駅前にこんなに広い空間を公園にするという発想が、どこから生まれて来るのでしょうか。古くから尾道に住んでいる人にとっては違和感がないのでしょう。
しかし、他の都市はバスやタクシー乗り場以外は商業スペースになっています。
古くからの商業都市の尾道、駅前にしては広大とも言っていい公園スペースを許す文化があるのですね。
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尾道 裏山の岩に彫られた十六羅漢「済法寺裏山」
済法寺の裏山斜面の自然岩に多くの磨崖の羅漢像が刻まれています。 済法寺の裏山の一面に広がる巨岩に、釈迦如来座像を頂点として、4段ぐらいの岩群に、光背状に彫りくぼめて半肉彫りする十六羅漢磨崖仏があり、江戸時代の尾道石工の技術の切れをノミ跡に見ることができます。
ただし注意が必要です。見学用の道がないので山で遊んだ経験のある人はともかく、山遊びの経験がない人は、双眼鏡など準備して下から見てください。特に枯れ葉が落ちている(残っている)シーズンは、滑りやすいので注意してください。
尾道 1935年より建立した瀬戸田「耕三寺」
“ 大阪の元実業家耕三寺耕三が、昭和10年より建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。
お母さんが旅行に行けないためか、堂塔伽藍は奈良・平安時代の浄土教の寺院を参考に建立されています。
仏教を日本に広めるために奈良時代や平安時代当時のお寺を彷彿させる賑やかさがあります。
そして、有名な堂塔の建築様式の建築された当時の姿をを一挙に見ることができます。”
尾道 尾道で最初にできた神社「艮(うしとら)神社」
艮神社は尾道で最初にできた神社で、806年の鎮座です。806年というと平安時代の初めで、千光寺と艮神社は創建の年が同じになっています。
同時期にこんな大きな神社と山にへばりつくような寺が建てられたのです。千光寺の工事はさぞ大変だったのでしょう。しかし、なぜこんなに近くに同時に大きな寺と神社を建てなければならなかったのでしょうか。
艮神社は大宝山(千光寺山)を背にして建てられています。参拝者はちょうど大宝山を拝する格好になります。艮神社と千光寺は何か関連があるのでしょう。
尾道 幕末芸州藩が派兵し、この寺を本陣にした「妙宣寺」
“ 幕末の風雲急を告げる1867年の末、芸州藩は片岡大記を大隊長とする一個大隊を派兵し、この寺を本陣として尾道を鎮め東の福山藩に備えた。この寺は尾道地方に数少ない幕末維新の史跡である。
慶応三年(1867)十五代将軍徳川慶喜は内外の情勢を察し大政奉還を断行。このとき芸州藩は尾道の重要性を認め、片岡大記を隊長として一箇大隊の兵を海路尾道に送り、また意気たからに長州藩の鉄砲隊もくりこみ寺院に分宿、目と鼻の先の福山に徳川の譜代衆阿部氏と対峙した。尾道には官・幕双方の密使やスパイが入り乱れ一触即発の危機をはらんでいた。そのような緊迫状態のなかで芸州藩の支隊が西国寺にも駐屯した。また、血気はやる地元民などで結成された隊士らが、乱暴をはたらき刑に問われたものもある。
(尾道は、大半が芸州藩、東の外れ側が福山藩(井伊直弼の一つ前の老中首座が阿部正弘で、福山藩の藩主。) ”
尾道 「おどり念仏」を今に伝える「正念寺」
“ 当山は第三十一代遊行上人によって開かれた念仏道場です。堂宇の創建には覚阿という時衆が力を発揮したと言います。
本堂に安置する阿弥陀如来像は、全国的にも珍しい半跏座木像で、鎌倉期の趣があります。尾道市の民族文化財に指定されている「下陣の格天井の彩色画」、延命地蔵堂に安置されている「木造地蔵菩薩立像」があります。
また、今も境内に滾々と湧く「延命水」は尾道随一の名水です。
「おどり念仏」を今に伝える当山は、まさに時宗の町寺というべき存在と言えるでしょう。
尾道市には奇跡的にも未だ六カ寺の時宗寺院が存在しております。”
尾道 元は天台宗でしたが浄土宗へと改宗「光明寺」
834~847年、円仁和尚の草創といわれています。元々は天台宗のお寺でしたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏の従軍僧だった道宗雙救上人が今川貞世と共に、光明寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
室町時代には村上水軍の信仰を集め、1588年、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」により武士を捨て回漕問屋へと生業を変えた後も檀家として寺を支えました。
海上鎮圧令(海賊取締令・海賊停止令)とは、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が倭寇に対し
①豊臣氏に従い、大名となる
