仁王門をくぐり、ちょっと行った左側にあります。西國寺の再興傑僧・慶ばんの開基と伝えられています。
1829年大旦那灰屋茂助の寄進銀一貫目などによって本堂・庫裏を一棟として再建された。
1976年9月、集中豪雨により裏山が崩壊し全壊したが、ただちに住職・檀信徒一体となって再建にあたった。
1994年境内に祀られ長寿の神として知られる「多賀皇神社」も新しく建て替えられた。
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鎌倉 鎌倉の苔寺といわれる「妙法寺」
“ 日蓮の御小庵が焼かれた後、ここには法華堂(ほっけどう)が建てられ、本圀寺(ほんこくじ)となりましたが、室町時代の初めに京都に移されました。その跡地に護良親王(もりよししんのう)の遺子(いし)日叡(にちえい)が父の霊を弔うため、1357年(延文2年)に寺を再興したのが妙法寺の起こりといわれています。
妙法寺の寺名は日叡がいたところの妙法房(みょうほうぼう)から、山号は日叡の幼名りょう巌丸(りょうげんまる)から付けられたといわれています。
この妙法寺は南北朝から室町時代にかけては寺の勢いが盛んで、塔頭(たっちゅう)が5院あったということです。また江戸時代、11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)が参拝し、明治30年ごろまで、将軍御成(おなり)の門があったといいます。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より”
厚木 温水(ぬるみず)の阿弥陀様「専念寺」
“ 温水(ぬるみず)の阿弥陀様(南毛利地区)
昔、聖徳太子は、尼寺ヶ原に一乗尼寺というお寺を建てました。それから数百年たった鎌倉時代、源頼朝の妻・政子が、衰えていた一乗尼寺を再建しました。
ところが建長四年(1252)の夏、寺は火災にあって全焼してしまいました。その時です。ひとかたまりの真っ赤な炎が空を飛んで、少し離れた池の中に落ちました。村人が不思議に思って池に近寄ってみると、池の中ほどに、一乗尼寺の本尊である阿弥陀如来が光り輝いて立っているではありませんか。池に手を入れてみると水が温んでいました。村人はこの様子を見て、これは仏様のありがたい思し召しであると思い、ここに寺を建て、専念寺と呼びました。この池は「光温池」として残っています。
また、池の水が温んだことにちなみ、この地を温水というようになりました。
【出典】『あつぎ子ども風土記』『厚木の伝承と地名』”
福山 鞆 水軍の拠点だった大可島「圓福寺」

当寺院の建つ場所は大可島といい、鞆港の入り口に浮かぶ島だった。頂きには海城が築かれており、南北朝時代には北朝・足利幕府軍と南朝・後醍醐天皇軍との合戦の舞台となりました。
戦国時代には村上水軍の一族がこの海城を拠点にして、海上交通の要所・鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
福島正則が鞆城を築いた慶長年間(1600年頃)に、埋め立てによって大可島が陸続きとなりました。城は廃城となり、慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられています。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていました。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊しました。
いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用されました。
鎌倉 新田義貞が本陣を構えたところ「九品寺」
尾道 市立美術館から 千光寺への途中に「鼓岩」
鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。
右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。
【鼓岩とお姫様】という民話があります。
戦国の世、千光寺山には木梨山城主(木ノ庄町)杉原氏の出城「権現山城」がありました。
城にすぐ近い南の山道にある大岩は、お姫さまや、若君のこの上ない遊び場でした。
大岩は、優しい奥方さまやお姫さまが大好きで、お城から聞こえてくる琴や鼓の音に、うっとりと聞きほれていました。
コロコロ コロコロ コロリンシャン、
ポン ポンポン ポン ポンポン
大岩は毎日が宴のように楽しい気分でした。…………
厚木 古くはこのあたりに鋳物師がいた「子合地蔵尊」
福山 鞆 鬼子母尊講中お題目碑がある「妙蓮寺」
鎌倉 白い猿が日蓮を救った草庵跡に「長勝寺」
尾道 巨岩に不動明王が住む「不動岩」
“ この岩の垂直面に尾道で最大の磨崖仏、不動明王が刻まれています。
この岩上からの眺めは、多くのカメラマンが訪れるフォトジェニックな場所です。小津安二郎(おずやすじろう)監督(尾道を舞台にした「東京物語」の監督)のファンであるドイツのヴィム・ヴェンダース監督もここを訪れ、カメラマンである婦人の見事な景色の写真が、原宿で行われた展覧会に出品されていたのが2006年でした。
ここには岩を切り取ろうとした跡があります。あいている穴のことを矢穴(やあな)といいますが、ここに矢穴の数だけ襖(くさび)を打ち込んで、順番にたたいて徐々に岩を裂くように割る、昔からの手法の跡が尾道の岩には数多く残されています。”
厚木 鎌倉幕府御家人安達藤九郎盛長勧請「八幡神社」
鎌倉 常に粛然と静まっている「成就院」
尾道 生口島 ここはイタリア?「耕三寺 未来心の丘」
福山 鞆 石山合戦に参加した「明圓寺」
“ 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。
鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。
石山合戦は、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦いです。浄土真宗本願寺派は、武装もするし、非常に自主性の高く、横並びの感性が非常に高い集団だったそうです。”
鎌倉 四季花が絶えない美しい庭もある「光則寺」
尾道 駅前に海に続く公園「尾道駅前」
厚木 明治の先進民家「古民家 岸邸」
“ 厚木市古民家岸邸として開館されています。
古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。
随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。
今ではまったくありませんが。 ”
鎌倉 太田道灌の屋敷跡と伝わる「英勝寺」
“ 英勝寺は、鎌倉にある唯一の尼寺。1636年(寛永13年)に建立された。
開基は、英勝院尼で扇谷上杉氏に仕えた太田道灌の曾孫、太田資宗の娘。徳川家康に仕え、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった。家康が没すると、出家して名を英勝院とあらためた。そして、先祖の供養とみずからの後生のため、寺を開くことを幕府に申し入れ、1636年11月に仏殿が完成した。その後、代々、水戸家の娘が住持となった。
お勝の方(英勝院尼)の逸話。あるとき江戸城内で家康公が大勢の家臣たちとの雑談の折、「およそ食物のうち、一番うまいものは何じゃ?」とご下問があった。めいめい一番うまいものを言ったが、お勝の方は「塩でございます。およそ食物の味をひきたて、旨くするも、まずくするも、塩加減ひとつでございます」と答えた。料理で苦労した人でもあったのでしょう。”
尾道 裏山の岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」
鎌倉 江戸の増上寺に次ぐ学問所「光明寺」
“ 浄土宗の寺で、建長寺(けんちょうじ)・円覚寺(えんがくじ)などとならぶ鎌倉の大きな寺の一つです。
一時衰えたようですが、江戸時代に徳川家康(とくがわいえやす)が、浄土宗の学問所として関東の主な寺院十八寺を十八檀林(じゅうはちだんりん)という有名な学問所と定めたとき、光明寺は江戸の芝にある増上寺(ぞうじょうじ)に次ぐ学問所として選ばれ、大いに栄えました。また、光明寺は、家康などの将軍から寺領の寄進を受けただけでなく、大名の内藤家(ないとうけ)からも寄進を受け、内藤家の菩提寺(ぼだいじ)となってからは大名寺(だいみょうじ)としても栄えました。
広々とした境内の正面には、大殿(本堂)が建っています。1698年(元禄十一年)の建立。現存する木造の古建築では鎌倉一の大堂で、本尊阿弥陀三尊ほか諸仏が祀られています。”


















