孤独な時間というのは人間の成長に必要!

 男女の不平等が社会的な問題とされています。平等とは「差別をせずに同じようにするこ」。「平」はやすらか、おだやか。「等」は、同じものをそろえて整理する。という意味もあります。もし、男女(男女に限らず)違いがあるのなら、その違いを考慮しながら、「おだやかなになるように、そろえ整理する」というように解釈することもできると思います。
 他の生物が人間を見れば、どれも同じようにしか見えないのでしょう(人がサルを見ても、なかなか見分けがつかないように)。普段、他の人を見るときに、無意識に何かしらの違いを見つけようとしています。違いにしか目が向いていないのでしょう。サルが、人間のテストの点数が100点と20点の人の違いを意識するのでしょうか?
 そういえは、テストには記述問題がありますが、先生が点数をつけるとき(100点満点の時)100点以上の点数をつけたいこともあるのでしょう。昔は103点とか、105点とかをつける先生がたまにおられましたが、点数をパソコンに入力するようになり、100点以上は受け付けられなくなっています。これも平等ですね!

福山 鞆 見事な石造物が「阿弥陀寺」

 永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
 江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

コミュニケーションをとりたいのに!

 ライオンのオスは、家族とどのようにコミュニケーションしているのでしょうか?
 家族に対する役割は、縄張りを守ること、人間で言えば武士が田畑を守るようなものでしょうか?
 しかし、食べ物を入手する働き(ライオンで言えば「狩」、人間で言えば、数千年前からは「農作業」)は行いません。
 農民と武士のコミュニケーションがそれほどないように、役割を中心に集団を作っていれば、それでいい、ということなのでしょうか?
 今の社会では、家族のコミュニケーションがものすごく大事なものとして、情報が発信されています。でも、1970年代頃まででしょうか、「亭主元気で留守が良い」が常識でした。ほんとうはどちらが良いのでしょうか?
 2012年の研究では、夫婦で、男性が仕事で最も忙しい40代のとき、女性の幸福度が高く、男性の年齢が上がって行くにつれ、女性の幸福度が下がっているそうです!

鎌倉 かまどの神・火の神の荒神さまを祀る「巽神社」

坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社(801年創建)
 祭神:津日女生命、奥津日子命、火産霊命
 延暦20年(801年)坂上田村麻呂は征夷大将軍として陸奥国の蝦夷を降し、現在の岩手県奥州市、盛岡市に城を築きました。
 その東征の際、奥津日女生命、奥津日子命、火産霊命を葛原岡(源氏山)に勧請したのが、巽神社の始まりといわれています。
 その後、葛原岡から現在の地に移され寿福寺の鎮守神として敬われ、寿福寺の巽の方角にあることから巽神社と改称されました。

ヒューマンタッチ感覚が薄れていく!

 新コロナ伝染病で、人同士の接触が難しい状態が続いています。これが原因で人づきあいも下手になっていくのでしょうか? 人付き合いが下手になってきたのは、昭和の高度成長期の少し前から、電話が普及し、核家族が増えていき、その後は、携帯電話になり、インターネットが拡大した結果なのでしょうか?
 言葉による情報が多量になってきた現在でも、「痛みに関する言葉」は、オンライン診療がささやかれている現在でも、まったくといっていいほど整備されていないですね。方言の中には、その地方特有の病気に対する言葉が多くあると思われるのですが、一般的な言葉にはなっていないですね。
 数万年かけて人同士が築いてきたノウハウ、特に視覚や言語以外の感覚が鈍くなってきているのでしょう。 また、人だけでなく、自然が発している危険信号を受信する感覚も、劣化しているようです!

相模原南区 前田家が鷹狩りによく来た「長松寺」

 鎌倉公方足利氏満開基となり、曇芳(どんぽう)(1399年没)を開山として臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として建立。
 1430年再建。その後何度か衰退を繰り返したが小田原北条氏の時代お堂が再建された。また、換室宗応(かんしつそうおう)という僧が代官平岡岡右衛門吉道とともに曹洞宗に改宗し、津久井の功雲寺末寺として再度開基された。
 1649年に寺領十石の朱印状(寄進状)が与えられている。

食糧危機も控えています!

