本堂(国重文)は清楚で風格のある美しい姿。
700年の風雪を経た今も、清楚で風格のある美しい姿。
建築家・安藤忠雄さんがこの「本堂の屋根の傾斜がいい」と言われたとか。
堂内に「泣き龍天井」があり、手を打つと乾いた音(ビーンーのような)が帰ってきます。小学生の頃、子供会を本堂で行ったことがあります。
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守護大名山名宗全側近太田垣光景の子孫、但馬国城主太田垣因幡守の孫斐守が出家、名を行栄法印といい1573年尾道を訪れ、当時この地方には浄土真宗がまだ広まっておらず、行栄は近郊の住民に医業を施して生業(なりわい)とし、その傍(かたわ)ら久保町に道場を開き念仏布教を行っていた。
行栄の子念西の時代になってやっと真宗の教線が開かれ、尾道での総道場を開くことを許され、土堂町寺小路(尾道市土堂二丁目の村上医院西側の石畳の小路)に一宇を建立して福善寺と称した。 寛永七年(1630)、第三世行尊の代になってこの福善寺を現在地(尾道市長江一丁目)の丹花(たんか)の丘陵に移した。本願寺直参末寺「一家衆」に加えられ旧九条関白家の菩提所格寺院となった。
橋本家は、江戸期から尾道を代表する豪商として知られ、尾道市街地の中で広大な当地は橋本家の別荘であり、爽籟軒と言われていました。橋本家は江戸期に代々町年寄を務め、田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られています。
また橋本家は、重要文化財浄土寺方丈建立(1690年)をはじめ、神社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業(1834年慈観寺本堂建立)を行い、更に1878年には県内初の銀行である第六十六国立銀行(現広島銀行)の創業、尾道商業会議所の創設(1892年)など、近代産業や諸機関の普及、育成に尽力しました。
こうした江戸時代の茶園文化を伝える爽籟軒庭園は、尾道を代表する庭園として知られ、年間を通じて茶会が行われ、毎年、10月第2土曜日は夜間特別公開として、尾道灯りまつりにあわせ、優雅な姿を公開しています。また、今年はしまのわ大茶会として、10月19日に爽籟軒でも茶会が行われます。
(尾道市東京事務所便り 平成26年9月号より)
「五重塔から三重塔へ」という珍しい塔
ここには珍しい三重塔があります。当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。建立は1388年(嘉慶2年)。三重塔に姿を変えたのは、それから300年後の1692年(元禄5年)のことでした。
本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上か
ら心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
(「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)
祭神は大山津美之神(おおやまつみのかみ)山の神とも云う、神仏混淆の影響でむしろ山王大権現として親しまれています。また、かっては榎の大樹があり、榎神社とも称されました。
祭日は、祭神が猿を神使いとするとこらから、旧暦四月の中の日であったのですが、戦後しばらくして、その日に近い五月半端の土曜日を当てるようになりました。
興味深いのは、狛犬に変えて猿の石像、そして、拝殿の四隅(稚児棟)にも、それが見えます(現在は正面の二ヶ所)。最近、更に、備前焼の猿像の寄進が加わり、また、猿の絵馬がかかるようになり、まるで猿づくしの気配なのですが、先述の如く、この祭神が猿を従使とする特色を持ったことからきた庶民の機知の反映でもあるのでしょう。
2020年に閉館となった志賀直哉旧居(三観長屋)ですが、文化交流施設として復活させる企画が始動したようです。
志賀直哉は父との確執で東京を離れ尾道に来ました。その理由は推測ですが、足尾銅山の鉱毒事件が関係していると思います。
尾道では、別子銅山(愛媛県新居浜)の鉱毒対策の話し合いが、大阪の住友と愛媛の関係村長が、交通的には真ん中である尾道で行われたことが理由なのでは、と思われます。これが、日本での最初の公害対策であったようです。
西國寺の仁王門をくぐり、西國寺本堂に通じる石段を登って行くと、ちょうど中間当たりの右手に金剛院があります。
金剛院の境内には香川県琴平町の金刀比羅宮に向かって金毘羅大権現の社が建っている。
永保3(1083)年の開基と伝えられ、願い事をして、軽く持ち上がれば願いがかなうと言われる「重軽さん」と呼ばれ石造りの三体の天狗石や、巨大なカラス天狗の作り物がありました。
金剛院は新しく建て替えられたのですが、「金毘羅大権現の社」は一昨年には危険な状態になっていました。今はどうなっているのでしょうか?
鼓岩(つづみ岩)、別名ポンポン岩と呼ばれ、岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がします。
右側の岩の傷は大阪城築城の時、石垣材として搬出すべく割りかけたノミの跡だといわれています。
【鼓岩とお姫様】という民話があります。
戦国の世、千光寺山には木梨山城主(木ノ庄町)杉原氏の出城「権現山城」がありました。
城にすぐ近い南の山道にある大岩は、お姫さまや、若君のこの上ない遊び場でした。
大岩は、優しい奥方さまやお姫さまが大好きで、お城から聞こえてくる琴や鼓の音に、うっとりと聞きほれていました。
コロコロ コロコロ コロリンシャン、
ポン ポンポン ポン ポンポン
大岩は毎日が宴のように楽しい気分でした。…………
“ この岩の垂直面に尾道で最大の磨崖仏、不動明王が刻まれています。
この岩上からの眺めは、多くのカメラマンが訪れるフォトジェニックな場所です。小津安二郎(おずやすじろう)監督(尾道を舞台にした「東京物語」の監督)のファンであるドイツのヴィム・ヴェンダース監督もここを訪れ、カメラマンである婦人の見事な景色の写真が、原宿で行われた展覧会に出品されていたのが2006年でした。
ここには岩を切り取ろうとした跡があります。あいている穴のことを矢穴(やあな)といいますが、ここに矢穴の数だけ襖(くさび)を打ち込んで、順番にたたいて徐々に岩を裂くように割る、昔からの手法の跡が尾道の岩には数多く残されています。”