尾道 旧市街がよく見える「海徳寺」

 1926年10月12日の早暁、不幸大火のため全山焼亡、1928年現在地に移転新築しました。
 むかしは、防地川河口にありました。広大な境内を有する通称「沖の道場」と呼ばれ、市の発展につれて周辺に民家が建ち並び、境内が広かったので、サーカス興行や相撲の興行があって、名力士常陸山、梅ヶ谷、太刀山、鳳などの勇姿も見られたそうです。
 その頃は、本堂の東側に一本の古松があって、竜神がその梢に燈明を献じるというので、その松は「竜燈松」と呼ばれていたそうです。
 一遍上人が諸国遊行の途中、尾道に草庵を結んで念仏勧進されたのにはじまると言われています。

尾道 昔から船着場があった「海の駅」

 海の駅とは、国土交通省により登録された、一般利用者に開かれた船舶係留施設(マリーナ)のことで、ヨットやボートの停泊設備です。
 「海から、誰でも、いつでも、気軽に、安心して立ち寄り、利用でき、憩える」ことをめざしています。
 ここは、住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。
 ここの「海の駅」は、食堂や売店の施設はありません。ホテルや食堂、商店街が近いので、停泊施設以外は造らなかったのでしょうか。

尾道 心願成就の守り本尊の日限地蔵「大山寺」

 古くから「天神坊」とも呼ばれ、西隣の御袖天満宮との深い関係をしのばせている。開基の詳細は不明であるが、平安時代の初期、空海(弘法大師)入唐(803年)の頃には既に開かれていたと伝えている。
 901年菅原道真が太宰府へ流されるとき尾道に船を寄せたという話は、当地では有名な伝説である。これはこの寺にも深い関係がある。1069~1073年頃に、西国寺の慶ばんが多くの末寺を建てているが、この寺もその頃興されたものと思われる。
 寺に祀られている日限地蔵は心願成就の守り本尊として参詣祈願する人が多い。

尾道にこんなところが「日比崎 石仏群」

 この竜王山は広島県尾道市日比崎町にある山で標高144.6mです。(尾道市には「竜王山」という名前の山が5つもあります。)
 そこに、天狗や蔵王権現・不動明王など修験道や密教に関わるの石仏が林立している。この地も「さびしんぼう」のロケ地となっている。
竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場であった。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる石仏などが数十体、林立する。石鎚山は役行者が開いた神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めている。

尾道 一畑薬師如来も祀る浄土寺「薬師堂」

 方三間、宝形造、本瓦葺の開山堂です。「延命薬師如来」、「一畑薬師如来」を祀る薬師堂となっています。
 「一畑薬師如来」は、出雲の一畑山頂にある臨済宗「一畑寺」に祀られる薬師如来と関係があるのでしょうか? 浄土寺は真言宗泉涌寺派なのですが、泉涌寺は「密・禅・律・浄」の四宗兼学の道場としての歴史があるので、禅寺である一畑寺であっても関係があってもおかしくはないのでしょう。
 浄土寺歴住墓の灯籠には「出雲国 堅田定五郎忠成」と刻まれたものがあり、出雲との繋がりが深いため、「一畑薬師様」という通称で呼ばれている、特に目のお薬師様として信仰されている薬師様にいらっしてもらったのでしょうか。

尾道 “重軽さん”の金剛院「金毘羅大権現」

 金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っています。
 永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物があります。
 天狗の原点ついては、『日本書紀』に猿田毘古神について、鼻がきわめて長く、背も高く、目は鏡のように輝いていたとあり、この姿から天狗のイメージのもとになったともされています。神々の道案内をするという役割は、のちに方角の神、旅の神、道の神という信仰を生みだしました。そのため集落の境や道の分かれ目などに道祖神として祀る例も多くなりました。

