尾道 猿づくしの気配「山脇神社」 祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。 興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配です。
尾道 浄土寺山鎖場下から(登山道経由)不動岩へ 鎖場の入り口の神社の前を過ぎ、狭い橋を渡り右に登ると、道は急になり、そのころから左右に点在する石の三十三槻音が稚拙ではあるが、ふと足をとどめさせ、単調な山道にうるおいをもたせひと息つかせる。 明治初期につくられ、境内にあつたものを、昭和四十五年の春観音にさいし頂上の峯の薬師まで適当な間隔においたもので浄土寺の新所を「観音こみち」と名付けてはと。「郷土の石ぶみ」(1973年 山陽日日新聞刊)より
尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」 外留学の先覚者土居咲吾が、この正授院でも英語塾を開いて後進を導いた。 土居咲吾は長尾幸作と云い、開業医長尾俊良の長男として天保六年(1835)に生れた。かねて父から洋学の優れていることを聞かされており、21才のとき京都の広瀬元斎に師事して蘭学を、さらに25才、江戸に下り坪井芳洲に学んだが、このあと独学で英話を修得、それで満足できず、勝海舟の卒いる咸臨丸へ便乗を許され、福沢諭吉らと共に万延元年(1860)我が国を発しアメリカに渡り英学を修めて帰国した。
尾道 墓地に猿の座像「福善寺」 守護大名山名宗全側近太田垣光景の子孫、但馬国城主太田垣因幡守の孫斐守が出家、名を行栄法印といい1573年尾道を訪れ久保町に道場を開き布教に勤めた。1630年現在地丹花の丘陵に寺を移し、本願寺直参末寺「一家衆」に加えられ旧九条関白家の菩提所格寺院となった。猿の座像 — 高さ65cmばかりの桃をかかえた日本猿の座像。剽軽な顔、肩から腰に流れる美しい線、軽妙なタツチ、石の街ではならの逸品。
尾道 童歌で“かたい門は持光寺”の「持光寺」 持光寺の石の門 「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」…童歌までに唄われた同寺の門はそのものズバリ、主体だけ17個からなる花崗岩を組みあわせトンネル状に築きあげた石の門。全巾が5m、奥行き3.5m、高さ3.5mで、通路が巾3m、高き2.8m。これだけの石を据え微塵の狂いを生じてないあたり、基礎に相当の配慮がはらわれているのだろう。約三百年前に建てられたものであろうが、当時の築構技術の粋をあつめた“石の町”ならでの逸品。(「郷土の石ぶみ」 明治31年5月10日創刊 山陽日日新聞社 より)
尾道随一の名水が湧く「正念寺」 時宗 来迎山引接院 正念寺 縁起 創建 天正二年(1574年) 開山 遊行三十一代 遊行上人 総本山 神奈川県藤沢市 遊行寺 時宗の開祖一遍上人の跡を継いだ歴代の上人は「遊行上人」と呼ばれ、全国を回って念仏の教えをひろめたので、各地に「時衆」と呼ばれる念仏集団生まれ、その遊場がつくられました。当山は第三十一代遊行上人によって闘かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発擢したといいます。
尾道 巨大なカラス天狗が住む「金剛院」 西國寺の仁王門をくぐり、西國寺本堂に通じる石段を登って行くと、ちょうど中間当たりの右手に金剛院があります。 金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っている。 永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物があります。
尾道 地元でも見知らぬ石仏の山「竜王山」 尾道には竜王山と名がつけられた山が5つあります。この日比崎中学校の上にある竜王山は、地元の人にもあまり知られていないようです。「蔵王権現」を中心とした修験道や密教に関わるの石仏が林立しています。急な石段で、しかも、その幅が狭く、枯れ葉などがあると滑りやすく注意が必要な場所ですが、石仏をひとつひとつゆっくりと見たいものです。
尾道 供出した鐘、無傷で戻った「浄泉寺」 鐘撞堂は享保八年(1723)九月に建立され、文政十三年(1830)三月 八世順盛代に修復され明治二十四年(1891)山陽鉄道開通にともない現在地に移建されました。 梵鐘は文政十年(1827)四月に鋳造され、口広三尺高さ六尺あります。 昭和十七年(1942)第二次世界大戦の折、金属回収令によって供出されましたが、昭和二十年(1945)終職後、岡山玉野の精練所で発見、無傷で返還されたものです。
尾道 2019年2月地蔵堂が放火された「海龍寺」 2019年2月19日午前2時10分頃、尾道市の寺で火事があり、地蔵堂など2棟が焼けました。けが人はいませんでした。「寺の地蔵堂が燃えている」と住職から119番通報があり、消防車5台が出動し、火はおよそ40分後に消し止められましたが、この火事で寺の地蔵堂と倉庫合わせて35平方メートルが全焼しました。本堂への延焼はなく、けが人はいませんでした。 本堂(ご本尊千手観世音菩薩)と阿弥陀堂(位牌堂)(ご本尊阿弥陀如来)は無事でした。 2019年3月7日、地蔵堂から仏像を盗み、放火したとして送検されました。
尾道 林芙美子著「風琴と魚の町」ー尾道ー 林芙美子著 「風琴と魚の町」より 蜒々(えんえん)とした汀(なぎさ)を汽車は這(は)っている。動かない海と、屹立(きつりつ)した雲の景色は十四歳の私の眼に壁のように照り輝いて写った。その春の海を囲んで、たくさん、日の丸の旗をかかげた町があった。目蓋をとじていた父は、朱(あか)い日の丸の旗を見ると、せわしく立ちあがって汽車の窓から首を出した。「この町は、祭でもあるらしい、降りてみんかやのう」 母も経文を合財袋(がっさいぶくろ)にしまいながら、立ちあがった。………
