松石寺の歴史は古く、寺に伝わる縁起によれば平安時代初期の大同年間(806~809)に、後に弘法大師と呼ばれた空海が33歳の時にこの地に来て、起立華厳経の経文の一文字ずつ小石に書き写した。その小石を国家鎮護の為として裏山の頂にあった盤石に収め、この地に一宇を開いたのがこの寺の始まりという。
その後は「華厳山乗碩寺」と号し律宗の寺院として続いていたが次第に衰微していき、鎌倉時代に入ると荒廃していた。南北朝時代の貞治4年(1369)に雲血由(ウンシュウ)律師という僧によって寺の再興が成り、その寺号も林徳院に変わった。
室町時代中期の広山白陽律師の代に、曹洞宗を開いた道元の子孫にあたる天巽(リン)慶順に寺を譲ったことにより、それまでの律宗から曹洞宗に改宗して寺号も創建当初の乗碩寺に戻して開創したのであった。
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厚木 おひな様が飾られている「古民家 岸邸」
厚木市古民家岸邸として開館されています。古民家岸邸は、郷土に残された貴重な文化遺産として、皆さんに公開しながら長く保存をしていきます、と。
古民家は、当時の生活を色濃く伝えるものです。生活のスタイルが大きく変化してきた現代では、ますます注目されてきています。随所で見られる、職人が手をかけて作った凝った意匠も一遍ではなく、建築当時の時代の先端的な様式を併せ持ち、家を作った職人の技と、家を守ってきた人々の営みを感じてみてはいかかでしょうか。
明治時代になってこのあたりで養蚕業を始められた岸家。絹の輸出で立派な建物を建てることが出来ました。このあたりは桑の木がたくさんあったそうです。今ではまったくありませんが。
厚木 その昔、草競馬の催された「長谷寺」
厚木 廃仏毀釈の影響が大きかった「龍鳳寺」
厚木 学問・音楽・除災・至福の「大釜大弁財天尊」
厚木 戦国毛利氏の祖 季光ゆかりの「光福寺」

最初は浄土宗で教念寺と称したが、後に廃絶して光福寺となった。
鎌倉幕府の頃の創建で、開山は隆寛律師。律師(1148~1227)、字は皆空(また道空)無我)は以前は天台宗だったが、後に法然上人の浄土宗に移り念仏を説いて継承、法然上人入寂(1212)の祭は五十七日の同士をつとめた。が、比叡山の宗徒の反発“念仏宗の集団化をおそれての弾圧”を受けて、安貞元年(1227)に流罪に処せられた。
毛利庄(今の厚木市内)の領主毛利季光(すえみつ)入道西阿は送領使となったが、隆寛に帰依きえし奥州喜多方へ送る途中、毛利庄に移し飯山の郷に匿かくまい住ませたという。身代わりには弟子・実成じつじょうという僧が送られるが、入寂を知って飯山に駆けつけ、隆寛律師遺骨を喜多方・願成寺に分骨・埋葬した。
厚木 足利尊氏の位牌と宝篋印塔「聖願寺」
厚木 信玄が出陣したとき兵火にあった「妻田薬師院」
薬師堂のある地名は、白根といいます。言い伝えによれば、良弁(ろうべん)という僧がお堂で休んでいて夢を見ました。東の方を見ると、庭の大楠が灯籠になり、お堂は昼のように明るくなりました。良弁が身を清めようとして池の側へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がりました。そこでこの地を白根と呼ぶようになったそうです。
境内の楠は、県指定の天然記念物で、戦国時代の1569年、武田信玄が小田原を攻めた帰り道、夜中に軍を進めるためにこの木に火を付けて灯りとしたという話も伝えられています。
また、この薬師については、源頼朝の側室丹後の局が正室・政子の嫉妬によって命を狙われた際に、局を救うという働きをしています。局の薬師如来信仰の賜であるという伝承になっています。
厚木 小野小町の生誕地か?「小野神社」
この神社は、延長(えんちょう)五年(1194年)の「延喜式(えんぎしき)」巻九に「相模国式内社(しきないしゃ)の内愛甲郡(あいこうこおり)一座小野神社」と書かれています。
