鎌倉 太田道灌の屋敷跡に「英勝寺」

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 太田道灌の屋敷跡と伝える。扇ケ谷にある浄土宗寺院。鎌倉唯一の尼寺。山号は東光山。寺地は太田道灌の屋敷跡と伝える。開山は英勝院長誉清春。徳川家康の側室でお勝の局といい、太田康資の女(むすめ)。寛永十三年え(1636)開堂供養。第一世庵主は水戸頼房の女小良姫(清因尼)。以来、住持は水戸家からむかえたので、水戸様の尼寺とされた。仏殿・祠堂・鐘楼・庫裡・書院・宝蔵庫などのたたずまいは美事である。
(「鎌倉 趣味の史跡めぐり」[文献]『市史』社寺編、小丸俊雄『東光山英勝寺』より)

鎌倉 首つぎのぽたもち伝説の「常栄寺」

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 常栄寺は「ぼたもち寺」とも呼ばれて親しまれているが、なぜそう呼ばれるかといえば、文永8年(1271)9月12日の出来事にさかもぼる。幕府に捕らえられた日蓮が、片瀬の龍ノ口で処刑されるされそうになると、日蓮に帰依していた棧敷の尼が、ゴマのぼたもちを日蓮に捧げた。すると、形状に雷鳴がとどろき、稲妻がひらめき、刑吏の刀が折れ、日蓮は一命を取りとめたと伝えられている。

鎌倉 昔、多宝寺があった跡に「妙傳寺」

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 道路拡張によって東京都文京区白山にあったお寺を1974年2月に移転。
 紀州徳川頼房の祈願所として創建、戦災によって本尊、寺宝、寺史などを消失している。
 ここにはかって室町時代まで、律宗の多宝寺があった。裏山には石の造形物があるが、道が整備されていないようです。
 旧本尊は妙見北辰菩薩、現在は日蓮坐像。妙見北辰菩薩は 1945年(昭和20年)の戦災で焼失してしまったとのことです。妙見北辰菩薩は、源頼朝や日蓮が崇拝し、日蓮宗の寺院によくみられます。

鎌倉 [おんめさま]の名で親している「大巧寺」

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 「おんめさま」(おうめさま)の名で親しまれている安産祈願の寺。創建は1320年と伝えられています。
 本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。550年前の室町時代、難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を、当時の住職であった日棟上人が鎮め、安産の神として祀ったことから、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになった。
 境内にて 季節ごとに多くの種類の花々がさきます。

鎌倉 この世の花ではない紫陽花「明月院」

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 明月院を、多くの人が訪れるのは初夏の頃……紫陽花の咲く時分です。
 あじさい寺。の別称があるほど有名なこの寺のことですから、数百株の見事な、丹精こめた植え込みが、石の総門から始まって、老い朽ちた山門をくぐりだらだら上りに左折して本堂前の庭へくるまで、びっしりと左右に並んで夢幻のように花を咲かせます。
 まことに幽玄、閑雅、静識の極致。

鎌倉 五つの神社が一つに「五所神社」

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 この神社は、1908年(明治41年)に町内にあった三島(みしま)・八雲(やくも)・諏訪(すわ)・金比羅(こんぴら)・見女八坂(みるまやさか)の五つの神社を一緒にしてまつったものです。祭神は大山祇神(おおやまづみのかみ)・素戔嗚尊(すさのうのみこと)・建御名方命(たけみながたのみこと)・崇徳院霊(すとくいんのみたま)・天照大神(あまてらすおおみかみ)で、毎年6月の第2日曜には盛大な祭りが行われています。

鎌倉 日本三天神の一つ「荏柄天神社」

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 菅原道真公を祀る天神社。日本三天神の一つ。太宰府天満宮(福岡)と北野天満宮(京都)
菅原道真の死後、京都に伝染病が蔓延、雷の被害続出などの異変(“道真のたたり”と考えられた)を押さえるためだったのでしょうか。いまでも雷が鳴ると「くわばら、くわばら」と言う地域があります。桑原は菅原道真の領地、そこには雷が落ちなかったため、雷様に「ここは桑原ですよ」と教え、雷を落とさないよう願ったためだそうです。

