尾道 巨岩に不動明王が住む「不動岩」

190204a_hudouiwa.jpg

 浄土寺山の8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。
 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。
 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。
 浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。

尾道 東大卒の歌人「中村憲吉旧居」

190127a_nakamura.jpg

 中村憲吉はアララギ派のリーダーとして現代日本歌人の第一人者として短歌界に重きをなしました。(アララギは、正岡子規門下の歌人たちによって結成された短歌結社誌)
 1933年12月25日に病気の療養のために、おだやかな尾道の千光寺山中腹に転地し、1934年5月5日に亡くなった。斎藤茂吉をはじめとする多くの文人たちが見舞いに訪れたといわれています。
 ここでは、離れの建物のみ見学できる。中村の資料などは文学記念室の方で展示されています。

尾道 駅前に海に続く公園「尾道駅前」

190121a_ekimae.jpg

 1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられ、駅前に公園ができた。
 また、駅を降りすぐに見える尾道水道(瀬戸内海)は以前よりも広くなった。
 むかしは駅舎の正面に桟橋があり、その西に魚市場があった。
 そして、2019年3月10日、新たな二階建の駅舎が開業する。

尾道 民話 京都から来た仁王様「西国寺 山門」

190113a_saikokuji_mon.jpg

 この仁王門は、門中にまつられている二体の仁王尊像とともに室町末期の作で、仁王尊像の躍動感と、威厳を感じます。正面に下がる大草履は、健脚を願っての奉納と伝えられています。
 草鞋のかけ替えが2004年12月に行われました。
 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。
 西国一の大寺。今、徳島大学の学者グループで、この寺の「古文書」が解読されている。その中で、織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた、とあるそうです。

尾道 技芸が上達を願う「海龍寺」

190109a_kairyuji.jpg

 奈良の西大寺の定証上人が西国巡礼の途路、当時の曼荼羅堂といわれていたこの寺に住み、荒廃していた浄土寺を建立したと伝えられている。
 本尊は鎌倉末期のものといわれ千手観音菩薩である。山門の直ぐ右側に文化七年(1810年)の文楽之墓と文政三年(1820年)の竹本弥太夫の墓があるが、これは江戸の末期に尾道の浜問屋の檀那集が大阪から文楽師匠を招いて余暇を楽しんでいて師匠の死語追善供養の為建てたものである。


尾道 応神天皇休息の地に「亀山八幡神社」

190105a_kubohatiman.jpg

 応神天皇が即位22年(西暦291年)に淡路・播磨・小豆島を経て、尾道の当地に巡幸されたといわれている。海辺に玉子に似たひかり輝く石を御覧になり、亀の形をした小さな丘で休息。当地の里人はこの地に祠を建てて聖地として崇敬したとされている。
(応神天応は「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」とされています。)


尾道 文化財の宝庫「浄土寺」

181228a_jodoji.jpg

 聖徳太子が創建したと伝えられる。多くの文化財をがあり“寺の町尾道”の中でも由緒ある寺院として、訪れる人も多く、境内にハトがたくさんいます。ハトのえさを持っていると腕や手に飛んできます。
 足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名です。
 「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重文、境内一帯は国指定文化財に指定されています。
 裏の竹林には伏見城から移築したといわれる茶室 「露滴庵(国重文)」が寂然と建っています。
 ここの多宝塔(二重の塔)は日本の三大多宝塔の一つとされています。また、裏庭には茶室があり、わびさびの世界を漂わせています。

尾道 尾道一の絶景「浄土寺山山頂」

181226a_rurisan.jpg

 瑠璃山という別名を持つ山。山麓を瑠璃地区とも云っていた。
東西南北のすべて見渡すことができ、特に瀬戸内の島々の遠望がよい。ここまで登ってくる観光客はまづいない。地元の人でさえ、そんなには登ってはこない静かなところです。
 浄土寺山は“尾道の隠れた名所”といっても良い景色のよいところ。条件が良ければ四国山脈最高峰の石鎚山が一望できます。

