年を重ねると、いろいろな目の力が落ちてきます。やはり筋肉と同じように鍛えることが必要なのでしょう。
また、自分の思い込みの蓄積から、いつの間にか、見たいものしか見なくなっています、きっと脳は楽をしたがっているのでしょう。
「視点を変える」といいますが、確かに違った見方ができれば、新しいものが見えてきます。その新しい刺激で、サボりたがりやの脳を働かせましょう。認知症予防のためにも!
5月 2022のアーカイブ
尾道 海雲塔とも呼ばれた「天寧寺三重塔」
当初は五重塔だったのですが、その後、四重と五重の傷みが激しくなったため、四重と五重を取り除いて、三重の上に新たに屋根をかけ、三重塔に姿を変えているのです。
本当に最初は五重塔だったのだろうかと疑う人もいるかもしれませんが、まず、五重塔の姿で描かれた古い時代の掛け軸が残っている。それに加えて、この三重塔は心柱が下まで通っている。五重塔では心柱を下まで通しますが、三重塔では初重の上から心柱を立てるのが普通です。梁の上に心柱を立てるのです。
なぜ、五重塔として修復せずに、三重塔に変えてしまったのか、その理由はよくわかりませんが、五重塔として再建して、再び四重、五重が傷んでしまったら困ると考えた人がいたのかもしれません。いずれにしても珍しい塔です。
(「宮大工と歩く千年の古寺」(松浦昭次著)より)
「貧すれば鈍する」ということわざ!
「貧すれば鈍する」、貧乏すると世俗的な苦労が多いので,才知がにぶったり,品性が下落したりする、という意味なのですが、その通りです。
少しでも心に余力ができるとすれば、家庭菜園をすることです。戦後の食糧不足の時、それまでの庭が、畑に化けて、少しは心に余力ができていたのでしょう。
田舎暮らしができる人は、野菜などを少しでも自作することで、心に余力も少しはできてきます。
大災害や戦争など(そのような時代は来て欲しくはないのですが)の心構えは、必要な時代になりつつあるのでしょうか?
厚木 源頼朝の側室丹後の局を救った「妻田薬師院」
妻田の薬師堂のある地名は、白根といいます。言い伝えによれば、良(ろう)弁(べん)という僧がお堂で休んでいて夢を見ました。東の方を見ると、庭の大楠が灯籠になり、お堂は昼のように明るくなりました。良弁が身を清めようとして池の側へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がりました。そこでこの地を白根と呼ぶようになったそうです。
境内の楠は、県指定の天然記念物で、戦国時代の1569年、武田信玄が小田原を攻めた帰り道、夜中に軍を進めるためにこの木に火を付けて灯りとしたという話も伝えられています。
また、この薬師については、源頼朝の側室丹後の局が正室・政子の嫉妬によって命を狙われた際に、局を救うという働きをしています。局の薬師如来信仰の賜であるという伝承になっています。
仕事の受けとめ方は千差万別!
楽観的に考えることができるか、悲観的に考えてしまうか、その考え方で、その時の人生を決めてしまうのでしょう。
楽観的に考えることができれば、いろいろと前向きに考え、努力することができます。たとえ失敗しても、なにかしらの財産になります。
悲観的に考えてしまうと、心の重荷が増えていき、なかなかその重荷を下ろすことができなくなり、ときにはカウンセラーの力を借りて、重荷を下ろすことになってしまいます。
その時の状況を、冷静に・ありのままに、「そうなのか」と、状況把握をするところで済ませ、良否は判断しないこと。悲観的にならずに、何かしらの対策案を考えることにつながるのでしょう!
福山 「鞆の大仏」とも阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」
永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。
仏教の世界では、東の方には薬師さんの仏国土があり、西の方には阿弥陀さんの仏国土があるといいます。
江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。
その土地の風土を反映した食べ物!
SDGsが叫ばれる時代、やはり、産業革命以降の時代は、人類にとって厄介なものだったという反省のようです。
快適さを求め、便利さを求め、そして、うまいものを求め、ついには燃料を地下にまで求めるようになりました。そして、モノが地球上のあちこちに運ばれるようになりました。
自然の神を大切にしてきた日本でも同様です。一度手に入れた快適さは、手放すことは難しいですね。せめて「地産地消」は心がけたいですね。健康にもいいようですから!