鎌倉 正式名は由比若宮の「元鶴岡八幡宮」

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 元八幡は、相模守であった源頼義(よりよし)が京都の石清水八幡宮に戦勝を祈願し、前九年の役(1051~1062年)で、奥州の豪族の阿部頼時(よりとき)・貞任(さだとう)に勝って京へ帰る途中、1063年(康平6年)に鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移してまつって建てたと伝えています。
 後三年の役のとき、頼義の子の義家(よしいえ)が戦勝を祈り、社殿を修理したと伝えています。
 1180年(治承4年)、鎌倉を根拠地としで鎌倉幕府を開いた源頼朝が、現在の八幡宮がある元八幡と呼ばれていますが、正しい名は由比若宮です。
 元八幡は、源氏と鎌倉のつながりのできた初めです。この神社は、由比ヶ浜の八幡宮とも呼ばれていたようです。由比ケ浜の湾が、このあたりまで入り込んでいたといわれる当時の地形からみて、神社は海に面した海岸近くに建てられたと思われます。

鎌倉で初めて建てられた臨済宗のお寺「寿福寺」

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 鎌倉五山の寿福寺は鎌倉で初めて建てられた臨済宗のお寺で、頼朝が没した翌年の正治元年(1200)北条政子が栄西を招いて創建したお寺である。裏山には北条政子、源実朝の墓と言われる唐草やぐらがある。
 市内扇ケ谷の寿福寺背後の山。この山の各所に鎌倉石を切出した石切場があったことがら石切山と呼ばれた。鎌倉の山には他にも石切場が多いが、特に石切山の名が付けられているのはこの山だけ。

鎌倉 タブの木が枝を広げる「八坂神社」

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 八坂大神(やさかだいじん)は、扇ガ谷(おおぎがやつ)の鎮守の神で、昔は相馬天王といい、相馬師常(もろつね)が移してまつった京都の八坂神社の神と、相馬師常をまつっていました。師常は頼朝(よりとも)挙兵の際、父と共に頼朝を助けた人で、このあたりに住んでいたといわれます。
明治以後は八坂大神と改め、祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)・桓武天皇・葛原親王・高望王としました。

鎌倉 弘法大使が掘った?十六の井「海蔵寺」

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 扇ケ谷にあり、臨済宗建長寺派。応永元年(1394)上杉氏定(1374-1416)が氏満の命をうけて創建したと伝え、開山は大覚禅師五世の孫という心昭空外とするが、事績は不明。山号は扇谷山。寺は五山・十刹・諸山のどれにも列せず、はやくから建長寺の塔頭のようになっていた。『鎌倉志』に「天正ノ比ヨリ建長寺ノ塔頭二属ス」とある。詳しい寺史は編めないが、室町期の応永・永享のころ、扇谷上杉氏の外護のもとに栄えた様子が『関東合戦記』『永享記』などによって知れる。

鎌倉 目の神様「御霊神社」

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 もとは関東平氏五家の始祖、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされています。その後、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。
 後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。
 景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれている。例大祭には県の無形文化財に指定される「面掛行列」が行われます。

鎌倉 日野俊基卿の足跡を追慕「葛原岡神社」

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 葛原岡神社は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿をお祀りする神社。
 後醍醐天皇の鎌倉倒幕の計画の際、天皇とともに日野俊基も楠木正成を説得して味方にするなど、天皇をお助けしたが、1331年、計画が幕府に知られ、日野俊基が天皇をかばうため、捕らわれの身になった。その後、後醍醐天皇による幕府打倒計画は着々と進められ、皇子の大塔宮護良親王の指揮のもと、楠木正成、新田義貞らの活躍により、日野俊基卿が葛原岡の露と消えられてから約一年後の1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。

