熊野神社付近は、古くから「熊野の森」といわれ、大きな木がたくさん生い茂っていました。渡辺畢山が厚木を訪れた際に描いた厚木六勝図の一枚に、「熊林ノ暁鴉」(熊野の森に明け方群がる鴉)があり、これはここの風景を描いたものです。この絵から人家もまれだった当時の様子がわかります。
(注)乳状下垂……古いイチョウによく見られる状態で、幹や太い枝の表皮に一部が乳房のように垂れ下がったもの。
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厚木 血から生まれた剣の神を祀る「春日神社」
1415年勧請、1706年再興。
祭神:武甕槌命(たけみかずちのみこと)
相殿:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)
祭神の武甕槌命は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)の首を斬り落としたときに、流れ出した血から生まれた剣の神とされています。
厚木 火を司る火之迦具土大神を祀る「秋葉神社」
秋葉神社は、火伏の神として全国に400社ほどあり、総本宮は静岡県にある秋葉山本宮秋葉神社です。祭神は火を司る火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)でです。明治までは秋葉大権現といわれる仏教寺院で、秋葉山三尺坊が信仰を集めていました。
秋葉三尺坊大権現が火伏の神として全国的になるのは徳川綱吉の頃からで、秋葉山三尺坊が火伏に霊験あらたかとして宣伝されてからです。秋葉講が組織され、とくに火事の多い江戸では多くの秋葉講が結成されて、町の各所に秋葉山常夜燈が設置され、家々の軒下には秋葉大権現のお札が張られるようになりました。大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになって全国各地に広がっていきました。
厚木 今も興廃を繰り返えしているのか「松石寺」
弘法大師が荻野富士(華厳山)と称する山頂付近の岩に経文を記した石を納めたことがことが起源とされている寺院。
寺院はその山のふもとにあってもと華厳山乗碩寺といった。その後興廃を繰り返したが、天正時代徳川家康は当寺を訪れた際寺の由来を聞いて感じ、松平と経石をからめて松平家が石のように堅固に栄えるようにと短歌を読んだ。その後この寺を松石寺と改称した。
「幾千代もかはらて松の栄えかし みのりの石のいはほならへて」-(家康)
この寺の現状は、少し荒れた状態になりつつあるのか?
厚木 生活様式の変化を見る「古民家 岸邸」
厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます。
古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
厚木 奈良時代に創建「七沢観音寺」
七沢字観音谷戸2741番地の奥まった所にあり、奈良時代後期元正天皇7155~723)のころ創建と伝えられます。その後土御門天皇の時不幸にも野火にて焼失し廃寺のままであったが、日向一ノ沢の浄発願寺の中興開山、木食空誉禅阿上人が七沢鐘ケ嶽に創始した禅法寺と共に開山された天台宗の寺です。
愛川町 かって五十余の院・坊があった「八菅神社」
かって山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があって相模の国峰として盛えていた。
八菅山縁起によると日本武尊が東征のおりにこの山を望み見て、山容が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。
また、703年、修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、忽然として「池中に八本の菅が生えたことから八菅山の名が起こり、709年には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたという。
しかし、明治の神仏分離令により光勝寺は廃され七社権現は八菅神社と改称、今日にいたっている。
厚木 駒込の吉祥寺の末寺「龍鳳寺」
祥雲山龍鳳寺は曹洞宗江戸(東京都)駒込の吉祥寺の末寺です。
大州安充禅師(本寺二世)により享禄三年(1,530)開創じされました。開基となったのは地頭床左近太夫で、境内に墓があります。
床左近太夫は命により、何人といえども境内や山林に入り竹木伐採などをなす者は、軽重にかかわらず罪科に処すべきとの誓令を発し、境内山林の風致を維持し、今日まで幽静な寺院としての景観を伝えています。
厚木 安達藤九郎盛長が勧請した「八幡神社」
八幡神社は三田村の鎮守です。「新編相模国風土記稿」によれば、安達藤九郎盛長が勧請したと言い伝えられているとあります。本殿の規模は桁行(問口)6尺、梁行(奥行)5尺を測り、一問社流造としては荻野神社に次ぐ大きさです。
建築年代ぽ残された棟札(むなふだ)から元禄3年(1690)とみられます。
朱塗りを基調として、彫刻や組物などは極彩色としています。
厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」
最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して正福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。 律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