 食糧問題が深刻化すると予想されています。昔の八百屋さんや魚屋さんは、夕方近くになると売れ残り対策のため、お客さんに、その家の家族構成を考慮しながら、料理の仕方を教え、売れ残りそうな食品をなんとか売る店がありました。しかし、現在のスーパーはお客さん任せで、売れ残りそうな食品を使った料理の仕方を教える店などはありません。今の技術では、店の入口のディスプレイを数台置き、売れ残りそうな食材を使ったいろいろな料理を流し、それをお客が選択し、人数と割増率(たくさん食べる家族がいるので1割プラスとか、5%マイナスとか)を入力すると、お店がその量をひとまとめにして準備し、レジで領収書にQRコードを印刷、それをスマホなどで読み取れば、その料理方法の説明した画面にたどり着くようなサービスを、お客に提供するようなお店があるといいのですが。地域によってはもうあるのかな?

尾道 生口島 ここはイタリア?「耕三寺 未来心の丘」

 境内北方に位置する。瀬戸田の町と瀬戸内海を見渡せるイタリア産大理石を用いた環境芸術。彫刻家杭谷一東の作。
 制作にあたって、「金は出すが、口は出さない。」と言って制作を依頼したとか。イタリアで制作し、ここで組み立て、調整した。
 仏教護法の十二天よりテーマが設定されているようです。「十二天」とは、古代インドの聖典ヴェーダに登場していた神々が仏教に取り入れられ、十二天となりました。
 中国では唐代に成立し、日本には平安時代前期に持ち込まれたそうです。
 東西南北などの八方位に、天・地と、さらに昼・夜が加わって、十二天のかたちができあがりました。密教では曼荼羅(まんだら)に描かれ、主要な地位を占めています。

貧乏な人とは、いくらあっても満足しない人のこと!

 幸福な国のブータンでは、おそらく「満足しない人=貧乏人」ということなので 幸せな国ブータンの平均年間所得は15万円程度、ということは「不幸な人=満足しない人」ということなのでしょう。
 日本でも70年ほど前(1950年頃)はみんな貧乏だったのですが、それほど「不幸だ」という認識はなかったように思います。ある意味、生きていることに感謝、ということだったのでしょう。
 経済成長し、豊かになり、そして格差が生まれ、不幸が生まれてきたのでしょうか。
 テレワークの普及で地方に移り、家庭菜園が広がると、食べることに対する不安が少なくなってきます。すると、少しは幸せな気分になっていくのでしょうか?

鎌倉 明治の王政復古で祀られた「日野俊基朝臣の墓」

 日野俊基は、討幕運動の先駆者として、明治天皇が、忠臣として再評価されました。
 明治維新後、後醍醐天皇に忠義を尽くした人達が人達が祀られました。

 1331年、後醍醐天皇は二度目の倒幕計画を企てたが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された。
 日野俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。

 明治維新は、幕府を倒して実現した王政復古で、いわば南北朝のリターンマッチとして堀起したと位置づけられたようです。

自分の中のかわいらしさを引きだす!

 どんなときでも、「自分のいいとき」のイメージを思い出して、人と接することが大事ですね。いつお眉間にしわをよせているようでは、相手は警戒してしまいます。「いいとき=微笑(笑顔)」を顔に浮かべて人に接していると、いいことが増えてくるのでしょう。
 その特性を利用して人をだます人もいるので、笑顔を浮かべながらも、無防備ではいけないのでしょう。今はそんな時代になっているようです!

厚木 学問・音楽・除災・至福の「大釜大弁財天尊」

 広沢寺温泉入口の駐車場より1km程行った所に大釜弁財天があります。
 3m余りの巨石が2つ、掌を合わせたように並んでおり、奥行4mの内部には七沢石で造った蛇の宇賀神(文政5年銘、とぐろを巻いた形)と高さ60cmのほこらの中にはいった弁天様が祭られています。
 その2つの巨石に前面には渓流が勢いよく流れ、直径1m50cmの一の滝壺、3m40cmの二の滝壷で渦となり次の1m50cmの滝壷、2m80cmの滝壷、2m50cmの滝壷へと巨岩を縫って落下しています。昔は7つの滝壷があり荘厳な眺めであったということです。

好き勝手に生きていない人は「いい人」!