尾道 清楚で風格のある「西郷寺」

181218a_saigoji.jpg

 1353年の開基。本堂・山門ともに国重文で、時宗の本堂形式としては他に比類のない名建築です。鎌倉時代末期の正慶年間、遊行六代一鎮によって開かれたと伝えられています。当時は「西江寺」と称されていました。
 本堂は文和2年(1353年)に発願され、時宗最古式の本堂として貴重なものです。堂内に「泣き龍天井」があり、手を打つと乾いた音が帰ってきます。


尾道 足利義光が宿泊した「天寧寺」

181202a_tenneiji.jpg

 1389年3月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ舟橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の饗応を受けた。1688~1703年に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になったが、1682年雷火のため全山消亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。


尾道 石段に職人の思いが込められた「御袖天満宮」

181128a_misode.jpg

 映画好きの若者ならみんな知っている大林監督の「転校生」で、一夫と一美が転げ落ちる石段。長さ5mもの1本石が54段も連なると実に美しい。残り1本をわざと継いだのは、石工の心遣い。さて、両側の石垣の勾配も、これは芸術的。
 石段を上がった右手には、天神さんのお使いの牛が鎮座し、拝殿左の池の向こう、大きな石の筆が立つ。右隣の一文銭の碑は、泥棒の疑いをかけられた若者が、天神さんに願を掛け、濡衣晴らしたそのお礼に建てたもの。


尾道 江戸時代尾道石工のノミ跡「済法寺磨崖仏」

181124a_sekibutu.jpg

 済法寺の裏山斜面に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。


尾道 日比崎にある石仏の山「竜王山」

181112a_ryuousan.jpg

 天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立している。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっている。
 竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場であった。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立する。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めている。

尾道 伝説:小僧さんと天狗さま「持光寺」

181108a_jikoji.jpg

 いつのころかずっとむかしのこと、持光寺に一人の可愛い小僧さんが京都の本山から修行にきていました。小僧さんは、毎日一生懸命修行にはげんでいましたが、遠くはなれた本山に早く帰りたいなといつも思っていました。しかし修行の道はきびしく、小僧さんが本山に帰れる日はなかなか来ません。小僧さんは修行で疲れたときは、お寺の山にある天狗岩に上がりました。そしてそばの大きな松の木に話しました。

尾道 瀬戸田「耕三寺 千仏洞地獄峡」

181031a_senbutudo.jpg

 千仏洞地獄峡 – 約350mに及ぶ地下霊場。仏教世界の地獄観・極楽観を描く。
 1961年から着工し、内部は富士山と浅間山から運んだ溶岩が積み上げてある。完成まで3年を要した大工事だったという。これだけの長さ、しかも、立体的な洞窟が境内にあるお寺さんは、ここが初めてです。
 洞内は「往生要集」を体感するための空間とされている。

尾道 鐘楼の横を入って行くと「正授院」

181027a_shojuin.jpg

 中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。  鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。

尾道 信長を呪い殺す“調伏”が行われた「西国寺」

181011a_saikokuji.jpg

 西国一の大寺。今、徳島大学の学者グループで、この寺の「古文書」が解読されている。その中で、織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた、とあるとのこと。
 パワハラ信長は、部下から将軍としての能力に疑問を持たれ、また、覇権を競う他の武将からも、将軍にふさわしくないと考えられていたのだろうか。

尾道 処刑された盗賊の首を祀った「海福寺」

181003a_kaifukuji.jpg

 「三ツ首様」は処刑された盗賊の首をまつったもの。1828年の頃、尾道地方に想兵衛・亀蔵・利助という三人の盗賊がいたが、一風変わった連中で常に貧者に施しをしていた。
 同じような伝説に、鼠小僧の義賊伝説があるが、鼠小僧は、江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯で、賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになったと伝わる。現在の定説は、「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」となっている。