尾道 金堂の保存修理で間違いが「西国寺」

 ここの金堂の保存修理工事では、建物の右側の側面の戸と左側の側面の戸をめぐって、戸を右前に並べるか、それとも左前にするか、それをめぐる話があります。
 金堂の左右側面の戸は、舞良子(まいらこ)と呼ばれる細い桟が一定の間隔で取り付けられています。こういう側面にある戸は、中世までの建物では、左右の戸が建物の正面から見て対称になっていることがよくあります。右側の側面の戸が右手前に並び、左側の側面の戸は左手前に並ぶことです。
 西国寺の金堂の左右の舞良戸も右側面は右手前に並び、左側面は左手前に並んでいました。
 ところが、保存修理を終わってみると、左右とも右手前に戸を並べてしまっていたのです。建具を担当した職人が、引き違いの戸は右手前と思い込んでいたため、こういう間違いが起きてしまったのです。

尾道 間借りしていた三軒長屋「志賀直哉旧居」

 志賀直哉が1912年から1913年にかけて間借りしていた三軒長屋。
 志賀直哉は、夕方になると八坂神社があるあたりの歓楽街に出かけ、帰ってくるのは明け方だったとか。
 長屋のとなりのおかみさんに家事などの面倒を見てもらっていたとか、そのおかみさんのご主人は、「あの遊び人の面倒などみるな!」と言っていたとか。
 そのおかみさんのためにか、尾道でガスを引いたのが2番目に早かったとか、そんな話が残っているようです。

尾道 蛇が神さまの使い「辨天神社」

 「辨天」は「べんざいてん(弁才天)」の略。
弁才天は七福神のなかで唯一の女性、美と才能、財宝を生み出す女神、弁天(べんてん)(弁財天、弁才天)です。もとは「水のカ」を象徴するインドの女神サラスバティーです。
 「弁才天・辯才天」(「弁(辯)才」は 梵 Sarasvatī (サラスヴァティという女神の訳語) インドの神の名。聖河の化身という。
 室町時代以降は、弁財天が七福神の一神に加えられて福徳財宝をつかさどる神様として崇められるようになり、とりわけ江戸時代になるとその人気が大いに盛り上がりました。

尾道 京からお連れした仁王さん「西国寺山門」

 寺の山門に怒った顔をして立っている仁王像は、ふつうペアをなしており、一方は口を大きく開き(それを「阿(あ)」形(ぎょう)といい)、もう一方は口をへの字に結んでいる(それを「吽(うん)」形(ぎょう)という)。
 仁王は金剛力士とも呼ばれ、仏法を守護し邪悪をしりぞけるために寺の入口に立っています。一体の仁王像もありますが、ペアの仁王像では一方は「阿」形、もう一方は「吽」形の姿で表現されます。山門に安置される仁王像は、向かって右に「阿」形、左に「吽」形というのが一般的です。

尾道 紫田勝家の弟?が再興した「法然寺」

 

 法然上人(浄土宗の開祖)が、四国に御流罪になったとき(鎌倉時代の初め、今から八百年余り昔)、その徳を慕われた後白川法皇のの皇女 如念尼(にょねんに)公は、この島の南側、御寺(みでら)の光明坊にご来寺になって、讃岐(現在の香川県)から上人をお招きになりました。
 上人は当地に庵を結び、御寺までお通いになって九十日の間、如念尼公に說法、ご教化されたと言われています。

尾道 西国寺伽藍配置で最南端部に造営?「熊野神社」

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西国寺山南先端部にある水尾町にある神社です。
 日本最古の伽藍様式の大阪四天王寺の伽藍配置でも最南端部に造営されているのが熊野権現です。 むかしの西国寺を想像した時、この配置にも何らかの意味があるのでしょうか。
 古く江戸時代から続く水祭りが復活したようです。旧水尾町(現久保)に伝わる夏祭りで、水細工人形を陳列し、水尾町の豊かな水源を慶ぶ熊野権現神社の祭祀です。からくり人形をで水細工の場面がつくられ、人形の手の先から水が噴水のように吹き出します。

尾道 捨身往生の歴史がある「信行寺」

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 1214年に浄土宗第二祖の聖光が開いた寺で本尊は阿弥陀如来。元は聖光が向島の三ツ石に一草庵を結んで住んだのがはじめである。
 1596~1614年に住職称住がこの草庵で四十八夜( 阿彌陀如来が法蔵比丘と称した修行時代に、一切の衆生を救うために立てた四八の誓願。無量寿経に説く、四十八の大願)念仏修行をしたとき、その満願の暁方、阿弥陀如来の来迎に逢い、結集と共に入水往生したが、その時結集の中の一人は現世に残ってこの庵を相続せよというので、行欣が残ることになり、1603年現在地の下の山陽線路上の辺に移った。
 1891年山陽鉄道が開通したので、堂舎を現在地に移した。