 新コロナで疫病が蔓延しているときのエチケットの代表は、正しくマスクの着用をすること、なのですが、「オレは好き勝手に生きるんだ」と主張したいのか、マスクを着用しない人がいます。
 少し昔までは、疫病が流行したとき、対策をしなかった人の多くは自然淘汰されてきたのでしょうか? 医療が発達してくると、自然淘汰から経済格差へと移行するのでしょうか? これも広い意味で自然淘汰なのでしょうか。
 サルの社会でも、オスサルの中には群れから離れて単独で生きるサルもいます。そして、いろいろな群れに入ったり、出たり、その中には長期間単独で暮らすサルもいるそうです。人間も、集団の中から離れる人もいますが、集団の中に入り込もうとする人もいますね。

尾道 もともとは海徳寺の鎮守だった「勇徳稲荷神社」

軒が低く打ち水が涼気を誘う後地小路をくぐりぬけるとまねくが如く道路にセリだした松の木の根元にギョッとするほど鮮やかな朱塗の鳥居が待ち受ける。もともと正一位勇徳稲荷神社は海徳寺の鎮守であったが、大正十五年に同寺が火災にあい、このため寺は、東久保町の山手に引っ越したが、神社だけは独立し、そのころの名ごりをとどめ「抱二天」の仏様がまつられている。
 鎮座はこれまたいつのころかわからないが鏡台に文久二年(一八六二)と書きこんであるところからこれよりさかのばるものとみられ、間口三間ほどの拝殿はそう古くはないが玄関は昭和年代に入り、近くの御嶽教社をとりこわし移し、また鳥居も元市民病院横にあった稲荷様のものといわれる。

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ミスを犯す五つの状況!

 子供時代から、多くの失敗をする経験は大事なことでしょう。子供時代の失敗の多くは、テストでの間違いではなく、遊びのなかで“危険”な経験を積むことでしょう。
 この経験なかで、「危険を感じたとき、ゆっくりと慎重に考える」ことが、自分の身を守ることに大事なことを経験します。

鎌倉 学僧達の修行道場であった「 千手院」

 光明寺が「檀林(だんりん)」という仏教の最高の学問をおさめるところであったとき、各地から多くの学僧が集まってきました。千手院は、そうした学僧達の修行道場である僧坊(そうぼう)の一つでした。代々の住職は学頭(がくとう)といわれ、学僧達の指導者だったといわれています。学頭の墓のいくつかが本堂左手の墓地にあります。
 江戸時代の中頃からは学僧の数も少なくなったので、住職は近所の子ども達に読み書き、そろばんを教えるようになったようで、境内には寺子屋の記念碑が立っています。

色を見た場合、補色が残像として残る!

 色に対する人間の反応は、やはり、生活環境の歴史の蓄積からきているのでしょうか? 子供時代、昆虫を殺したとき、魚を殺したとき、動物を殺したとき、心の反応は違います。その違いが色と結びついているのでしょうか? 今の子供は、生物を殺すという場面を経験することが少ないので、これからは違ってくるのでしょうか、それと既にDNAに刻み込まれているのでしょうか?

鎌倉 北条時宗公産湯の井がある「甘縄神明宮」

 急な石段を上ると甘縄神明神社の拝殿と、その奥に本殿があります。この神明神社は天照大御神をまつる神社です。神社の縁起では、奈良時代の和銅年間(708年~715年)に、このあたりの豪族の染屋太郎時忠(そめやとろうときただ)が建てた鎌倉で一番古い神社(昭和の町村合併前まで)だといわれ、長谷の鎮守です。
 平安時代中期の武将 源頼義が甘縄神明宮で子供が欲しいと祈願したところ、本当に子供を授かったことから“子宝のご利益がある神社”として有名になりました。

人は、聴く能力の四分の一しか使っていない!

 「聴く」という技術は、かなり難しいものですね。どうしても、自分の知識、そして先入観をもとに聴いてしまいます。相手の価値観をもとに聴くことは、かなり難しいものです。また、話す方も、聴く方を観察しながら話す方もいれば、一方的に話す方もいます。もっとも、話の中で、真剣に意思疎通が必要な会話はごく少ないので、それほどは気にしなくても良いのですが、重要な話しを、軽めに話す人もいますので、見逃してしまいます。話す方も、聴く方も、真剣な話しかどうか、見逃さないようにしなければなりませんね。難しいですね!

座間 行基が金光星の如く輝くのを見た「星谷寺」

 行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として建立されたも。
  お寺の山門に怒った顔をして立っている仁王像は、ふつうペアをなしており、一方は口を大きく開き(それを「阿(あ)」形(ぎょう)という)、もう一方は口をへの字に結んでいる(それを「吽(うん)」形(ぎょう)という)。
 仁王は金剛力士とも呼ばれ、仏法を守護し邪悪をしりぞけるために寺の入口に立っている。一体の仁王像もあるが、ペアの仁王像では一方は「阿」形、もう一方は「吟」形の姿で表現される。