②豊臣政権の大名の家臣となる
③武装を放棄し、百姓になる」。
この3つを迫った政策です。
尾道 昔も今も、海も街も近い「尾道駅」
1891年(明治24年)11月3日 – 山陽鉄道が福山駅から延伸し、その暫定的な終着として開業。旅客・貨物の取扱を開始。
1906年(明治39年)12月1日 – 山陽鉄道の国有化により国有鉄道の駅となる。
1999年(平成11年)に駅前再開発が行われた。駅舎は古い景観を保ったが、そのほかは様相が一変し、近代的な商業施設やホールが建てられた。
2019年3月10日 新しく建てられ変えられ改行した。駅のデザインは1937年ころの駅舎に似たデザインとなった。
《尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市》
尾道三山と対岸の島に囲まれた尾道は、町の中心を通る「海の川」とも言うべき尾道水道の恵みによって、中世の開港以来,瀬戸内随一の良港として繁栄し,人・もの・財が集積した。
その結果,尾道三山と尾道水道の問の限られた生活空間に多くの寺社や庭園,住宅が造られ、それらを結ぶ入り組んだ路地・坂道とともに中世から近代の趣を今に残す箱庭的都市が生み出された。迷路に迷い込んだかのような路地や、坂道を抜けた先に突如として広がる風景は,限られた空間ながら実に様々な顔を見せ、今も昔も多くの人を惹きつけてやまない。
(「日本遺産認定の認定結果」文化庁 より)
尾道 千光寺山頂から千光寺へ「文学の小路」
千光寺公園の山頂からつづく尾道ゆかりの作家、詩人の尾道ゆかりの林芙美子・志賀直哉・正岡子規など25名の作家・詩人の詩歌・小説の断片等をつづる静かな散歩道。点々と続く自然石に刻まれた文学碑です。
彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、刻まれた詩歌の中から聞こえてきます。
彼らが愛した尾道の風景、そこに住む人々の心が、碑に刻まれた詩歌の中から聞こえてきそうです。
尾道 信行寺から 天寧寺へ「幸神社跡」
【伝説 幸の前の尻つめり】
天寧寺下に「塞之神社」がありました。「幸之神社」ともいわれ、この神社前一帯を幸の前と呼んでいました。
むかしこのあたりは海岸で、尾道港の中心地だったところです。千石船の出入りも多く、いつもたくさんの人出でにぎわって繁盛していました。
塞之神社は建武年間に建てられました。文明年間(建立より百五十年後)になると、お宮はあちこちこわれ、雨もりがするようになったそうです。
ある夜のこと、氏子の孫右衛門が寝ていると
「孫右衛門よ、孫右衛門よ」
と呼ぶ声がして白髪の老人が現れ、
「私は幸の前の塞之神である。いたんだ社の修理をたのむ。修理して祭りをしてくれれば、幸の前の氏子たちに末長く福をさずけるであろう」
と告げました。・・・・・・
尾道 艮神社から天寧寺塔「猫の細道」
尾道には「猫の細道」と名づけられた小道があります。
生きている猫の他に、猫を書いた石が所々にあります。作家の園山春二先生によって生み出されものです。
福石猫の作り方は、日本海の荒波に長い年月もまれ、丸くなった石を拾ってきて、約半年間塩抜きをし、その後、特殊な絵の具で三度塗り重ね、作り上げていくそうで、福石猫が完成されるまでには、約1年もかるそうです。
ひとつひとつ丹念に作られていき、最後に艮神社でお祓いをうけ、晴れて福石猫となって、尾道に住んでいるのです。
縁起物の中の横綱といえば、それは招き猫。招き猫の置きものは江戸時代、江戸で誕生したようですが、どのようにして生まれたのかははっきりしていません。
天明年間(1781~89年)、江戸両国の二つの妓楼(ぎろう)(本所回向院(ほんじょえこういん)前、一つ目弁天前)で、大きな招き猫を店頭に飾りました。それが評判になり、妓楼は大いに繁盛したといいます。一説に、これが招き猫の起こりとされているのです。
尾道 古寺巡りコース「持光寺 → 光明寺へ」
「古寺巡礼コース」になっています。少し遠回りになりますが、も少し上を回って行くこともできます。
尾道の山裾巡りは、坂や石段が多いのですが、景色の変化と住まいの変化(生活感)が感じられ、楽しむことが出来ます。
また、石垣が多いので、どんな石積をしているのか、注意してみることもできます(そんな人はあまりいないですけど)。
尾道 裏山に岩に刻まれた仏像群が「済法寺」
旧市街から見ると、ちょっと離れた西側にあります。
境内に入っただけでは気がつかないのですが、裏山にある“岩に刻まれた仏像群(磨崖仏)”は見もの、特別な世界観を作り出しています。
墓地がある斜面には、数多くの仏像か岩に刻み込まれています。ただし、お墓があるところより上は道がありません。双眼鏡などで見ることをおすすめします。(このあたりは花崗岩が風化した大きめの砂粒が斜面にあり、枯れ葉も多く、かなり滑りやすいのです。このような道のない斜面を歩きなれた人以外は、登らない方がよいでしょう。)