鎌倉 日朗らを幽閉した土牢跡がある「光則寺」

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 行時(ぎょうじ)山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時(ゆきとき)の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。江戸時代、古田重恒(しげつね)の後室大梅院日進(1669示寂)が寺容を再興したので、「大梅寺」「大梅院」とも称された。現在は山門・本堂(慶安三年(1650)建立)。庫裡などからなる。

鎌倉 平政子(北条政子)が創建した「白旗神社」

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 鶴岡八幡宮境内末社。祭神源頼朝・源実朝。例祭五月二十八日。他に八月九日一目実朝祭、十月二十八日文墨祭を行う。「天正修営目論見図」には本宮の西側に白旗社があり、明治十九年柳営社(源実朝)と合せて現在地に鎮祭した。白旗社については社伝によると正治二年(1200)白旗大明神の勅号を賜って、平政子(北条政子、北条政子という名は近世以降になってそう呼ぶようになったようです。1218年以降1225年までは、朝廷や寺社には吾妻鑑に記載されている「平政子」を名乗っていたと考えられる。)が創建、また源頼家の造立ともいう。鎌倉御所の年頭拝賀にはまず当社に詣でて、本宮を拝した。拝殿は車寄せ風の向唐破風造。川口市の鋳物師が鋳鉄で造った。

鎌倉 ぼたもち寺ともいわれる「法源寺」

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 法源寺は、ぼたもち寺ともいわれ、桟敷尼(さじきに)が龍ノ口の法難の日蓮にぼたもちを供養したといわれます。大町の常栄寺にも同じ話がありますが、桟敷尼の実家が腰越だったといわれます。
 開祖は日蓮の孫弟子である日行で、1318年(文保二年)に建てられた。
 境内はけっして広いとはいえないが、落ち着いた静かな寺である。墓地からは、腰越の町と湘南の海が見渡せる。

鎌倉 新田義貞ゆかりの「九品寺」

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 創建は1336年 九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西が開山。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。
1333年 新田義貞は5月8日自国を出発、徐々に軍勢を整え、鎌倉に攻め上った。5月22日 稲村ケ崎で“剣を投じて奇跡”を起し、そして一気に中心に向かって侵攻。材木座海岸からまわりこんで、この地に陣を構えた。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになった。
 北条方も勇猛に戦ったが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられている。『太平記』

鎌倉 関東での念仏道場の中心だった「光明寺」

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 この寺は、第五代執権の北条時頼をはじめ歴代執権の帰依が篤く、七堂伽藍の寺観を誇り、関東における念仏道場の中心となりました。後土御門天皇(在位1464~1500)より「関東総本山」の称号を受け、国と民の平安を祈る勅願所となりました。
 江戸時代には、徳川家康は光明寺を関東十八壇林の高位に置き、信仰と研鐙の根本道場となりました。十八壇林とは江戸初期に徳川幕府が定めた浄土宗の学問所です。
 また光明寺は浄土宗の「お十夜」で知られる寺で、十夜法要は第九世観誉祐崇のとき1495年(明応四年)にはじまりました。現在も古式に則って毎年十月十二日より十五日までの四日間に、盛大に法要が営まれています。

鎌倉 偉人にしては質素な「源頼朝の墓」

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 源頼朝は、治承四年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦二年(1185)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。
 正治元年(1199)に五十三歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。 現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪・が整備したものとされます。(説明看板より)

鎌倉 今宮神社ともいう「新宮神社」

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 境外末社で、今宮神社ともいう。
むかしは、「魔境にて、天狗ここに住むという」と旧書に記される。当時は八幡宮の境内からだいぶ離れ、深い森林の中であったのでしょう。
 祭神は後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇。
「承久の乱」(1212年)の朝廷側の人物たちで、幕府は勝利をおさめ、後鳥羽帝を隠岐へ、順徳帝を佐渡に配流し、両帝ともその地で歿した。また、土御門帝はみずから土佐、のちに阿波へおもむいた。