尾道 新しくなった「尾道駅」 今日(2019年3月10日)から、尾道駅が新たらしくなり、開業記念に「記念入場券」が9時より販売されました。せっかくでしたので列の後ろに並んでみましたが、二列の列が1時間たっても30~40mほど進んだだけでしたので、購入を諦めました。二列の列が1時間に40mほど進むというのは、かなりの好記録なのでしょうか? もしかしたら、世界記録かも、と思いながらひとつの思い出が出来ました。
尾道 天保の大飢饉、救済事業として本堂の改築「慈観寺」 本堂は、天保の大飢聾の際に、慧善事業とし豪商橋本竹下(ちっか)が出資して建築されたもの。入母屋造、本瓦葺(平瓦と丸瓦を交互に使う)の二重屋根を持ち、虹梁や蟇股(かえるまた・柱や屋根の重さを支える部材)には忙ぎやかな彫刻が施されている。 江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本・竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、1834年工を起し1837年竣工したのが現在の本堂である。竹下はこの工事に難民を人夫として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。
尾道 巨岩に不動明王が住む「不動岩」 浄土寺山の8合目あたりに巨石が「不動岩」です。巨岩に不動明王が刻まれています。 不動明王は、真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。 密教の根本尊である大日如来の化身で「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれており、特に日本において根強い信仰を得ております。真言宗では大日如来の脇待として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もあります。 浄土寺山の麓に真言宗の浄土寺があり、不動明王を刻み込んだのでしょうか。
尾道 東大卒の歌人「中村憲吉旧居」 中村憲吉はアララギ派のリーダーとして現代日本歌人の第一人者として短歌界に重きをなしました。(アララギは、正岡子規門下の歌人たちによって結成された短歌結社誌) 1933年12月25日に病気の療養のために、おだやかな尾道の千光寺山中腹に転地し、1934年5月5日に亡くなった。斎藤茂吉をはじめとする多くの文人たちが見舞いに訪れたといわれています。 ここでは、離れの建物のみ見学できる。中村の資料などは文学記念室の方で展示されています。
尾道 駅前に海に続く公園「尾道駅前」 1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられ、駅前に公園ができた。 また、駅を降りすぐに見える尾道水道(瀬戸内海)は以前よりも広くなった。 むかしは駅舎の正面に桟橋があり、その西に魚市場があった。 そして、2019年3月10日、新たな二階建の駅舎が開業する。
尾道 民話 京都から来た仁王様「西国寺 山門」 この仁王門は、門中にまつられている二体の仁王尊像とともに室町末期の作で、仁王尊像の躍動感と、威厳を感じます。正面に下がる大草履は、健脚を願っての奉納と伝えられています。 草鞋のかけ替えが2004年12月に行われました。 西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 西国一の大寺。今、徳島大学の学者グループで、この寺の「古文書」が解読されている。その中で、織田信長を呪い殺す“調伏”がこの大寺で行われた、とあるそうです。
尾道 技芸が上達を願う「海龍寺」 奈良の西大寺の定証上人が西国巡礼の途路、当時の曼荼羅堂といわれていたこの寺に住み、荒廃していた浄土寺を建立したと伝えられている。 本尊は鎌倉末期のものといわれ千手観音菩薩である。山門の直ぐ右側に文化七年(1810年)の文楽之墓と文政三年(1820年)の竹本弥太夫の墓があるが、これは江戸の末期に尾道の浜問屋の檀那集が大阪から文楽師匠を招いて余暇を楽しんでいて師匠の死語追善供養の為建てたものである。
尾道 応神天皇休息の地に「亀山八幡神社」 応神天皇が即位22年(西暦291年)に淡路・播磨・小豆島を経て、尾道の当地に巡幸されたといわれている。海辺に玉子に似たひかり輝く石を御覧になり、亀の形をした小さな丘で休息。当地の里人はこの地に祠を建てて聖地として崇敬したとされている。(応神天応は「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」とされています。)
尾道 文化財の宝庫「浄土寺」 聖徳太子が創建したと伝えられる。多くの文化財をがあり“寺の町尾道”の中でも由緒ある寺院として、訪れる人も多く、境内にハトがたくさんいます。ハトのえさを持っていると腕や手に飛んできます。 足利尊氏が九州平定や湊川の戦の際、戦勝祈願をした寺としても有名です。 「本堂」「多宝塔」は国宝、「山門」「阿弥陀堂」は国重文、境内一帯は国指定文化財に指定されています。 裏の竹林には伏見城から移築したといわれる茶室 「露滴庵(国重文)」が寂然と建っています。 ここの多宝塔(二重の塔)は日本の三大多宝塔の一つとされています。また、裏庭には茶室があり、わびさびの世界を漂わせています。