1936年から伽藍の建立が始められた新しい寺院で、日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び、「西の日光」とも呼ばれる。このうち、山門・本堂をはじめ15の建造物が国の登録有形文化財として登録されている。また、仏像、書画、茶道具などの美術品・文化財を多数所蔵し、寺全体が博物館法による博物館となっている。
このお寺さんは、見慣れたお寺さんとはかなり印象が違います。日本に仏教の布教を始めた当時の様子を、想像できると思います。仏教を普及するにあたっては、ディズニーランドのような手法が必要だったのでしょう。当時の庶民の住居は掘っ立て小屋のようなもので、今と比べれば、圧倒的に貧しい生活でした。そこに、このお寺さんのような夢の国をつくり、人々を引きつけ、仏教を普及拡大し、なおかつ、人々を精神面で救おうと考えれば、このような派手さは当然だったと思います。
現在、ほとんどのお寺は、“過去”で生きており、“古いもののやすらぎ”を売り物にし、それで“よし”でやっています。派手さを批判する人も多いとは思いますが、この島の経済を支え、檀家なしで、「お寺ビジネス」として成功している姿は、評価されてもよいと思います。
ただ、一人になって安息を求めお寺さんに行く人には、あまり収穫がないのかもしれません。
1957年4月、このお寺から尾道に帰る瀬戸田航路で、沈没事故がありました。約230人を乗せた第五北側丸が、船底を岩に乗り上げ沈没し、113人が死亡した事故がありました。
当時は定員を守るということはなく、島の海水浴場へ行く船などは、足首まで海水に浸るまで乗船させていました。そのため、サンダル履きで乗船していました。親も、船に乗ると救命具の場所を子供に確認させていました。
この北側丸の事故以降、「数取器」でカチカチと乗船する人数を数えるようになりました。