尾道 中世時宗の特徴をよく表している「常称寺」

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 鎌倉時代の後期の正応年間(1288~1293年)に、時宗二祖真教上人によって創建されたと伝わる古刹である。神奈川県藤沢市清浄光寺を本山とする。
 1340年に足利尊氏が七堂伽藍を建立するも、本堂だけを残して焼失、その後再建と焼亡を重ね現在に至る。 現存の本堂は、室町中期の建築で、外観を和洋、内部構成を禅宗様とし、内陣・外陣と脇陣を一体空間とするなど、中世時宗の特徴をよく表している。 南北朝時代の作、重要文化財「紙本白描遊行上人絵伝」が伝わるなど、多くの寺宝が現在に伝わっている。
 中世時宗寺院は全国的に遺存例が少なく、そのなかでも室町時代の遺構が3棟も残っている例は希少。

尾道 明治時代に英語塾があった「正授院」

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 1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
 江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
 この寺の了般は累進して増上寺四十二世の法主となり大僧正に昇爵した。  鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせた五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。

尾道 俗に一宮さんといわれる「吉備津彦神社」

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 寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。
 第十一代垂仁天皇の時代のこと、朝鮮半島の百済からやってきた温羅(うら)なる鬼神が吉備(美作・備前・備中・備後、現在の岡山県と広島県東部)にたどり着き、住みついた。温羅は瀬戸内海を航行する船に海賊行為を行い、婦女を掠奪するなど、乱暴狼藉をくり広げていた。
人びとは恐れおののき、都に訴え出てきたので、朝廷は吉備津彦を遣わし、温羅を成敗したという。

尾道 尾道随一の名水“延命水”の「正念寺」

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 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
 時宗の開祖一遍上人の跡を継いだ歴代の上人は「遊行上人」と呼ばれ、全国を回って念仏の教えをひろめたので、各地に「時衆」と呼ばれる念仏集団生まれ、その遊場がつくられました。当山は第三十一代遊行上人によって闘かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発擢したといいます。

尾道 お店の裏の神社と関連は?「磯の辨天神社」

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 遠い昔、長江が文字どおり長い入り江であった頃、この一帯は海辺だったので、磯の弁天と呼ぶようになったそうです。今は建物の陰にひっそりと残っています。
 現在の神社はあまりにも小さく、昔からこの狭さであったとは思えません。横のお店の裏側に名前もいわれも不明の神社があります。この神社と関係があるのでしょうか?
 この不明の神社は現在もお祭りをしているようですが、近所の人や市役所に聞いても情報はありませんでした。

尾道 天寧寺から信行寺の途中に「幸神社」跡

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現在は「幸神社跡」の石碑しかありません
 由緒あるこの社殿も文明奪中(1469~1487)に再興され、当時は旧暦四月十二日に祭礼が行なわれ、当夜は町内の道路を通る婦女子の尻を捻ってもよいという奇習から賑わいをみせ、造り物も盛大であったが、明治にいたり尻捻りの風習はなくなり、また飾りものも大戦勃発とともに姿を消してしまった。
 さらに神社まで引っ越しと云う憂き目をみたが、敬神の念深い近くの中村鶴造、浅井鶴松、岡千代蔵の三人が発起人となり、地理的にも意義のある同社の位置を示す「幸神祉跡」の石碑を物資乏しい昭和二十三年に建立したもの。

尾道 自然石に彫られた羅漢達「済法寺裏山 石仏群」

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 済法寺の裏山斜面の自然石に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
 十六羅漢とは、お釈迦様の弟子で特に優れた代表的な16人の弟子を十六羅漢といいます。仏教を護持しようと誓ったとされる弟子達です。羅漢は阿羅漢の略で,供養に値する人という意味です。