現在の拝殿は、嘉永(かえい)元年(1848年)に建てられ、わら葺(ぶき)屋根でありましたが、、昭和四十三年に鉄板蓑きに替えられました。本殿は拝殿よりも1mほど高い地面に神明造(しんめいづく)りで造られています。「新編相模国風土記稿」に「閉香明神社(かんかみょうじんやしろ)、村の鎮守(ちんじゅ)なり延喜式に載(の)りし小野神社、当国十三社の一(いつ)にて祭神(さいじん)下春命(したはるのみこと)という」とあります。
明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)も加えられました。それは日本武尊が東国の賊(ぞく)の征伐(せいばつ)に向かった際、野火(のび)の焼きうちの苦難にあうという「古事記(こじき)」に記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。
厚木 多くの石仏が隠れる「金剛寺」
厚木 創建当時は昼なお暗い地だった「宝泉寺」
厚木 日蓮上人配流のとき逗留した「妙伝寺」
妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。
日蓮上人配流に際して、無量光寺開祖一遍上人は、当所觀音堂に来て日蓮上人と謁見、以来無量光寺と当寺とで音信を取り合っていたと伝えられています。また、小田原北条家からも寺領を安堵され、江戸期には幕府より寺領7石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領していましたが、不受不施派の取り締まりにより廃寺となりかけたところを、茨城県加倉井妙徳寺の住僧日遥が当寺23世となり中興したといいます。
厚木 平家の落ち武者が祀った「春日神社」
厚木 弘法大師の伝説、荻野川「秋葉神社」
厚木 日蓮上人配流のとき逗留した「妙純寺」
この地は、鎌倉時代に依知郷一帯を支配していたされる土豪の本間六郎左衛門重連の代官屋敷があったといわれる場所である。 妙純寺に伝わる縁起によると、鎌倉時代末期の文永8年(1271)9月に幕府の迫害を受けた日蓮上人が、佐渡に流される際に本間屋敷に数日滞在して「星下りの奇瑞」を現したという伝説が残されている。
日蓮が書いたとされる「種種御振舞御書」に相模の依智の本間六郎重連の館で、日蓮が月天に苦言をいうと「天から明星のような大星がおりてきて梅の木にかかった」とあります。
「星下り」伝説を伝える寺院は三つありますが、これらの寺が建っている場所はかって本間氏が館や屋敷を構えていた所といわれています。あえて特定するよりも謎のままでもよいのでは!
厚木 雨乞いの行事をした「白山神社」
厚木 「星下り寺」とも称される「妙伝寺」

妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依しました。
日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建しました。
日蓮上人配流に際して、無量光寺開祖一遍上人は、当所觀音堂に来て日蓮上人と謁見、以来無量光寺と当寺とで音信を取り合っていたと伝えられています。
厚木 地蔵様の伝説がある「広沢寺」
厚木 水害に合い現在の地に移された「厚木神社」
厚木 温水(ぬるみず)の阿弥陀様「専念寺」
“ 温水(ぬるみず)の阿弥陀様(南毛利地区)
昔、聖徳太子は、尼寺ヶ原に一乗尼寺というお寺を建てました。それから数百年たった鎌倉時代、源頼朝の妻・政子が、衰えていた一乗尼寺を再建しました。
ところが建長四年(1252)の夏、寺は火災にあって全焼してしまいました。その時です。ひとかたまりの真っ赤な炎が空を飛んで、少し離れた池の中に落ちました。村人が不思議に思って池に近寄ってみると、池の中ほどに、一乗尼寺の本尊である阿弥陀如来が光り輝いて立っているではありませんか。池に手を入れてみると水が温んでいました。村人はこの様子を見て、これは仏様のありがたい思し召しであると思い、ここに寺を建て、専念寺と呼びました。この池は「光温池」として残っています。
また、池の水が温んだことにちなみ、この地を温水というようになりました。
【出典】『あつぎ子ども風土記』『厚木の伝承と地名』”