厚木 美女神の木花咲耶姫命を祀る「子安神社」
子安神社の創立は不詳でありますが、古社調査事項取調書(明治二十九年(1896)によれば文明十八年(1486)以前の創立であります。
祭神は木花咲耶姫命(美女神として有名)が祀られておりますが、配祀祭神(主祭神にそえてまつる神。ふつう主祭神と縁故の深い神をまつる)として豊宇気命と須佐之男命が祀られております。
古社調査書によれば、境内地には稲荷神社があり祭神は宇加之魂命が祀られておりました。
厚木 小野小町の生誕地か?「小野神社」
この神社は、延長五年(1194年)の「延喜式」巻九に「相模国式内社の内愛甲郡一座小野神社」と書かれています。
現在の拝殿は、嘉永元年(1848年)に建てられ、わら葺屋根でありましたが、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮なり延喜式に載(の)りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神下春命(したはるのみこと)という」とあります。
厚木 巨石が掌を合わせた「大釜大弁財天尊」
広沢寺温泉入口の駐車場より1km程行った所に大釜弁財天があります。3m余りの巨石が2つ、掌を合わせたように並んでおり、奥行4mの内部には七沢石で造った蛇の宇賀神(文政5年銘、とぐろを巻いた形)と高さ60cmのほこらの中にはいった弁天様が祭られています。その2つの巨石に前面には渓流が勢いよく流れ、直径1m50cmの一の滝壺、3m40cmの二の滝壷で渦となり次の1m50cmの滝壷、2m80cmの滝壷、2m50cmの滝壷へと巨岩を縫って落下しています。昔は7つの滝壷があり荘厳な眺めであったということです。
厚木 信玄出陣の際お堂が兵火に「妻田薬師院」
睦合地区妻田の北端に、楠を交えた森があります。小字を白根といい、薬師堂が建てられています。この薬師堂は、妻田薬師と呼ばれ、もともと古義真言宗の白根山東光寺遍照院という別当寺が管理する仏堂で、古くから近隣の人々の厚い信仰を受けていました。
目の病に効く薬師堂として、妻田地区など近郊の人たちの信仰を集めています。この薬師堂がいつ頃建立されたのかはっきりしないのですが、一説によると奈良時代ではないかと言われています。江戸時代に書かれた「妻田薬師縁起」によりますと、伝説と史実を織り交ぜる面白い話が数多く残っています。
厚木 相模観音霊場二十七番札所だった「聖眼寺」
寺院の由来と歴史」
聖眼寺(しょうげんじ)は上三田の才戸橋南側の県道から、山の根の長い参道を入った奥に観音堂が建立されています。昔は観音堂の左手に本堂と庫裡がありましたが、今は存在しません。
江戸時代には相模三十三観音霊場の二十七番札所として観音信仰で栄えていた寺院です。寺は三田寺と呼ばれ、参道入口の門塔に「當国二十七番三田寺」と彫り込まれています。
厚木 多くの古い石仏がある「金剛寺」
807年(大同2年)に弘法大師によって建立されたと伝わる。古くは、七堂伽藍の備わった寺院だった。飯山観音の入口ともなっている小鮎川に架かる朱塗りの橋は「庫裡橋」と呼ばれ、金剛寺の庫裡に向かって架けられていたといわれている。
鎌倉時代には、鎌倉の覚園寺や金沢の称名寺とも繋がりのある律宗寺院として栄え、相模国の華厳学研究の拠点としても栄えた。 天文年間(1532~1554年)に曹洞宗に改宗され再興されている。
厚木 本殿は最古で最大の「荻野神社」
荻野神社は、かっては石神社と呼ばれ、「新編相模国風土記稿」によれば、自然石を御神体とし、牛頭天王(ごずてんのう)を合紀し、荻野三村の鎮守で社領三石の御朱印は天正19年(1591)に附されたとあります。また銀杏樹(いちょう)は神木であると記されています。
厚木市内ではもっとも古く、かっ規模の大きい社殿です。桁行(間口)9尺、梁行(奥行)6.7尺で内部は前後二室に分かれ、前室は板敷、後室は土間のままです。
厚木 六斎市(門前市)が栄えた「法界寺」
北条氏直が荻野郷の地頭松田康長に命じて造営。秀吉の小田原攻めの際、兵火にかかり以前のような繁栄は失われたことが相模国風土記稿に記されている。
(北条 氏直(うじなお)は、相模国の戦国大名で小田原城主。後北条氏の第5代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原攻めで、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。)
その後、近世初期、僧党誉の中興もあり壮大な寺容を誇り、六斎市(門前市)も栄えた。
愛川 田代の半僧坊と呼ばれている「勝楽寺」
半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。
半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。
禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。
厚木 地蔵様の伝説がある「広沢寺」
ある雪の積もった朝、七沢の豆腐屋が家の前を見ると、山に向かって誰かの足跡が付いていた。「こんなに朝早く来た人もいるもんだ」と足跡をたどって行くと、広沢寺奥の地蔵堂の所でとまっていた。主人は豆腐を置いて帰ってきた。
その夜豆腐屋の夢の中に地蔵様が現れ「私は及川村のある寺におった地蔵だが、及川村は豆腐屋がなくこの七沢にやってきた。これからも頼む、そのかわりこの村に来る疫病を追い払ってやる」村の人々はこの地蔵様を豆腐地蔵と呼び、毎日毎日豆腐を上げお参りし、みんな長生きをしたそうな。