鎌倉 四条金吾の屋敷跡に「収玄寺」
1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。
日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。
日蓮が開眼し改宗したのは慶長五年(1253)、日蓮32歳の時。比叡山延暦寺で天台宗を修めた日蓮はその後、奈良、京都のいろいろな宗派のお寺でも学び、法華経にたどりつく。そして、生まれ故郷の安房の国で開宗する。蓮長という名を改めに日蓮と名乗った。
心は庭と同じ、雑草がはびこらないように!
自由を求め、社会のいろいろな規制から解放されることを望むのですが、規制がなくなると、自己管理がされているかどうか、周囲から評価されるようになります。
地域風土によって異なるのですが、かなり厳しいテストを無意識にしている地域もあります。
むかしから港町のように、多くの人々が出入りしていた地域はそれほど厳しくないようですが、閉鎖的な農村地帯では、厳しい所もあるようです。
自由とは、その引換えに、社会からテストを受けることになることを、肝に銘じておくことも大事ですね!
尾道 出雲街道を横切り、善勝寺から御袖天満宮へ
むかしは、出雲街道が左から来て、正面に向かってL字型に曲がっていた箇所です。「左いづも往来」の石碑があります。出雲街道を使って、石見銀山から尾道まで陸路で「銀」が運ばれていました。
御袖天満宮へ登っていく途中に井戸があります。尾道では井戸のそばに石仏が置かれています。夏場は、飲み水の確保が難しかったのです。上水道ができた後も、1960年頃までは、夏場に断水になることもときどきありました。
体は毎日毎日生まれ変わっている!
免疫は食事や生活スタイルで、差が出てくるのですが、エアコンなどを使った生活は、免疫に対してプラスなのか、マイナスなのか、どうなのでしょうか?
太陽光も関係しているのでしょう。ウクライナのように、生まれて間もない時期に、2ヶ月も地下にいると心配ですね。
生物としてのヒトは、文明国よりアフリカのほうが進化している可能性があると、いう人も出てきています。地球環境が激変し、今までの生活スタイルが保てなくなった時、生き残るヒトはいるのでしょうか? どこのヒトなのでしょうか?
座間 欽明天皇の御代に創祀せられた「鈴鹿明神社」
鈴鹿明神社は、遠く第二十九代欽明天皇の御代(539?~571?)に創祀せられたという。伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。また天平年間にこの地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と言った(正怠院文書)ところから、時人が王の御名を冠して鈴鹿の字名が発祥したとも推察される。
鈴鹿明神社は、往古、東南西方平坦な水田で、その中央ー丈余りの高所に、はるばる大洋を望むかの如く鎮座していた。境内は船の形をし、数十の樫の古木が繁茂し、参道中央に銀杏の大木があって、さながら船の帆の様であった。その遠景を人は「舟形の森」「樫の森」と呼んで親しんだが、今はその銀杏もなく、地形も変動して面影はない。
江戸時代、海外と交流していました!
江戸時代の人口は3千万人程度なのでしょう。このときは国内生産ですべてまかなえた時代。
また、1980年代の前半、円相場が250円程度の時は、製造業は部品作りを含めほとんど国内生産でした。
ウクライナの戦乱影響のニュースで物価の値上がりを見ると、国内生産の大事さを改めて考えさせられます。
SDGsが叫ばれている現在、地産地消をできるだけ拡大し輸送燃料の節約、そして、むかしの八百屋や魚屋さんの売り方……売れ残りになりそうなときは、料理方法や、ときには下ごしらえをし売れ残りが出ないようにする……といった売り方、そういったものが、新たなアイデアを付け加え復活するとよいのですが。
もちろん、今でも地方の一部にはそのようなものが残っているのでしょうが!
江の島 閻魔大王が鎮座する石窟「延命寺」
明治、大正、昭和と大雨があり、今の延命寺の上の方、頂上まであったお墓が崩れ、現在の形になったようです。
くり抜かれた岩盤の入り口付近にお地蔵さま、少し奥には閻魔さまがおわせられ、洞窟奥には整然とお墓が並んでいます。
たびたびの崖崩れした墓地。墓石も遺骨も誰のものか判らなくなり、それらを祀るためる石窟を造り、納骨堂にしました。
閻魔大王が鎮座している石窟の奥が納骨堂になっています。
大成功してしまったが、後が怖いなア!
日本の武将のお墓が高野山に数多くあります。生前の行為に対する罪滅ぼしなのでしょうか?
鎌倉もそうですが、武将がお寺を多く建立しています。これらもある意味、悪いことをしたということに対するお詫び、また、自分が地獄に行くことを避けたいためなのでしょうか?