尾道 干満潮の差は3mを越る「昔の船着き場」
昔の船着場です。
このあたりは大潮だと3mを越える干満のさがあります。人力で荷揚げするため、船と岸の段差を少なくするために階段状になっています。
このような船着場があると、津波で動力が失われクレーンなどの荷揚げ装置が動かなくなったときでも、人力で荷揚げができますね。
秋の大潮近くに台風が来ると、このあたりの道路は、下水道を逆流した海水で覆われるそうです。
尾道 浄土寺山鎖場下(鎖場経由)から不動岩へ
浄土寺山の鎖場です。一番鎖、二番鎖、三番鎖と、山頂に向かって三ヶ所の鎖場があります。
この「くさり」は、四国石鎚山に参詣できない人々のために石鎚山修験道の縮小版として、修験者の修行の場を海龍寺の裏山に設けた、と言われています。
真言宗の開祖空海は、「自分が学ぶ上代の俗典は、俗事のことばかりであり、人の一生が終わってしまえば何の役に立つものではない。
この際、俗典の勉学はやめて、真実の教えの源を尋ねることに越したことはない」と、山岳修行者になられて、吉野の金峯山、四国は石鎚山、阿波国の大滝嶽、土佐国の室戸崎などで山岳修行に励まれました。
室戸崎では、ついに虚空蔵菩薩の化身である明星が身中に飛び込んで一体となるという神秘体験を得て、虚空蔵求聞持法を成就したという。
尾道 日限(ひぎり)地蔵尊「大山寺」
心願成就の日限(ひぎり)地蔵尊として日を限って日参し、一心にお願いすれば願い事がかなえられます。特に受験シーズンになると合格祈願のため大勢のお参りがあります。
鎌倉にある安養院にも石造地蔵菩薩の像が安置されていて、「日限地蔵」の別名で信仰されている地蔵様があり、こちらでは「定めた日数内に願い事をかなえてくれる」とされています。
尾道 お茶子娘の供養かんざし燈籠「八阪神社」
この神社のお祭りで、勇壮な喧嘩神輿の三体廻しが、渡し場、中央桟橋前、浄土寺下の三ケ所で行われていました。昔は非常に激しく、御輿を海に投げ込んでいる場面がありましたが、いまはどうなっているのでしょうか?
この付近は、「新街」と呼ばれる飲み屋街。横道に入り込むと「迷路」です。しかし、どこかで広い道に出ますので、まあ、なんとかなります。しかし、酔っ払っているとどうなるかな?
志賀直哉が尾道に住んでいた頃は、この界隈を遊び回っていたのかな?
尾道の花街の人通りの激しい店先で、酒臭い乞食坊主が寝ているので迷惑この上ない。その人が俳人の種田山頭火であったとか。
尾道 大きな反りの豪快な鳥居「亀山八幡神社」
注目したのは、鳥居上部の笠木、島木が一本物の石から創られている事と、反りの大きさである。普通島木部分は柱間において直線であるが、この部分までが大きな反りが付けられている点である。創られた時代は、亀山八幡宮の鳥居が萬治二年(1659年)と支柱に彫り込まれている。八幡宮鳥居支柱に刻まれた文字を読むと、大工石屋与七郎、小工石屋助六、石屋中と有り棟梁与七郎、助六を中心に石工集団で創っている事が伺える。笠木島木が一本物の石で、巾約20尺5寸(6.15m)反りが大きく、豪快で力強く両翼を上げた迫力満点の鳥居で、横綱の不知火型の土俵入りをイメージして創られたのではないかと、推測したい。
尾道 三人の義賊、三つ首様をを祀る「海福寺」
【民話 海福寺の三つ首さま】
江戸時代の終わりごろ、尾道は凶作が続き悪い病気もはやり、世の中は騒然としていました。おまけにどろぽうや追いはぎまでも出没して、人々の心は安まることがありませんでした。
どろぼう一味の首領格と思われる者に、惣兵衛、亀蔵、利助というのがいました。この三人はどろぼうといっても、金持ちからお金や品物をうばい、貧しい人たちに恵んでいたのです。
ところがとうとうこの三人が捕えられました。
三人は文政十一年神無月(旧暦十月)の二十六日、木枯らしのふく寒い日に、処刑されることになりました。………
尾道 ピラミッド型に積まれ無縁仏塚「正授院」
1394年の開基で、もとは禅宗であったが、1596~1614年純誉によって浄土宗に改宗された。本尊は阿弥陀如来。1698~1703年の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。
江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、五代将軍綱吉やその母桂昌院にも上申して、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊碑、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。
このお寺さんの鐘楼のそばを奥の方に入っていくと、ちょっと意外な場所を発見します。見過ごしてしまいそうなところを発見するとわくわくします。