三人は文政十一年神無月(旧暦十月)の二十六日、木枯らしのふく寒い日に、処刑されることになりました。………

厚木 衆生を威嚇力で導く馬頭観音「七沢観音寺」

 七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇(715~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。
 本尊に動物霊から守ってくれる馬頭観音菩薩を安置したのは、上杉定正の愛馬日影を祭ったことによると伝えられています。

鎌倉 腰越 日蓮の刑場(処刑中止)の跡に「龍口寺」

 鎌倉時代、日本は内乱や大震災.叡僅疫病の蔓延など、まさに地獄の様な悲惨な状況にあり、それらを憂えた日蓮大聖人は『立正安国論』を著し幕府に奏上し、法華経の思想に基づく国家の安寧と民衆の救済を提起した。
 しかし、幕府は政策への中傷と受け止め『貞永式目』の「悪ロの咎」に当たると解釈し、文永八年(1271)九月十二日、鎌倉松葉ケ谷の草庵で説法中の日蓮大聖人を捕らえ、市中引回しの上、この龍ノロの刑場に連行した。
 日蓮大聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ず刑場に連行した為、幕閣からも異議が出され、処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半に至り龍ノロの刑場へ処刑中止の使者を送った。

尾道 ピラミッド型に積まれ無縁仏塚「正授院」

 1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。

 このお寺さんの鐘楼のそばを奥の方に入っていくと、ちょっと意外な場所を発見します。見過ごしてしまいそうなところを発見するとわくわくします。