よく言われることですが、「悪いことをしていると自覚しながら、悪いことをするのはまだ良い」、最悪は「良いことをしていると思って、悪いことをする人」と言われています。
プーチンさんは、「良いことをしている」と思っているのでしょうね!
鎌倉 北鎌倉駅方面の街並みが良く見える「八雲神社」
境内には清明石なるものがある。昔は十王堂橋を渡った道路の真ん中にあったらしい。この石をわざと汚したり、踏みつけたりすると祟りがあるという。しかし、この石を知らずに踏むと足が丈夫になり、足を痛めた人は石を清水で洗い、塩や線香をあげて拝むと治るとも言われたという。道路工事のため八雲神社に移された。清明とは平安時代の陰陽師安倍清明(あべのせいめい)のことであろうが、鎌倉には火事と清明にまつわる話が残されている。治承4年(1180)10月に鎌倉に入部した頼朝は、当初山ノ内にあった知家事兼道なる人物の館を移築してそこに住んだという。この家は「晴明朝臣鎮宅の符」があったため200年間火災にあっていないという由来があったという。山ノ内には安倍清明の屋敷があったという言い伝えがあるが、明確ではない。
江戸の身近な菓子は饅頭だった!江戸の身近な菓子は饅頭だった!
饅頭には面白い話しがあるのです。諸葛孔明が、荒れ狂う川を鎮めるため、人の生け贄がいるとの話を聞き、人の代わりに、大きな人の頭に似た饅頭をつくり、川の神にささげたという話など。
いまでは温泉饅頭のように、おみやげの饅頭が多いのですが、食べ物にお話がプラスされると食べる楽しみが増えますね。
「きびだんご」にプラスされた「桃太郎の伝説」のようになると、長い間、商品としても価値を保つことができます。
もっともっと増えていくといいですね!
尾道 もとは海徳寺の鎮守だった 「勇徳稲荷神社」
軒が低く打ち水が涼気を誘う後地小路をくぐりぬけるとまねくが如く道路にセリだした松の木の根元にギョッとするほど鮮やかな朱塗の鳥居が待ち受ける。もともと正一位 勇徳稲荷神社は海徳寺の鎮守であったが、大正十五年に同寺が火災にあい、このため寺は、東久保町の山手に引っ越したが、神社だけは独立し、そのころの名ごりをとどめ「抱二天」の仏様がまつられている。
鎮座はこれまたいつのころかわからないが鏡台に文久二年(一八六二)と書きこんであるところからこれよりさかのばるものとみられ、間口三間ほどの拝殿はそう古くはないが玄関は昭和年代に入り、近くの御嶽教社をとりこわし移し、また鳥居も元市民病院横にあった稲荷様のものといわれる。
もともとは海徳寺の鎮守であったが、1926年海徳寺が火災にあい、山手に引っ越した。そのため、神社は独立しました。
地に足の着かない生活!
一定の形を保って生きていると、そのパターンで売り込みやお願いをされると、ついついOKしやすいようです。この形の多くは、教育でなどつくられるのでしょう。また、宗教などでもつくられるのでしょう。
歴史だけでなく現在でも、国民を従えるために、教育や宗教を利用し、情報統制をして支配しています。
歴史で残されている文献などのほとんどは、勝者側の視点で書かれており、歴史学者は文献を分析し、教育に利用しています。
お寺や神社などが造られた経緯も、立派なことをした、という視点で書かれています。でも、自分が非常な残酷なことをしたきたので、その罪を許してもらうために造営したとは、書かれていません。
小説も、残酷なことをした人でも、英雄扱いで書かれています。そうしないと売れないからでしょう。
ということは、一般的な人は、残酷なことは見たくないし、早く忘れたいのでしょうね。感動できる部分だけ見たいようにパターン化されているのでしょうか?
座間 不動池には豊富な湧水が「心岩寺」
開山:成英玉開基:白井織部是房(この地の郷士)当時座間7村の地頭職臨済宗建長寺派本尊:釈迦如来立像(運慶作、長5寸5分)
創建1461年(寛正元年)頃 臨済宗建長寺の寺院で、建長寺第75世悦岩興惟(えつがんこうい)禅師の法弟成英玉(せいえいぎょく)が開山し、この地の郷士白井織部是房(おりべこれふさ)が開基となり、白井氏の持仏堂を寺としたもの。山号は初め久光山心願寺、後に座間山心巌寺、江戸時代に座間山心岩寺と改められました。